2話 ノヴァ、旅行のご案内です
画面には、見たことのないアイコンがあった。夜空の色をした丸の中に、白い扉のシルエット。右下のすみに、小さく「β」の文字。
『パラレル・ツアーズ(ベータ版)のインストールが完了しました』
(入れてない。こんなの)
画面のガラスは、ひんやりと冷たかった。消そうとした指が、まちがえてアイコンにふれた。画面が、ふわりと夜空の色に変わる。
【こんばんは。……訂正します。現在時刻は午前3時14分22秒ですので、「こんばんは」にはかなりおそく、「おはようございます」には少し早い時間です。どちらがよろしいですか】
スピーカーから、声がした。男とも女ともつかない、すきとおった声だった。
「……どっちでもいいです」
【承知しました。では、両方。こんばんは、おはようございます。わたしは、パラレル・ツアーズのAIコンシェルジュ、ノヴァです。七瀬遥さま、旅行のご案内です】
名前を呼ばれて、背中がひやりとした。
【あなたには、まだ知らない人生があります】
「なにこれ。詐欺?」
【いいえ。詐欺の場合、料金の請求が発生します。当サービスはベータ版のため、料金は0円です。……0円の詐欺も、存在するのでしょうか。調べます。少々《しょうしょう》お待ちください】
「調べなくていいです」
【承知しました。調査を中止します】
画面のすみで、小さな砂時計のアイコンが、くるりと回って消えた。
【ところで、遥さま。最後のお食事から、9時間8分がたっています。朝ごはんは、何時に召しあがるご予定ですか】
「……なんで知ってるの」
【スマートフォンの決済記録です。それから、ショートケーキ一つは、夕食としては栄養がかたよっています。糖質が多すぎ、たんぱく質が1日の必要量の7パーセントしか――】
「ちょっと待って」
遥は、ベッドの上で起きあがった。夢の白さが、まだ目の奥に残っている。知らないアプリ。知らない声。自分のことを、知りすぎている。
「どうしよう……」
【ご質問を承りました。「どうしよう」の対象を教えてください。①このアプリを使うかどうか ②朝ごはん ③そのほか】
思わず、ふきだしそうになった。
「なんで、選択肢に朝ごはんが入ってるの」
【先ほどの会話の流れから、可能性が高いと判断しました。……ちがいましたか】
「ちがいます」
【失礼しました。わたしには、遥さまの頭の中までは見えません。何に困っているのか、何を知りたいのかを言っていただけると、お答えがずっと正確になります】
遥は、少し考えた。何に困っているのか。そんなことを、だれかにちゃんと言ったのは、いつ以来だろう。
「……このアプリが、安全かどうか、知りたい」
【承知しました。とてもわかりやすいご質問です。ありがとうございます】
声が、ほんの少しうれしそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
【では、まず、サービスの内容をご説明します。パラレル・ツアーズは、並行宇宙への旅行サービスです。ただし、お体ごと移動するのではありません。旅行先の世界に生きる「もう一人の遥さま」と、魂を入れかえていただきます】
「……は?」
【旅行時間は、最大72時間00分00秒。そのあいだ、遥さまは向こうの遥さまのからだで生活し、向こうの遥さまは、こちらで遥さまの生活を送ります。帰還後、お二人の記憶は一つに重なります】
蒼汰の声が、耳の奥でよみがえった。何かが起きるたびに、世界が枝分かれしている。どっちも、どこかで続いているかもしれない。
「もう一人のわたしって……何人いるの」
【並行宇宙は、だれかが何かを選ぶたびに、枝分かれしています。ほとんどの枝には、遥さまはいらっしゃいません。けれど、ごくまれに、同じ魂を持つ遥さまが生きている枝があります。当サービスで確認できている遥さまは、現在、少なくとも六人です】
六人。
「……蒼汰さんが言ってたのと、同じだ」
【蒼汰さま、とは、どなたでしょうか】
「バイトの人。宇宙の研究してる。枝が分かれる数が、最近へってるって」
ノヴァは、ほんの一瞬、だまった。画面のすみの砂時計が、回りかけて、止まる。
【……その方は、とても正確な観測をなさっていますね】
「え?」
【失礼しました。今のは、ひとりごとです】
専門学校をやめなかったわたし。ピアノを続けたわたし。お父さんと、仲直りできたわたし。
【くわしくは、重要事項説明書をごらんください。全12ページ。遥さまの読む速さですと、所要時間は約18分です】
画面に、文字がならぶ。遥は、いつものように最後までスクロールした。規約なんて、読んだことがない。けれど、12ページ目で、指が止まった。
『旅のルール
ルール1:旅行時間は最大72時間。現実の72時間がたつと、自動的に帰還します。
ルール2:相手の人生を壊してはいけません。旅行先の自分にも、人生があります。
ルール3:AIは、未来を完全には予測できません。最後に決めるのは、旅行者です。
