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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第7章 老いた私が生きた世界

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29話 〈向こうの私〉おばあちゃん、横浜を走る

 七瀬《ななせ》ハルが最初に気づいたのは、ひざが、痛くないことだった。


 ためしに、右のひざを、まげてみた。のばしてみた。もう一度、まげてみた。


 何の音もしない。何の痛みもない。


 ハルは、ベッドの上で、思わず、声をあげて笑った。


「あはは!」


 笑い声が、わかかった。すきとおっていて、高くて、のびやかだった。


 窓から、光がさしこんでいた。


 本物の、太陽の光だった。


 ハルは、ベッドからとびおりた。からだが、羽のように軽い。窓に、かけよる。カーテンを、いきおいよく、あけはなつ。


 空が、あった。


 まっ青な、どこまでも高い、夏の空。白い雲が、ゆっくりと流れている。坂の下の家々《いえいえ》の屋根が、朝日に、きらきらと光っている。どこかで、せみが、じいじいと鳴いていた。


 ハルは、窓わくに両手をついて、しばらく、空を見あげていた。


 52年ぶりの、空だった。


 ほおを、涙《なみだ》が、つたっていった。


◇ ◇ ◇


 机の上の、黒い板の案内を、ハルは、ていねいに読んだ。


『ようこそ、七瀬ハルさま。こちらは、交換相手《こうかんあいて》さま向けのご案内です』


 読みおえると、ハルは、手のひらで、耳たぶを、そっとつつみこむように、なでた。


(……七瀬遥《ななせはるか》、19歳《さい》。わたしの、もう一人)


 この子は、空のある世界に、生きている。


 うらやましい、と、一瞬《いっしゅん》、思った。


 けれど、その思いは、すぐに、べつの思いに変わった。この子が、今、わたしのからだで、あの地下にいる。ひざの痛いからだで。目のかすむからだで。千鶴《ちづる》のとなりで。


(千鶴を、たのんだよ)


 ハルは、心の中で、つぶやいた。


◇ ◇ ◇


 ハルは、走った。


 家を出て、坂をかけおりる。風が、ほおに、髪《かみ》に、ぶつかってくる。足が、ぐんぐん前に出る。ひざは、まったく痛くない。息が、はずむ。心臓が、どくどくと、元気よく打っている。


 川ぞいの道に出た。


 朝の光の中を、川が、きらきらと流れていた。水のにおい。草のにおい。土手の上を、犬を散歩させている人が、ゆっくり歩いている。自転車が、チリリンと、ベルを鳴らして、追いこしていく。


 ハルは、走りながら、何度も、空を見あげた。


 大崩壊《だいほうかい》の前の日も、こんな空だった。


 あのころ、ハルは、26歳だった。まだ、千鶴とは、出会っていなかった。空があることも、川が流れていることも、走れることも、ぜんぶ、あたりまえだと思っていた。


 あたりまえのものは、なくなってから、はじめて、あたりまえじゃなかったと、わかる。


 ハルは、走りつづけた。息が切れるまで。足が、もう前に出なくなるまで。


 土手の草の上に、大の字に、たおれこんだ。


 草が、背中に、ちくちくした。太陽が、まぶしかった。


 ハルは、目をとじて、思いきり、笑った。


◇ ◇ ◇


 その日の午後、ハルは、丘《おか》の上の墓地にいた。


 黒い板の案内には、遥の父・七瀬航(わたる)の墓の場所も、ちゃんと書かれていた。


 墓地は、しずかだった。セミの声と、遠くの電車の音。白い花を、一束、買ってきた。墓石の前に、そなえる。


 『七瀬家之墓《ななせけのはか》』。


 ハルは、手をあわせた。


(はじめまして。……わたしも、七瀬です)


 ハルの世界の、ハルの父は、大崩壊の日に、行方がわからなくなった。最後に、どんな話をしたのかも、もう、思いだせない。


 この世界の遥も、父親と、最後に、けんかをしたのだという。案内には、そこまでは書いていなかった。けれど、このからだが、教えてくれた。墓石の前に立ったとたん、胸の奥《おく》が、ぎゅっと、しめつけられたのだ。言えなかった言葉が、のどの奥に、ずっと、つかえている。


 ハルは、墓石に、そっと手をふれた。夏の日ざしで、石は、あたたかかった。


(この子は、ずっと、言えずにいるんですね。……だいじょうぶ。言える日は、ちゃんと来ますよ)


◇ ◇ ◇


 夕方、家にもどると、ハルは、二階の、閉じたドアの前に立った。


 このドアの向こうに、遥の父の書斎《しょさい》がある。


 ハルは、少し、迷った。相手の人生を、こわしてはいけない。


 けれど、78年生きてきたハルには、わかっていた。このドアの向こうには、この子が、ひとりでは、まだ開けられないものがある。


 ハルは、ドアを開けた。


 紙と、ほこりのにおい。机の上に、黒い革の手帳。表紙に、『7ルーティン』。


 ハルは、いすにすわり、手帳を開いた。


 最初のページから、ゆっくりと、読んでいった。メガネをかけかえる。すきまの一秒。着地点から飛べ。急がない宝物から。ふたりとも勝つテーブル。


 そして、ルーティン5のページで、ハルの手が、止まった。


『ルーティン5「耳が先、口はあと」

人は、わかってもらえたと感じたとき、はじめて、聞く耳をもつ。

まず、聞け。くりかえせ。気持ちを、言いあてろ。

自分のことを話すのは、そのあとでいい』


 ハルは、思わず、笑った。


(千鶴と、同じことを言ってる)


 付箋《ふせん》には、父の字で、小さな書きこみがあった。


『遥は、最近、話してくれない。こっちが、聞いていないからだ。今夜こそ、聞く』


 日付は、父が倒《たお》れる、3日前だった。


◇ ◇ ◇


 ハルは、ページをめくりつづけた。ルーティン6。ルーティン7。


 そして、最後のページ。


 そこには、ほかのページとはちがう、少しふるえた字で、長い書きこみがあった。


 いちばん上に、『遥へ。』と、書かれていた。


 ハルは、それを、さいごまで、ゆっくりと、読んだ。


 読みおえると、ハルは、手帳を、しずかに閉じた。


 しばらく、何も言わずに、窓の外を見ていた。夕焼けが、空を、ばら色にそめていた。


 それから、ハルは、遥の机から、一冊のノートを持ってきた。表紙に、『人生のコンパス(下書き)』と書かれたノート。


 最初のページに、一行だけ、遥の字があった。


『七瀬遥は、描《か》くことから、もう逃《に》げなかった』


 ハルは、その下に、自分の字で、小さく、書き足した。


『だいじょうぶ。』


 それだけだった。


 ハルは、ノートを閉じると、遥の部屋の窓を開けた。夏の夜の風が、カーテンを、ふわりとゆらした。


 地下の世界では、一度も感じたことのない、風だった。


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