21話 〈向こうの私〉母と母
お遥が最初に気づいたのは、静けさだった。
子どもの泣き声がしない。にわとりが鳴かない。かまどの煙のにおいもしない。かわりに、白くて、まぶしくて、ひんやりとした部屋に、ひとりで寝かされていた。
お遥は、反射的に、胸の上に手をやった。
お鈴が、いない。
からだじゅうの血が、一瞬で、こおりついた。はね起きて、部屋じゅうを見まわす。いない。小太郎も、いない。
「お鈴! 小太郎!」
声が、わかかった。高くて、細くて、知らない声だった。
机の上の、黒い板が、光った。
『ようこそ、お遥さま。こちらは、交換相手さま向けのご案内です。
あなたは今、七瀬遥さまのおからだで、七瀬遥さまの世界にいらっしゃいます。
お子さまがたは、あなたのお世界で、遥さまがお守りしています。
72時間後、自動的に、お帰りいただけます』
お遥は、その文字を、何度も、何度も読んだ。
それから、ベッドに、すとんと、すわりこんだ。
とん、とん。指先で、耳たぶを、たたく。自分を、なだめるときの、くせだった。
(……あの子たちを、知らないだれかが、守っている)
信じるしかなかった。忍びの妻は、信じて待つことに、なれている。夫を待つのと、同じように。
◇ ◇ ◇
台所は、ふしぎなものだらけだった。
火を使わずに、湯がわく、白い箱。ひねると、水が、いくらでも出てくる、銀色の口。冷たい息をはく、大きな戸棚。
(泉の水を、くみに行かなくていいのか)
お遥は、銀色の口から流れる水に、しばらく、手をさらしていた。つめたくて、すきとおっていて、どこまでも、止まらない。
あの村の人たちに、見せてやりたい、と思った。
戸棚を開けると、中には、じゃがいもと、玉ねぎと、ほんの少しの肉と、しおれかけた小松菜が入っていた。それから、メモが一枚。『肉じゃがの残り。あたためて食べて。母』
この家の母親は、遥に、ごはんをつくっているのだ。
お遥は、少しだけ、ほっとした。
◇ ◇ ◇
七瀬京子が帰ってきたのは、夜の8時すぎだった。
前よりも、少しだけ、早くなっていた。
「……ただいま」
玄関で、京子は、小さな声で言った。そして、台所に入って、立ちどまった。
娘が、かまどの前――いや、ガスこんろの前に、立っていた。
なべから、湯気が、もうもうと立っている。みそのにおい。ごはんの炊ける、あまいにおい。まな板の上には、きざまれた青ねぎ。
「おかえりなさいませ」
娘は、ふり返って、ていねいに、頭を下げた。
「勝手に、台所を、お借りしました。みそ汁と、菜っ葉のおひたしと、それから、残っていた肉じゃがを、あたためました」
京子は、何も言えなかった。
遥が、料理をしている。それも、まるで、何十年も台所に立ってきた人のような、手なれた動きで。
「……遥、あなた、料理なんて」
「少しだけ、です。さあ、冷めないうちに」
二人で、食卓にすわった。
みそ汁を、ひと口飲んで、京子は、目を見ひらいた。
なつかしい味だった。だしが、ゆっくりと、からだのすみずみまで、しみていく。夫が生きていたころ、京子の母が、ときどき、つくりに来てくれたみそ汁の味に、どこか、似ていた。
◇ ◇ ◇
食事のあと、娘は、お茶をいれてくれた。
湯のみを両手でつつむようにして、娘は、京子の顔を、まっすぐに見た。
「お母さま。……おつかれでしょう」
京子は、思わず、笑いそうになった。お母さま、なんて。
けれど、娘の目は、笑っていなかった。しずかで、ふかくて、何もかもを、受けとめてくれそうな目だった。
「わたしの……いえ。わたしの知っている人にも、夫の帰りを、待っている人がいます。1年、便りがありません。生きているのか、いないのか、わからない。子どもが二人いて、村の、みんなの暮らしも、背負っています」
娘は、湯のみを、そっと置いた。
「その人は、泣けないんです。泣いたら、まわりが、みんな、不安になるから。自分がしっかりしなければ、と思うから。……泣かないまま、ずっと、こわい顔をして、子どもの顔も、ちゃんと見られずに」
京子は、息を止めた。
「お母さまも、泣いていないのでは、ありませんか」
台所の時計の、秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
「旦那さまが、亡くなってから。ずっと」
◇ ◇ ◇
京子は、何か言おうとした。
何を言おうとしたのか、自分でも、わからなかった。
あの夜のこと。書斎で、夫が倒れていたこと。救急車のサイレン。病院の、白い廊下。そのあいだじゅう、二階の部屋で、娘が、ひとりで、ドアを閉めていたこと。そのドアを、一度も、ノックできなかったこと。
葬式でも、泣かなかった。仕事を、ふやした。家にいる時間を、へらした。娘の顔を、見ないようにした。
だって、泣いたら、もう、立てなくなりそうだったから。
「……わたしが、しっかりしないと」
京子の声が、ふるえた。
「あの子には、もう、わたししか、いないのに。わたしが、泣いたら」
娘は、何も言わなかった。
ただ、手をのばして、京子の手の上に、自分の手を重ねた。
わかい、細い手だった。けれど、その手のひらは、なぜか、何十年も、だれかの手をにぎってきた人のように、ずっしりと、あたたかかった。
とん、とん。
娘の指先が、京子の手の甲を、ゆっくりと、たたいた。泣いている子の背中を、なだめるように。
とん、とん。
京子の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
一粒こぼれると、もう、止まらなかった。3年間、ふさがっていた道が、とつぜん、ひらいたように。京子は、両手で顔をおおって、子どものように、声をあげて、泣いた。
娘は、京子が泣きやむまで、ずっと、その手を、はなさなかった。夜が明けるまで、ずっと、京子の話を、聞いていた。夫と出会った日のこと。遥が生まれた日のこと。あの夜のこと。
窓の外が、白みはじめたころ、京子は、泣きつかれて、食卓に、つっぷして眠っていた。
お遥は、その肩に、そっと、毛布をかけた。
(この人も、わたしと、同じだ)
お遥は、窓の外の、白い空を見あげた。
(甚八。……わたしも、帰ったら、ちゃんと泣こう)




