26話 よっつめの鍵穴と、母の涙〈帰還〉
白い天井。エアコンの、低い音。
自分の部屋だった。
胸の上が、からっぽだった。お鈴の重さが、ない。そのことに、遥は、思っていたよりも、ずっと、さみしさを感じた。
そして、記憶が、流れこんできた。
しずかな、白い部屋で、はね起きたときの、こおりつくような、こわさ。「お鈴! 小太郎!」。
銀色の口から、どこまでも流れる、すきとおった水。
ガスこんろの前で、みそ汁をつくったこと。玄関で、母が、「……ただいま」と言ったこと。
そして、台所の食卓で。
母が、泣いていた。
両手で顔をおおって、子どものように、声をあげて。3年間、一度も見たことのない、母の涙。
お遥の指先が、母の手の甲を、とん、とん、と、たたいていた。夜が明けるまで、ずっと、母の話を聞いていた。父と出会った日のこと。遥が生まれた日のこと。
そして、あの夜のこと。
『あの子が、部屋のドアを閉めているのを、知っていた。でも、ノックできなかった。……あの子は、ずっと、自分のせいだと思っているの。お父さんが倒れたのは、自分が、けんかをしたからだって。そんなこと、ないのに。わたしが、そう言ってあげなきゃいけなかったのに』
遥は、ベッドの上で、ひざをかかえた。
息が、うまく、できなかった。
◇ ◇ ◇
階段をおりると、台所に、母がいた。
平日の朝なのに、まだ、出かけていなかった。食卓には、二人分の、朝ごはんがならんでいた。ごはん。みそ汁。卵焼き。
「……おはよう」
母が、言った。
「今日、休みをとったの。……少し、話がしたくて」
遥は、食卓に、すわった。
みそ汁の湯気の向こうで、母の目が、赤くはれていた。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
時計の秒針の音だけが、台所にひびいていた。
(一秒)
遥は、息をすった。
「お母さん」
声が、ふるえた。
「わたし、ずっと、思ってた。お父さんが倒れたの、わたしのせいだって。あの夜、けんかして、ドアを閉めて。もし、わたしが、あのとき、ちゃんと――」
「ちがう」
母が、遥の言葉を、さえぎった。
「ちがうのよ、遥。お父さんが倒れたのは、あなたのせいじゃない。……休ませてあげられなかった、わたしのせいでもない。お父さんは、ずっと、働きすぎていたの。それだけ。だれのせいでも、ない」
母は、テーブルの上で、遥の手を、にぎった。
「それを、3年間、言ってあげられなかった。ごめんね」
遥の目から、涙が、あふれた。
止まらなかった。3年間、ためこんでいたものが、ぜんぶ、いっぺんに、あふれだした。
母も、泣いていた。
二人で、朝ごはんを前にして、声をあげて、泣いた。みそ汁が、すっかり、冷めてしまうまで。
◇ ◇ ◇
泣きやんだあと、母は、はずかしそうに笑った。
「……ひどい顔」
「お母さんも」
二人で、冷めたみそ汁を、すすった。だしの味が、からだの奥まで、しみこんでいった。
それから、遥は、ポケットから、一枚のメモを出した。朝、お遥の記憶を思いだしながら、書いたものだった。
「お母さん。……家のこと、二人で、分けたい」
メモには、遥の字で、家の仕事が、ならんでいた。ごはんづくり。せんたく。そうじ。ごみ出し。買いもの。
「お母さんが、仕事、ふやしてるのは、知ってる。わたしは、今、バイトも、なくなっちゃったし。……だから、わたしが、ごはんと、そうじと、ごみ出しをやる。そのかわり、お母さんは、週に一回は、早く帰ってきて。いっしょに、ごはん、食べたい」
母は、メモを、じっと見つめていた。
「……それって、遥ばっかり、たいへんじゃない」
「ううん。お母さんが、早く帰ってくるのも、たいへんでしょ。だから、どっちも、ちょっとずつ、たいへん。……どっちも、ちょっとずつ、いいことがある」
遥は、少しだけ、言葉をさがした。
「ふたりとも勝つ、っていうか」
母は、目をまるくして、それから、ふきだした。
「何それ。どこで、そんな言葉、覚えたの」
「……戦国時代」
「え?」
「なんでもない」
二人は、また、笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、遥は、父の書斎で、手帳を開いた。
『ルーティン4「ふたりとも勝つテーブル」
勝ち負けではなく、どちらも勝つ道を。
それが、どうしても見つからなければ、結ばない勇気を。
テーブルを立つことは、逃げることではない。最後まで、さがした者だけが、立てる』
そのページの、すみに、小さなポケットがついていた。
中から、一枚の、小さな紙が出てきた。古い、子どもの字だった。
『おとうさんへ かたたたきけん 10かいぶん はるか』
遥が、小学1年生のときに、父の日にあげたものだった。
その下に、父の字で、書きこみがあった。
『心の貯金箱。この券は、まだ一回も使っていない。もったいなくて。』
遥は、その券を、両手で、そっとつつんだ。
父も、小さな約束を、ためていたのだ。遥との、心の貯金箱に。
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
白い廊下。白い扉。七つの鍵穴。
真鍮と、うろこの銀と、羽根の銅が、それぞれの色で、光っている。
そして、四つ目。
黒くつやのある木のプレートの鍵穴が、ゆっくりと、あたたかい、いろりの火のような色に、ともった。
――よっつめ。
扉の向こうの声が、言った。
――はんぶん、すぎたよ。
遥は、ふと、気がついた。
廊下の両がわの、数えきれない扉の前に、だれかが、立っていた。
すぐとなりの扉の前に、紺色のローブの、栗色の長い髪の女の子。くいっ、くいっと、右の耳たぶを、引っぱっている。
その向こうに、銀の胸当ての、背の高い女の人。親指の腹で、耳たぶの下を、ぐっと押している。
さらにその向こうに、着物すがたの、ふくよかな女の人。指先で、とん、とん、と、耳たぶを、たたいている。
ハルカ。ハル。お遥。
みんな、同じ扉を、見あげていた。
そして、そのもっと向こうに、まだ、顔の見えない、いくつかの背中があった。
遥が、声をかけようとした、そのとき、夢は、白い光の中に、とけていった。
◇ ◇ ◇
目をさますと、スマートフォンが、光っていた。
『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』
遥は、迷わなかった。
白い星を、五つ、おした。
「五つ、★★★★★」
[……評価を、受けとりました]
ノヴァ1の声が、ほんの少しだけ、上ずっていた。
[遥さま。お知らせがあります。この評価で、わたしの、パラレル・ツアーズのAIの中での順位が、下から2番目から、下から5番目に、上がりました]
〈やったね〉
ノヴァ2が、うれしそうに言った。
[……ただし]
ノヴァ1の声が、急に、かたくなった。
[警告します。次の旅行先は、カタログの、いちばんうしろのページです]
画面に、一枚のカードが、浮かびあがった。
カードの写真は、灰色だった。くずれたビル。草におおわれた道路。そして、その向こうに、ひとつだけ灯りのともった、地下へとつづく、巨大な扉。
『第4世界 文明崩壊後の地球「新東京シェルター」
交換相手:七瀬ハル(78歳・女性)』
78歳。
遥は、その数字を、しばらく、見つめていた。




