29話 〈向こうの私〉おばあちゃん、横浜を走る
七瀬ハルが最初に気づいたのは、ひざが、痛くないことだった。
ためしに、右のひざを、まげてみた。のばしてみた。もう一度、まげてみた。
何の音もしない。何の痛みもない。
ハルは、ベッドの上で、思わず、声をあげて笑った。
「あはは!」
笑い声が、わかかった。すきとおっていて、高くて、のびやかだった。
窓から、光がさしこんでいた。
本物の、太陽の光だった。
ハルは、ベッドからとびおりた。からだが、羽のように軽い。窓に、かけよる。カーテンを、いきおいよく、あけはなつ。
空が、あった。
まっ青な、どこまでも高い、夏の空。白い雲が、ゆっくりと流れている。坂の下の家々《いえいえ》の屋根が、朝日に、きらきらと光っている。どこかで、せみが、じいじいと鳴いていた。
ハルは、窓わくに両手をついて、しばらく、空を見あげていた。
52年ぶりの、空だった。
ほおを、涙が、つたっていった。
◇ ◇ ◇
机の上の、黒い板の案内を、ハルは、ていねいに読んだ。
『ようこそ、七瀬ハルさま。こちらは、交換相手さま向けのご案内です』
読みおえると、ハルは、手のひらで、耳たぶを、そっとつつみこむように、なでた。
(……七瀬遥、19歳。わたしの、もう一人)
この子は、空のある世界に、生きている。
うらやましい、と、一瞬、思った。
けれど、その思いは、すぐに、べつの思いに変わった。この子が、今、わたしのからだで、あの地下にいる。ひざの痛いからだで。目のかすむからだで。千鶴のとなりで。
(千鶴を、たのんだよ)
ハルは、心の中で、つぶやいた。
◇ ◇ ◇
ハルは、走った。
家を出て、坂をかけおりる。風が、ほおに、髪に、ぶつかってくる。足が、ぐんぐん前に出る。ひざは、まったく痛くない。息が、はずむ。心臓が、どくどくと、元気よく打っている。
川ぞいの道に出た。
朝の光の中を、川が、きらきらと流れていた。水のにおい。草のにおい。土手の上を、犬を散歩させている人が、ゆっくり歩いている。自転車が、チリリンと、ベルを鳴らして、追いこしていく。
ハルは、走りながら、何度も、空を見あげた。
大崩壊の前の日も、こんな空だった。
あのころ、ハルは、26歳だった。まだ、千鶴とは、出会っていなかった。空があることも、川が流れていることも、走れることも、ぜんぶ、あたりまえだと思っていた。
あたりまえのものは、なくなってから、はじめて、あたりまえじゃなかったと、わかる。
ハルは、走りつづけた。息が切れるまで。足が、もう前に出なくなるまで。
土手の草の上に、大の字に、たおれこんだ。
草が、背中に、ちくちくした。太陽が、まぶしかった。
ハルは、目をとじて、思いきり、笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ハルは、丘の上の墓地にいた。
黒い板の案内には、遥の父・七瀬航の墓の場所も、ちゃんと書かれていた。
墓地は、しずかだった。セミの声と、遠くの電車の音。白い花を、一束、買ってきた。墓石の前に、そなえる。
『七瀬家之墓』。
ハルは、手をあわせた。
(はじめまして。……わたしも、七瀬です)
ハルの世界の、ハルの父は、大崩壊の日に、行方がわからなくなった。最後に、どんな話をしたのかも、もう、思いだせない。
この世界の遥も、父親と、最後に、けんかをしたのだという。案内には、そこまでは書いていなかった。けれど、このからだが、教えてくれた。墓石の前に立ったとたん、胸の奥が、ぎゅっと、しめつけられたのだ。言えなかった言葉が、のどの奥に、ずっと、つかえている。
ハルは、墓石に、そっと手をふれた。夏の日ざしで、石は、あたたかかった。
(この子は、ずっと、言えずにいるんですね。……だいじょうぶ。言える日は、ちゃんと来ますよ)
◇ ◇ ◇
夕方、家にもどると、ハルは、二階の、閉じたドアの前に立った。
このドアの向こうに、遥の父の書斎がある。
ハルは、少し、迷った。相手の人生を、こわしてはいけない。
けれど、78年生きてきたハルには、わかっていた。このドアの向こうには、この子が、ひとりでは、まだ開けられないものがある。
ハルは、ドアを開けた。
紙と、ほこりのにおい。机の上に、黒い革の手帳。表紙に、『7ルーティン』。
ハルは、いすにすわり、手帳を開いた。
最初のページから、ゆっくりと、読んでいった。メガネをかけかえる。すきまの一秒。着地点から飛べ。急がない宝物から。ふたりとも勝つテーブル。
そして、ルーティン5のページで、ハルの手が、止まった。
『ルーティン5「耳が先、口はあと」
人は、わかってもらえたと感じたとき、はじめて、聞く耳をもつ。
まず、聞け。くりかえせ。気持ちを、言いあてろ。
自分のことを話すのは、そのあとでいい』
ハルは、思わず、笑った。
(千鶴と、同じことを言ってる)
付箋には、父の字で、小さな書きこみがあった。
『遥は、最近、話してくれない。こっちが、聞いていないからだ。今夜こそ、聞く』
日付は、父が倒れる、3日前だった。
◇ ◇ ◇
ハルは、ページをめくりつづけた。ルーティン6。ルーティン7。
そして、最後のページ。
そこには、ほかのページとはちがう、少しふるえた字で、長い書きこみがあった。
いちばん上に、『遥へ。』と、書かれていた。
ハルは、それを、さいごまで、ゆっくりと、読んだ。
読みおえると、ハルは、手帳を、しずかに閉じた。
しばらく、何も言わずに、窓の外を見ていた。夕焼けが、空を、ばら色にそめていた。
それから、ハルは、遥の机から、一冊のノートを持ってきた。表紙に、『人生のコンパス(下書き)』と書かれたノート。
最初のページに、一行だけ、遥の字があった。
『七瀬遥は、描くことから、もう逃げなかった』
ハルは、その下に、自分の字で、小さく、書き足した。
『だいじょうぶ。』
それだけだった。
ハルは、ノートを閉じると、遥の部屋の窓を開けた。夏の夜の風が、カーテンを、ふわりとゆらした。
地下の世界では、一度も感じたことのない、風だった。