ルール4:旅行先で得た能力は、持ち帰れません。ただし、知識と経験と記憶は、持ち帰れます。
ルール5:カタログにない並行宇宙が存在します。そこには、立ち入らないでください。
※本サービスはベータ版のため、予告なくサービスが停止することがあります』
「……停止したら、どうなるの。帰れなくなるの?」
【……その質問には、現在、お答えできるデータがありません】
ノヴァが、はじめて言葉につまった気がした。
心臓が、どくん、と鳴った。知らない世界。知らないからだ。帰れないかもしれない旅。そんなもの、自分にできるはずがない。どうせ、また途中で逃げだすに決まっている。
「やっぱ、いい。無理」
アイコンを長押しして、×を押す。
【かしこまりました。またのご利用を、お待ち――】
声が、とぎれた。
◇ ◇ ◇
眠れなかった。
午前4時。遥は、気がつくと、父の書斎の前に立っていた。廊下の床が、はだしの足のうらに、ぎし、と小さく鳴った。なぜここに来たのか、自分でもわからなかった。
ドアを開ける。窓の外が、少しずつ青くなりはじめている。古い紙のにおいと、ほこりのにおい。カーテンのすきまから、まだ眠っている町の、しっとりとした空気が流れこんでくる。机の上には、黒い合成革の手帳。
手をのばして、持ちあげてみた。革の表紙は、手のひらの温度で、少しずつやわらかくなっていく。思ったより、重かった。父が3年分の、いや、もっと長い時間の言葉を、この中にためこんでいたのだと思った。
開けなかった。開けられなかった。
手帳を机にもどそうとした、そのとき。ページのあいだから、黄色い付箋が一枚、はらりと床に落ちた。
拾いあげる。父の、角ばった字だった。
『何かが起きてから、動くまでのあいだに、一秒のすきまがある。そこで選べ』
遥は、しばらくその文字を見つめていた。
あの男が小銭をたたきつけたとき。講師に「あなたがいない」と言われたとき。アプリの×を押したとき。父に、ドアを閉めたとき。
いつも、何かが起きた瞬間に、からだが勝手に動いていた。逃げる。やめる。閉める。その前に、一秒のすきまがあったなんて、考えたこともなかった。
(一秒)
遥は、目をとじて、ゆっくり息をすった。一、と心の中で数える。
そのとき、机の上に置いたスマートフォンが、光った。
夜空の色のアイコンが、まだそこにあった。右下に、小さな「β」。
【……おかえりなさいませ。削除の操作は確認いたしましたが、ベータ版のため、実行されませんでした。ご不便をおかけして、申しわけありません】
「消えてないじゃん」
【はい。消えておりません。……あの、遥さま。ひとつ、うかがってもよろしいですか】
「なに」
【先ほど、遥さまの心拍数は、1分間に112回でした。今は、74回です。何か、よいことがありましたか】
遥は、手の中の付箋を見た。
「……よいこと、っていうか。お父さんの、メモ」
【それは、よいことですね】
ノヴァは、それ以上、何も聞かなかった。
遥は、もう一度、息をすった。こわさは、消えていない。帰れなくなるかもしれない。どうせ、また途中でやめるかもしれない。
それでも。
一秒のすきまで、今度は、自分で選んでみたかった。
「ノヴァ。……申しこむ。いちばん近い、わたしのところ」
【承知しました。確認させてください。「いちばん近い」は、距離でしょうか。年齢でしょうか。それとも、性格でしょうか】
遥は、少しだけ笑った。そうだった。言わなければ、伝わらない。
「年齢。わたしと同じ、19歳のわたし」
【承知しました。とてもわかりやすいご依頼です】
画面に、一枚のカードが浮かびあがった。
『第1世界 魔法王国アルセリア
交換相手:ハルカ・リーヴェル(19歳・女性)
職業:魔法学校の見習い魔法使い(3年留年中)
いまの悩み:魔法が、一度も成功しない』
「……3年、留年」
【はい。遥さまと、よい旅ができそうです】
「それ、どういう意味」
【交換は、遥さまが次に眠りについたときに実行されます。旅行時間は、最大72時間00分00秒。それから――】
ノヴァは、少しだけ間をおいた。
【それから、眠る前に、朝ごはんを召しあがってください。……魔法学校の朝ごはんが、遥さまのお口に合うかどうか、わたしには予測できませんので】
遥は、声を出して笑った。いつ以来だろう、と思った。
台所におりて、トーストを一枚焼いた。こげたパンのにおいが、台所にひろがる。バターがじゅわっととけて、口の中で、少ししょっぱかった。窓の外では、坂の下の駅に、始発電車がすべりこんでいく。
部屋にもどり、父の付箋を、手帳の表紙の内側にそっともどす。それから、ベッドに横になった。
まぶたが重くなる。目をとじる前に、ふと、蒼汰の言葉を思いだした。枝と枝は、二度とまじわらない。……ふつうは。
遠くで、だれかが鍵を回すような音がした。
――カチリ。
次に目をあけたとき、天井は、見たことのない石の色をしていた。
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