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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第5章 母親になった私

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21話 〈向こうの私〉母と母

 お遥《はる》が最初に気づいたのは、静けさだった。


 子どもの泣き声がしない。にわとりが鳴かない。かまどの煙《けむり》のにおいもしない。かわりに、白くて、まぶしくて、ひんやりとした部屋に、ひとりで寝《ね》かされていた。


 お遥は、反射的に、胸の上に手をやった。


 お鈴《すず》が、いない。


 からだじゅうの血が、一瞬《いっしゅん》で、こおりついた。はね起きて、部屋じゅうを見まわす。いない。小太郎《こたろう》も、いない。


「お鈴! 小太郎!」


 声が、わかかった。高くて、細くて、知らない声だった。


 机の上の、黒い板が、光った。


『ようこそ、お遥さま。こちらは、交換相手《こうかんあいて》さま向けのご案内です。

あなたは今、七瀬遥《ななせはるか》さまのおからだで、七瀬遥さまの世界にいらっしゃいます。

お子さまがたは、あなたのお世界で、遥さまがお守りしています。

72時間後、自動的に、お帰りいただけます』


 お遥は、その文字を、何度も、何度も読んだ。


 それから、ベッドに、すとんと、すわりこんだ。


 とん、とん。指先で、耳たぶを、たたく。自分を、なだめるときの、くせだった。


(……あの子たちを、知らないだれかが、守っている)


 信じるしかなかった。忍《しの》びの妻は、信じて待つことに、なれている。夫を待つのと、同じように。


◇ ◇ ◇


 台所は、ふしぎなものだらけだった。


 火を使わずに、湯がわく、白い箱。ひねると、水が、いくらでも出てくる、銀色の口。冷たい息をはく、大きな戸棚(たな)。


(泉の水を、くみに行かなくていいのか)


 お遥は、銀色の口から流れる水に、しばらく、手をさらしていた。つめたくて、すきとおっていて、どこまでも、止まらない。


 あの村の人たちに、見せてやりたい、と思った。


 戸棚を開けると、中には、じゃがいもと、玉ねぎと、ほんの少しの肉と、しおれかけた小松菜が入っていた。それから、メモが一枚。『肉じゃがの残り。あたためて食べて。母』


 この家の母親は、遥に、ごはんをつくっているのだ。


 お遥は、少しだけ、ほっとした。


◇ ◇ ◇


 七瀬京子(きょうこ)が帰ってきたのは、夜の8時すぎだった。


 前よりも、少しだけ、早くなっていた。


「……ただいま」


 玄関《げんかん》で、京子は、小さな声で言った。そして、台所に入って、立ちどまった。


 娘《むすめ》が、かまどの前――いや、ガスこんろの前に、立っていた。


 なべから、湯気が、もうもうと立っている。みそのにおい。ごはんの炊《た》ける、あまいにおい。まな板の上には、きざまれた青ねぎ。


「おかえりなさいませ」


 娘は、ふり返って、ていねいに、頭を下げた。


「勝手に、台所を、お借りしました。みそ汁《しる》と、菜っ葉のおひたしと、それから、残っていた肉じゃがを、あたためました」


 京子は、何も言えなかった。


 遥が、料理をしている。それも、まるで、何十年も台所に立ってきた人のような、手なれた動きで。


「……遥、あなた、料理なんて」


「少しだけ、です。さあ、冷めないうちに」


 二人で、食卓《しょくたく》にすわった。


 みそ汁を、ひと口飲んで、京子は、目を見ひらいた。


 なつかしい味だった。だしが、ゆっくりと、からだのすみずみまで、しみていく。夫が生きていたころ、京子の母が、ときどき、つくりに来てくれたみそ汁の味に、どこか、似ていた。


◇ ◇ ◇


 食事のあと、娘は、お茶をいれてくれた。


 湯のみを両手でつつむようにして、娘は、京子の顔を、まっすぐに見た。


「お母さま。……おつかれでしょう」


 京子は、思わず、笑いそうになった。お母さま、なんて。


 けれど、娘の目は、笑っていなかった。しずかで、ふかくて、何もかもを、受けとめてくれそうな目だった。


「わたしの……いえ。わたしの知っている人にも、夫の帰りを、待っている人がいます。1年、便りがありません。生きているのか、いないのか、わからない。子どもが二人いて、村の、みんなの暮らしも、背負っています」


 娘は、湯のみを、そっと置いた。


「その人は、泣けないんです。泣いたら、まわりが、みんな、不安になるから。自分がしっかりしなければ、と思うから。……泣かないまま、ずっと、こわい顔をして、子どもの顔も、ちゃんと見られずに」


 京子は、息を止めた。


「お母さまも、泣いていないのでは、ありませんか」


 台所の時計の、秒針の音が、やけに大きく聞こえた。


「旦那《だんな》さまが、亡くなってから。ずっと」


◇ ◇ ◇


 京子は、何か言おうとした。


 何を言おうとしたのか、自分でも、わからなかった。


 あの夜のこと。書斎《しょさい》で、夫が倒《たお》れていたこと。救急車のサイレン。病院の、白い廊下《ろうか》。そのあいだじゅう、二階の部屋で、娘が、ひとりで、ドアを閉めていたこと。そのドアを、一度も、ノックできなかったこと。


 葬式《そうしき》でも、泣かなかった。仕事を、ふやした。家にいる時間を、へらした。娘の顔を、見ないようにした。


 だって、泣いたら、もう、立てなくなりそうだったから。


「……わたしが、しっかりしないと」


 京子の声が、ふるえた。


「あの子には、もう、わたししか、いないのに。わたしが、泣いたら」


 娘は、何も言わなかった。


 ただ、手をのばして、京子の手の上に、自分の手を重ねた。


 わかい、細い手だった。けれど、その手のひらは、なぜか、何十年も、だれかの手をにぎってきた人のように、ずっしりと、あたたかかった。


 とん、とん。


 娘の指先が、京子の手の甲《こう》を、ゆっくりと、たたいた。泣いている子の背中を、なだめるように。


 とん、とん。


 京子の目から、ぽろりと、涙《なみだ》がこぼれた。


 一粒《ひとつぶ》こぼれると、もう、止まらなかった。3年間、ふさがっていた道が、とつぜん、ひらいたように。京子は、両手で顔をおおって、子どものように、声をあげて、泣いた。


 娘は、京子が泣きやむまで、ずっと、その手を、はなさなかった。夜が明けるまで、ずっと、京子の話を、聞いていた。夫と出会った日のこと。遥が生まれた日のこと。あの夜のこと。


 窓の外が、白みはじめたころ、京子は、泣きつかれて、食卓に、つっぷして眠《ねむ》っていた。


 お遥は、その肩《かた》に、そっと、毛布をかけた。


(この人も、わたしと、同じだ)


 お遥は、窓の外の、白い空を見あげた。


(甚八《じんぱち》。……わたしも、帰ったら、ちゃんと泣こう)

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