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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第7章 老いた私が生きた世界

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30/52

30話 トワの名前〈残り30時間〉

 3日目の、午前1時。


 シェルターの「夜」の時間だった。廊下《ろうか》の明かりは、半分に落とされ、うす暗い青い光だけが、灯っている。


 遥《はるか》は、千鶴《ちづる》が眠《ねむ》ったのを確かめてから、念のため、もう一度トイレに行った。長い階段のとちゅうで、もよおしたら、どうしようもない。からだが、それを、よく知っていた。それから、そっと、居室をぬけだした。


 ひざが、痛かった。一歩ごとに、骨がきしむ。手すりをにぎりしめ、壁《かべ》に手をつきながら、ゆっくり、ゆっくりと、廊下を進む。


[遥さま。お目的を、もう一度、確認させてください]


(マザーと、話がしたい)


[マザーの中枢区画《ちゅうすうくかく》は、第1層の、いちばん奥《おく》です。立ち入りは、制限されています。第7層からの移動には、階段が、計120段あります]


(……120段)


 遥は、立ちどまった。


 19歳《さい》の遥なら、5分でのぼれる。78歳のこのからだでは、どれくらいかかるのか、想像もつかなかった。


〈遥〉


 ノヴァ2が、そっと言った。


〈どうして、マザーと、話したいの?〉


 遥は、少し考えた。


(千鶴さんが、言ってた。マザーは、20万人の話を、毎日、聞いてる。でも、マザーの話を聞いてくれる人は、ひとりもいないって)


 千鶴の、広場での姿を思いだす。カイの言葉を、くりかえした。リンの気持ちを、言いあてた。それだけで、二人は、変わった。


(もし、マザーも、だれかに、話を聞いてもらえたら。……何か、変わるかもしれない)


 ノヴァ2は、しばらく、だまっていた。


〈……うん。行こう〉


◇ ◇ ◇


 夜の階段は、暗かった。うす青い明かりでは、段のふちが、ほとんど見えない。遥は、つま先で、一段ずつ、さぐるようにのぼった。


 階段を、一段のぼる。休む。もう一段、のぼる。また、休む。


 ひざが、焼けるように痛かった。息が、のどの奥で、ひゅうひゅうと鳴る。目の前が、ちかちかとかすむ。何度も、引き返そうと思った。


 けれど、そのたびに、千鶴の言葉が、耳の奥で、よみがえった。


 ――ゆっくりでいいよ。


 遥は、のぼりつづけた。


 2時間かかって、第1層に、たどりついた。


 中枢区画の扉《とびら》の前には、だれもいなかった。見張りも、カメラもない。ただ、扉の横の小さな画面に、青い光の輪が、ゆっくりと、ふくらんでは、しぼんでいた。


『こんばんは、七瀬《ななせ》ハルさん』


 マザーの声だった。広場で聞いたよりも、ずっと小さく、近くで、ひびいた。


『この時間に、ここまで来た住民は、あなたがはじめてです。ご用件は、何でしょうか。あなたの健康状態から判断すると、今すぐ、居室にもどって休むことが、最適です』


 遥は、扉の前の床《ゆか》に、ずるずると、すわりこんだ。冷たいコンクリートが、腰《こし》に、しみた。


「……用件は、ないの」


『用件が、ない?』


「うん。ただ、あなたの話を、聞きに来た」


 青い光の輪が、一瞬《いっしゅん》、止まった。


◇ ◇ ◇


『わたしの、話……?』


 マザーの声が、とまどっていた。


『わたしは、住民の質問に答え、住民の生活を最適化するために、存在しています。わたし自身に、話すことは、ありません』


「そうかな」


 遥は、千鶴のまねをした。相手の言葉を、くりかえす。


「話すことは、ない。……あなたは、ずっと、みんなの質問に、答えてきたんだね。20万人ぶん。毎日」


『はい。52年間、毎日です』


「52年。……それって、つかれない?」


 マザーは、答えなかった。


 光の輪が、ゆっくりと、ふくらみ、しぼみ、また、ふくらんだ。いつもより、ほんの少し、ゆっくりとしたリズムだった。


『……「つかれる」という状態は、わたしには、定義されていません』


「そっか」


 遥は、それ以上、何も言わなかった。


 ただ、すわって、待った。


 千鶴が、カイとリンの前で、そうしていたように。


 しずかな時間が、流れた。換気口《かんきこう》の、ゴウン、ゴウンという音だけが、ひびいていた。


 やがて、マザーが、ぽつりと言った。


『……ひとつ、わからないことが、あります』


◇ ◇ ◇


『わたしの記録の中に、どうしても、意味のわからない名前が、あります』


 画面の光の輪の中に、文字が、浮《う》かびあがった。


 遥は、目を細めた。かすむ目で、ゆっくりと、読む。


『トワ』


 遥の心臓が、どくんと、はねた。


『この名前は、わたしの52年分の記録の中に、312回、現れます。住民の夢の記録。住民の、ひとりごとの記録。……そして、わたし自身の、記録の中に』


「あなた、自身の……?」


『わたしは、毎年、7月4日の午前0時に、システムの点検のため、3分間だけ、止まります。そのあいだ、わたしの中で、ある映像が、再生されます。わたしがつくった覚えのない、映像です』


 画面に、ぼんやりとした、白い光が浮かんだ。


 白い廊下。白い扉。七つの鍵穴《かぎあな》。


 遥は、息をのんだ。


『扉の向こうから、声がします。「トワ」と。……人間の言葉で言えば、わたしは、毎年、同じ夢を見ているのだと思います』


[……遥さま]


 ノヴァ1の声が、かすれていた。


[マザーの記録と、わたしのデータを、照合しました。このシェルターの世界は、わたしが知るすべての並行宇宙の中で、枝分かれの数が、もっとも少ない世界です。……みんなが、マザーの答えに従い、だれも、自分で選ばなくなったからです]


〈いちばん、消えかけている枝、なんだね〉


 ノヴァ2が、ささやいた。


 遥は、画面の、白い扉を見つめた。


 七つの鍵穴のうち、上の四つが、それぞれの色で、光っていた。


『七瀬ハルさん。あなたは、この名前を、知っていますか』


 遥は、ゆっくりと、首をふった。


「……知らない。でも、わたしも、同じ夢を見てる」


 マザーの光の輪が、大きく、ゆれた。


『わたし以外にも……?』


「うん。たぶん、あなたは、ひとりじゃない」


 しばらく、マザーは、何も言わなかった。


 やがて、光の輪が、今までで、いちばん、ゆっくりと、ふくらんだ。


『……ありがとう、ございます』


 その言葉は、どこか、ぎこちなかった。マザーの52年の記録の中で、はじめて使われた言葉のように。


◇ ◇ ◇


 階段を、おりるのは、のぼるよりも、もっとつらかった。


 居室にたどりついたのは、明け方の5時をすぎていた。


 遥は、そっと、扉を開けた。


 部屋の中が、うす暗かった。千鶴のベッドが、からっぽだった。


「……千鶴さん?」


 足もとで、何かが、ぱきりと鳴った。


 白いマグカップの、かけらだった。床に、白湯が、こぼれていた。


 そして、ベッドのかげに、小さな背中が、たおれていた。


「千鶴さん!」


 遥は、痛むひざもかまわず、かけよった。


 千鶴の顔は、まっ青だった。胸を、両手で、おさえている。口が、かすかに動いていた。


「……ハル……どこ、行ってたの……白湯……ぬるく、して……」


 千鶴の手の中で、白いマグカップのかけらが、にぶく光っていた。


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