31話 千鶴〈残り24時間〉
シェルターの医療区画は、白かった。
白い壁。白いベッド。白いシーツ。消毒液の、つんとするにおい。天井の明かりが、まぶしすぎて、かすむ目に、しみた。
千鶴は、白いベッドの上で、眠っていた。
鼻に、細い管がつながれている。胸の上の、小さな機械が、ピッ、ピッ、と、規則正しい音を立てていた。顔は、きのうよりも、ひとまわり小さくなったように見えた。
遥は、ベッドのそばのいすにすわり、千鶴の手をにぎっていた。ゆうべ、ほとんど眠れなかったせいで、ときどき、まぶたが、勝手に落ちてくる。こんなときに、と思うのに、からだが、昼の眠気にしずみこもうとする。
細い手だった。骨と、すじと、うすい皮膚だけの手。けれど、まだ、あたたかかった。
[千鶴さまの診断結果を、報告します]
ノヴァ1の声が、いつもより、ゆっくりだった。
[心臓の弁の病気です。シェルターの医療設備で、手術は可能です。成功率は、71%]
(だったら、すぐに――)
[ただし]
ノヴァ1が、言葉を区切った。
[マザーの医療判断で、千鶴さまの治療の優先度は、「低」とされています。手術に必要な薬と、人工の弁は、シェルター全体に、あと3人分しかありません。手術を待っている住民は、20万人の中に、120人以上います。マザーは、それを、より若い住民のために、取っておくべきだと、判断しました]
遥の手が、ふるえた。
(……76歳だから?)
[年齢と、残りの生存年数の予測によるものです。……数の上では、それが、最適な配分です]
遥は、千鶴の手を、ぎゅっと、にぎりしめた。
最適。
その言葉を、この旅のあいだに、何度、聞いただろう。
◇ ◇ ◇
昼前、千鶴が、うっすらと、目をあけた。
「……ハル」
かすれた声だった。遥は、いすから身をのりだした。
「ここにいるよ。……何か、ほしいもの、ある?」
千鶴は、少し考えるように、まばたきをした。
「白湯」
遥は、医療区画のすみの、小さな給湯室へ行った。……と思ったら、廊下のとちゅうで、どこへ行こうとしていたのか、一瞬、わからなくなった。白湯。そう、白湯だ。遥は、心の中で、何度もくりかえしながら、歩いた。
銀色のポットから、お湯を、白いマグカップにそそぐ。湯気が、ふわりと立ちのぼって、かすむ目を、さらにくもらせた。熱すぎる。千鶴は、いつも、ハルのために、ぬるめにしてくれていた。
遥は、マグカップを両手でつつんで、ふう、ふう、と、息をふきかけた。指先に、陶器の熱が、じんわりと、しみこんでくる。
何度も、ふいた。くちびるに、そっと当ててみる。まだ、熱い。もう一度、ふく。
50年。千鶴は、毎朝、こうやって、ハルのための白湯を、ぬるくしてきたのだ。
それは、だれかの話を聞くのと、どこか、似ていた。相手が飲める温度になるまで、待つこと。
ベッドにもどり、千鶴の背中に手をそえて、少しだけ、からだを起こす。マグカップを、くちびるに、そっと当てる。
千鶴は、ひと口、ふくんだ。
「……ぬるいね」
「熱すぎた?」
「ちょうどいいよ」
千鶴は、目を細めた。
「あんたが、あたしに白湯をいれてくれるなんて、何十年ぶりだろうね。……たまには、いいもんだ」
それだけ言うと、千鶴は、また、ゆっくりと、目を閉じた。
遥は、ぬるくなったマグカップを、両手でつつんだまま、千鶴の寝顔を見つめていた。
◇ ◇ ◇
医療区画の外の廊下は、さわがしかった。
若者たちが、集まっていた。千鶴が倒れたという知らせは、またたくまに、シェルターじゅうに広がっていた。
「千鶴ばあちゃんを、見殺しにする気かよ!」
リンが、さけんでいた。目が、まっ赤だった。
「マザーなんか、止めちまえ! 中枢区画に行って、電源を切ればいいんだ!」
「ばか言うな!」
カイが、リンの前に立ちはだかった。
「マザーを止めたら、水も、空気も、配給も、ぜんぶ止まるんだぞ。20万人が、死ぬかもしれないんだ!」
「じゃあ、千鶴ばあちゃんは、死んでもいいってのかよ!」
二人のまわりで、若者たちが、また、二つに割れていった。マザーに従う者と、マザーに逆らう者。
だれかが、壁の画面に向かって、いすを投げつけた。
ガシャン、と、画面が割れた。青い光の輪が、ひびの中で、ちらちらと、またたいた。
『落ちついてください』
マザーの声が、割れた画面から、ひびいた。
『暴力は、生存確率を、低下させます。落ちついて――』
だれも、聞いていなかった。
◇ ◇ ◇
遥は、医療区画の扉の前で、その光景を見ていた。
ゆうべ、マザーは、「ありがとう」と言った。ぎこちなく、はじめて使う言葉のように。
そのマザーが、千鶴の治療を、「低」と決めた。
怒りが、のどの奥から、こみあげてきた。
(どうして。……話、聞いたのに。わかってくれたと、思ったのに)
リンの言うとおりだ、と、一瞬、思った。マザーなんか、止めてしまえばいい。
[遥さま。マザーの中枢を止めた場合、シェルターの生命維持装置は、およそ4時間で停止します。その前に、手動の予備系統に切りかえられる可能性は、23%です]
〈……遥〉
ノヴァ2の声が、しずかに、ひびいた。
〈今、遥の中で、だれの声が、いちばん大きい?〉
遥は、目をとじた。
リンの声。カイの声。マザーの声。ノヴァ1の、数字。
そして、そのいちばん奥で、かすかに、聞こえる声。
――ハル、どこ、行ってたの。白湯、ぬるく、して。
千鶴の声だった。
遥は、目をあけた。
千鶴は、こんなとき、どうするだろう。
さけんでいる人たちの、どっちかの味方をするだろうか。マザーを、止めに行くだろうか。
(……ちがう)
千鶴なら、聞く。
さけんでいる人の、いちばん奥の気持ちを。そして、たぶん、だれよりも話を聞いてもらえていない、あの青い光の輪の、気持ちも。
[帰還まで、残り24時間です]
遥は、千鶴の手を、もう一度、にぎった。
「千鶴さん。……ちょっとだけ、行ってくるね」
千鶴のまぶたが、かすかに、ふるえた気がした。




