27話 七十八歳の朝〈残り72時間〉
最初に気づいたのは、ひざの痛みだった。
右のひざの奥で、何かが、ぎしりと、さびた音を立てている。動かそうとすると、骨と骨のあいだに、細い針をさしこまれたような痛みが走った。
遥は、うめき声をのみこんで、目をあけた。
天井が、ぼやけていた。
何度まばたきをしても、輪郭が、はっきりしない。灰色のコンクリートの天井に、細長い明かりが一本。その光が、にじんで、ぼんやりと広がっている。
[おはようございます。旅行1日目、午前7時00分03秒。魂の交換は、正常に完了しました]
〈おはよう、遥。……ゆっくりで、いいよ〉
[現在地は、第4世界、文明崩壊後の地球。地下居住区「新東京シェルター」、第7層、居室14番。交換相手は、七瀬ハルさま、78歳です]
78歳。
遥は、そっと、手を顔の前に持ってきた。
しわだらけの手だった。指の関節が、ふしくれだって、少し曲がっている。手の甲には、茶色いしみが、いくつも散っていた。皮膚は、うすい紙のように、やわらかく、たよりない。
この手で、何十年も、生きてきたのだ。
遥は、ベッドの上で、からだを起こそうとした。
できなかった。
腰に、力が入らない。腕で、ベッドのふちをつかんで、ゆっくり、ゆっくり、上半身を持ちあげる。それだけで、息が切れた。心臓が、とくとくと、速く打つ。
19歳のからだなら、一秒もかからないことだった。
◇ ◇ ◇
「起きたかい、ハル」
しずかな声がした。
部屋の入り口に、小柄なおばあさんが立っていた。顔は、ぼんやりとしか見えない。それなのに、なぜか、だれなのかは、わかった。白い髪を、うしろでひとつにまとめている。両手で、湯気の立つ、白いマグカップを持っていた。
[パートナーの、千鶴さまです。76歳。ハルさまと、50年、ともに暮らしていらっしゃいます]
「はい、白湯。今朝は、ちょっとぬるめにしといたよ。あんた、きのう、舌をやけどしたって、ぶつぶつ言ってたからね」
千鶴は、ベッドのそばにすわり、マグカップを、遥の両手に、そっと持たせた。
あたたかかった。そして、思っていたより、重かった。たかがマグカップひとつが、両手でささえないと、手首がふるえた。
陶器の、ざらりとした手ざわり。湯気が、ほおをなでる。ひと口、ふくむ。味は、何もしない。ただの、ぬるいお湯。それなのに、のどを通って、からだの奥に落ちていくあいだに、こわばっていた何かが、少しずつ、ほどけていくような気がした。
遥は、千鶴の顔を見た。
ぼやけた視界の中でも、千鶴の目だけは、はっきりと見えた気がした。しわの奥の、しずかで、やさしい目。
「……ありがとう」
千鶴は、ほんの少しだけ、首をかしげた。
「どうしたんだい。あんたが、ありがとうなんて言うの、何年ぶりだろうね」
それから、くすりと笑った。
「まあ、いいさ。言われて、悪い気はしないからね」
◇ ◇ ◇
シェルターの廊下は、長かった。
灰色の壁。等間隔にならぶ、白い明かり。空気は、ひんやりとして、少しだけ、機械の油のにおいがした。換気口から、ゴウン、ゴウンと、低い音が、ずっと鳴りつづけている。
窓は、ひとつもなかった。
[新東京シェルターは、52年前の「大崩壊」のあと、地下につくられた居住区です。地上は、今も、人が長く住める状態ではありません。現在、約20万人が、地下の12の層に分かれて暮らしています。ひとつの層は、ひとつの町ほどの広さがあり、それぞれが、さらにAからLまでの、12の区画に分かれています]
廊下の壁に、案内図が貼られていた。けれど、小さな文字は、ぼやけた点のならびにしか見えない。目を細めても、顔を近づけても、読めなかった。
遥は、千鶴の腕につかまりながら、ゆっくりと、廊下を歩いた。
一歩ごとに、右ひざが、悲鳴をあげる。足もとが、ぼんやりとかすむ。床の、ほんの小さな段差に、つまずきそうになる。
