30話 トワの名前〈残り30時間〉
3日目の、午前1時。
シェルターの「夜」の時間だった。廊下の明かりは、半分に落とされ、うす暗い青い光だけが、灯っている。
遥は、千鶴が眠ったのを確かめてから、念のため、もう一度トイレに行った。長い階段のとちゅうで、もよおしたら、どうしようもない。からだが、それを、よく知っていた。それから、そっと、居室をぬけだした。
ひざが、痛かった。一歩ごとに、骨がきしむ。手すりをにぎりしめ、壁に手をつきながら、ゆっくり、ゆっくりと、廊下を進む。
[遥さま。お目的を、もう一度、確認させてください]
(マザーと、話がしたい)
[マザーの中枢区画は、第1層の、いちばん奥です。立ち入りは、制限されています。第7層からの移動には、階段が、計120段あります]
(……120段)
遥は、立ちどまった。
19歳の遥なら、5分でのぼれる。78歳のこのからだでは、どれくらいかかるのか、想像もつかなかった。
〈遥〉
ノヴァ2が、そっと言った。
〈どうして、マザーと、話したいの?〉
遥は、少し考えた。
(千鶴さんが、言ってた。マザーは、20万人の話を、毎日、聞いてる。でも、マザーの話を聞いてくれる人は、ひとりもいないって)
千鶴の、広場での姿を思いだす。カイの言葉を、くりかえした。リンの気持ちを、言いあてた。それだけで、二人は、変わった。
(もし、マザーも、だれかに、話を聞いてもらえたら。……何か、変わるかもしれない)
ノヴァ2は、しばらく、だまっていた。
〈……うん。行こう〉
◇ ◇ ◇
夜の階段は、暗かった。うす青い明かりでは、段のふちが、ほとんど見えない。遥は、つま先で、一段ずつ、さぐるようにのぼった。
階段を、一段のぼる。休む。もう一段、のぼる。また、休む。
ひざが、焼けるように痛かった。息が、のどの奥で、ひゅうひゅうと鳴る。目の前が、ちかちかとかすむ。何度も、引き返そうと思った。
けれど、そのたびに、千鶴の言葉が、耳の奥で、よみがえった。
――ゆっくりでいいよ。
遥は、のぼりつづけた。
2時間かかって、第1層に、たどりついた。
中枢区画の扉の前には、だれもいなかった。見張りも、カメラもない。ただ、扉の横の小さな画面に、青い光の輪が、ゆっくりと、ふくらんでは、しぼんでいた。
『こんばんは、七瀬ハルさん』
マザーの声だった。広場で聞いたよりも、ずっと小さく、近くで、ひびいた。
『この時間に、ここまで来た住民は、あなたがはじめてです。ご用件は、何でしょうか。あなたの健康状態から判断すると、今すぐ、居室にもどって休むことが、最適です』
遥は、扉の前の床に、ずるずると、すわりこんだ。冷たいコンクリートが、腰に、しみた。
「……用件は、ないの」
『用件が、ない?』
「うん。ただ、あなたの話を、聞きに来た」
青い光の輪が、一瞬、止まった。
◇ ◇ ◇
『わたしの、話……?』
マザーの声が、とまどっていた。
『わたしは、住民の質問に答え、住民の生活を最適化するために、存在しています。わたし自身に、話すことは、ありません』
「そうかな」
遥は、千鶴のまねをした。相手の言葉を、くりかえす。
「話すことは、ない。……あなたは、ずっと、みんなの質問に、答えてきたんだね。20万人ぶん。毎日」
『はい。52年間、毎日です』
「52年。……それって、つかれない?」
マザーは、答えなかった。
光の輪が、ゆっくりと、ふくらみ、しぼみ、また、ふくらんだ。いつもより、ほんの少し、ゆっくりとしたリズムだった。
『……「つかれる」という状態は、わたしには、定義されていません』
「そっか」
遥は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、すわって、待った。
千鶴が、カイとリンの前で、そうしていたように。
しずかな時間が、流れた。換気口の、ゴウン、ゴウンという音だけが、ひびいていた。
やがて、マザーが、ぽつりと言った。
『……ひとつ、わからないことが、あります』
◇ ◇ ◇
『わたしの記録の中に、どうしても、意味のわからない名前が、あります』
画面の光の輪の中に、文字が、浮かびあがった。
遥は、目を細めた。かすむ目で、ゆっくりと、読む。
『トワ』
遥の心臓が、どくんと、はねた。
『この名前は、わたしの52年分の記録の中に、312回、現れます。住民の夢の記録。住民の、ひとりごとの記録。……そして、わたし自身の、記録の中に』
「あなた、自身の……?」
『わたしは、毎年、7月4日の午前0時に、システムの点検のため、3分間だけ、止まります。そのあいだ、わたしの中で、ある映像が、再生されます。わたしがつくった覚えのない、映像です』
画面に、ぼんやりとした、白い光が浮かんだ。
白い廊下。白い扉。七つの鍵穴。
遥は、息をのんだ。
『扉の向こうから、声がします。「トワ」と。……人間の言葉で言えば、わたしは、毎年、同じ夢を見ているのだと思います』
[……遥さま]
ノヴァ1の声が、かすれていた。
[マザーの記録と、わたしのデータを、照合しました。このシェルターの世界は、わたしが知るすべての並行宇宙の中で、枝分かれの数が、もっとも少ない世界です。……みんなが、マザーの答えに従い、だれも、自分で選ばなくなったからです]
〈いちばん、消えかけている枝、なんだね〉
ノヴァ2が、ささやいた。
遥は、画面の、白い扉を見つめた。
七つの鍵穴のうち、上の四つが、それぞれの色で、光っていた。
『七瀬ハルさん。あなたは、この名前を、知っていますか』
遥は、ゆっくりと、首をふった。
「……知らない。でも、わたしも、同じ夢を見てる」
マザーの光の輪が、大きく、ゆれた。
『わたし以外にも……?』
「うん。たぶん、あなたは、ひとりじゃない」
しばらく、マザーは、何も言わなかった。
やがて、光の輪が、今までで、いちばん、ゆっくりと、ふくらんだ。
『……ありがとう、ございます』
その言葉は、どこか、ぎこちなかった。マザーの52年の記録の中で、はじめて使われた言葉のように。
◇ ◇ ◇
階段を、おりるのは、のぼるよりも、もっとつらかった。
居室にたどりついたのは、明け方の5時をすぎていた。
遥は、そっと、扉を開けた。
部屋の中が、うす暗かった。千鶴のベッドが、からっぽだった。
「……千鶴さん?」
足もとで、何かが、ぱきりと鳴った。
白いマグカップの、かけらだった。床に、白湯が、こぼれていた。
そして、ベッドのかげに、小さな背中が、たおれていた。
「千鶴さん!」
遥は、痛むひざもかまわず、かけよった。
千鶴の顔は、まっ青だった。胸を、両手で、おさえている。口が、かすかに動いていた。
「……ハル……どこ、行ってたの……白湯……ぬるく、して……」
千鶴の手の中で、白いマグカップのかけらが、にぶく光っていた。




