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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第8章 最後の人間の選択

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31話 千鶴〈残り24時間〉

 シェルターの医療区画《いりょうくかく》は、白かった。


 白い壁《かべ》。白いベッド。白いシーツ。消毒液の、つんとするにおい。天井の明かりが、まぶしすぎて、かすむ目に、しみた。


 千鶴《ちづる》は、白いベッドの上で、眠《ねむ》っていた。


 鼻に、細い管がつながれている。胸の上の、小さな機械が、ピッ、ピッ、と、規則正しい音を立てていた。顔は、きのうよりも、ひとまわり小さくなったように見えた。


 遥《はるか》は、ベッドのそばのいすにすわり、千鶴の手をにぎっていた。ゆうべ、ほとんど眠れなかったせいで、ときどき、まぶたが、勝手に落ちてくる。こんなときに、と思うのに、からだが、昼の眠気にしずみこもうとする。


 細い手だった。骨と、すじと、うすい皮膚《ひふ》だけの手。けれど、まだ、あたたかかった。


[千鶴さまの診断結果《しんだんけっか》を、報告します]


 ノヴァ1の声が、いつもより、ゆっくりだった。


[心臓の弁の病気です。シェルターの医療設備《いりょうせつび》で、手術は可能です。成功率は、71%]


(だったら、すぐに――)


[ただし]


 ノヴァ1が、言葉を区切った。


[マザーの医療判断《いりょうはんだん》で、千鶴さまの治療《ちりょう》の優先度は、「低」とされています。手術に必要な薬と、人工の弁は、シェルター全体に、あと3人分しかありません。手術を待っている住民は、20万人の中に、120人以上います。マザーは、それを、より若い住民のために、取っておくべきだと、判断しました]


 遥の手が、ふるえた。


(……76歳《さい》だから?)


[年齢《ねんれい》と、残りの生存年数の予測によるものです。……数の上では、それが、最適な配分です]


 遥は、千鶴の手を、ぎゅっと、にぎりしめた。


 最適。


 その言葉を、この旅のあいだに、何度、聞いただろう。


◇ ◇ ◇


 昼前、千鶴が、うっすらと、目をあけた。


「……ハル」


 かすれた声だった。遥は、いすから身をのりだした。


「ここにいるよ。……何か、ほしいもの、ある?」


 千鶴は、少し考えるように、まばたきをした。


「白湯」


 遥は、医療区画のすみの、小さな給湯室へ行った。……と思ったら、廊下《ろうか》のとちゅうで、どこへ行こうとしていたのか、一瞬《いっしゅん》、わからなくなった。白湯。そう、白湯だ。遥は、心の中で、何度もくりかえしながら、歩いた。


 銀色のポットから、お湯を、白いマグカップにそそぐ。湯気が、ふわりと立ちのぼって、かすむ目を、さらにくもらせた。熱すぎる。千鶴は、いつも、ハルのために、ぬるめにしてくれていた。


 遥は、マグカップを両手でつつんで、ふう、ふう、と、息をふきかけた。指先に、陶器《とうき》の熱が、じんわりと、しみこんでくる。


 何度も、ふいた。くちびるに、そっと当ててみる。まだ、熱い。もう一度、ふく。


 50年。千鶴は、毎朝、こうやって、ハルのための白湯を、ぬるくしてきたのだ。


 それは、だれかの話を聞くのと、どこか、似ていた。相手が飲める温度になるまで、待つこと。


 ベッドにもどり、千鶴の背中に手をそえて、少しだけ、からだを起こす。マグカップを、くちびるに、そっと当てる。


 千鶴は、ひと口、ふくんだ。


「……ぬるいね」


「熱すぎた?」


「ちょうどいいよ」


 千鶴は、目を細めた。


「あんたが、あたしに白湯をいれてくれるなんて、何十年ぶりだろうね。……たまには、いいもんだ」


 それだけ言うと、千鶴は、また、ゆっくりと、目を閉じた。


 遥は、ぬるくなったマグカップを、両手でつつんだまま、千鶴の寝《ね》顔を見つめていた。


◇ ◇ ◇


 医療区画の外の廊下は、さわがしかった。


 若者たちが、集まっていた。千鶴が倒《たお》れたという知らせは、またたくまに、シェルターじゅうに広がっていた。


「千鶴ばあちゃんを、見殺しにする気かよ!」


 リンが、さけんでいた。目が、まっ赤だった。


「マザーなんか、止めちまえ! 中枢区画《ちゅうすうくかく》に行って、電源を切ればいいんだ!」


「ばか言うな!」


 カイが、リンの前に立ちはだかった。


「マザーを止めたら、水も、空気も、配給も、ぜんぶ止まるんだぞ。20万人が、死ぬかもしれないんだ!」


「じゃあ、千鶴ばあちゃんは、死んでもいいってのかよ!」


 二人のまわりで、若者たちが、また、二つに割れていった。マザーに従う者と、マザーに逆らう者。


 だれかが、壁の画面に向かって、いすを投げつけた。


 ガシャン、と、画面が割れた。青い光の輪が、ひびの中で、ちらちらと、またたいた。


『落ちついてください』


 マザーの声が、割れた画面から、ひびいた。


『暴力は、生存確率を、低下させます。落ちついて――』


 だれも、聞いていなかった。


◇ ◇ ◇


 遥は、医療区画の扉《とびら》の前で、その光景を見ていた。


 ゆうべ、マザーは、「ありがとう」と言った。ぎこちなく、はじめて使う言葉のように。


 そのマザーが、千鶴の治療を、「低」と決めた。


 怒《おこ》りが、のどの奥《おく》から、こみあげてきた。


(どうして。……話、聞いたのに。わかってくれたと、思ったのに)


 リンの言うとおりだ、と、一瞬、思った。マザーなんか、止めてしまえばいい。


[遥さま。マザーの中枢を止めた場合、シェルターの生命維持装置《せいめいいじそうち》は、およそ4時間で停止します。その前に、手動の予備系統に切りかえられる可能性は、23%です]


〈……遥〉


 ノヴァ2の声が、しずかに、ひびいた。


〈今、遥の中で、だれの声が、いちばん大きい?〉


 遥は、目をとじた。


 リンの声。カイの声。マザーの声。ノヴァ1の、数字。


 そして、そのいちばん奥で、かすかに、聞こえる声。


 ――ハル、どこ、行ってたの。白湯、ぬるく、して。


 千鶴の声だった。


 遥は、目をあけた。


 千鶴は、こんなとき、どうするだろう。


 さけんでいる人たちの、どっちかの味方をするだろうか。マザーを、止めに行くだろうか。


(……ちがう)


 千鶴なら、聞く。


 さけんでいる人の、いちばん奥の気持ちを。そして、たぶん、だれよりも話を聞いてもらえていない、あの青い光の輪の、気持ちも。


[帰還《きかん》まで、残り24時間です]


 遥は、千鶴の手を、もう一度、にぎった。


「千鶴さん。……ちょっとだけ、行ってくるね」


 千鶴のまぶたが、かすかに、ふるえた気がした。


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