廊下の先に、階段があった。
たった10段ほどの、階段だった。けれど、遥には、それが、山のように見えた。
(……遠い)
19歳の遥なら、二段とばしで、かけあがれる。今の遥には、一段一段が、壁のようだった。
「ゆっくりでいいよ」
千鶴が言った。千鶴も、手すりをにぎって、一段ずつ、のぼっていく。二人の老人が、一段のぼるたびに、少し休み、また一段のぼる。
うしろから、若者たちが、何人も、二人を追いこしていった。
だれも、二人を見なかった。みんな、手首につけた、小さな光る輪を見つめていた。
『第7層の配給は、本日、9時15分から』
『第3作業班、配置変更。理由:最適化』
『今日のあなたへのおすすめ:休息を、20分ふやしましょう』
光る輪から、やわらかい女の人の声が、次々《つぎつぎ》に流れていた。
[居住区の管理AI、「マザー」の声です。シェルターのすべての人の、食事、仕事、休息、結婚の相手まで、マザーが、最適な答えを決めています]
若者たちは、マザーの声にうなずき、足早に、廊下の先へ消えていった。
だれも、だれかと話していなかった。
すれちがった、白いひげのおじいさんが、遥に、手をあげた。
「おう、ハルさん。きのうは、どうも」
「……あ、どうも」
名前が、出てこなかった。顔は、たしかに知っている気がする。何度も話したことがある気がする。それなのに、名前だけが、のどの手前で、ふっと消えてしまう。
「ゲンさんだよ。配給係の」
千鶴が、小声で、そっと教えてくれた。
「あんた、最近、よく忘れるからね。……まあ、あたしもだけど」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、遥は、居室のベッドに横になっていた。
階段を、3回のぼりおりしただけで、からだじゅうが、ぐったりしていた。配給の、水の入った小さな袋さえ、千鶴に持ってもらった。廊下を、ほんの200メートル歩くたびに、壁にもたれて、休まなければならなかった。ひざに、千鶴が、あたためたタオルをのせてくれた。
千鶴は、ベッドのそばのいすで、つくろいものをしていた。古いセーターの穴を、ゆっくり、ゆっくり、毛糸でふさいでいる。目が悪いはずなのに、針の動きには、まよいがなかった。
50年。
この人と、このハルは、50年、いっしょに生きてきたのだ。
遥は、ハルの記憶を、まだ持っていない。けれど、このからだは、知っていた。千鶴の足音。千鶴の白湯のぬるさ。千鶴が、つくろいものをするときに、ときどき、小さく鼻歌をうたうこと。
そのひとつひとつに、からだの奥が、しずかに、ほっとするのがわかった。
竜騎士のハルは、イリスへの想いを、だれにも言えずにいた。
このハルは、千鶴と、50年、いっしょにいた。
同じ魂の、二つの人生。
遥は、無意識に、右の耳に手をやった。手のひらで、耳たぶを、そっとつつみこむように、なでていた。
(……このくせ、ちょっと、千鶴さんに、なでられてるみたい)
千鶴が、ふと、顔をあげた。
「ハル。……あんた、今日、なんだか、はじめてここに来た人みたいだね」
「それに、ほら。また、老眼鏡を、さがしてたろう」
「え?」
「頭の上」
遥は、手を頭にやった。白髪の上に、細いふちのメガネが、ちょこんと乗っていた。いつのまに。そもそも、いつ、かけたのかも、覚えていない。
「あんたの老眼鏡は、毎日、頭の上か、白湯のカップの横か、トイレの棚の上だよ。何十年も、同じところしか、さがしてないんだから」
千鶴は、くすくす笑った。
遥の心臓が、どくんと鳴った。
千鶴は、それ以上は何も言わず、また、針を動かしはじめた。
〈……千鶴さん、気づいてるのかな〉
ノヴァ2がささやいた。
[可能性は、あります]
ノヴァ1も、めずらしく、ひかえめに言った。




