1話 途中でやめる天才
午前0時。駅前のコンビニの蛍光灯は、昼も夜も、同じ白さで光っている。揚げ物のケースからは、油と衣の、少しこげたにおい。冷凍庫のモーターが、ブウンと低くうなりつづけている。
七瀬遥は、レジの横のホットスナックのケースをふきながら、壁の時計の長い針が12をこえるのを見ていた。7月4日。19歳になった。それだけのことだった。
(だから、何)
時計の秒針が、ちょうど0時をこえた瞬間、遥はふと思った。今、この一秒のどこかで、19歳にならなかった自分も、どこかにいたりするのだろうか。……ばかみたい。
「あ、七瀬さん。誕生日、今日だよね」
バックヤードから段ボールをかかえて出てきた柏木蒼汰が、のんびりした声で言った。23歳。大学院で宇宙の研究をしている、夜勤の相棒だ。店長の坂口さんの方針で、この店の夜勤は、かならず男性スタッフとの二人体制になっている。
「なんで知ってるんですか」
「シフト表のすみに、店長がメモしてた。『7/4 七瀬 誕生日』って。……おめでとう」
「……どうも」
蒼汰はそれ以上何も言わず、段ボールを開けて、カップ麺を棚にならべはじめた。遥は、その背中にほんの少しだけ感謝した。誕生日に何か言われると、何か返さなければいけない気がして、つかれる。
◇ ◇ ◇
午前1時40分。スーツの上着をうでにかけた男が、水のペットボトルとおにぎりを二つ、レジに置いた。40代くらい。ネクタイがゆるみ、目が赤い。
「袋」
「はい。おはしは――」
「いらない。早くして」
遥がバーコードを読みとるあいだ、男は指先でカウンターをたたきつづけた。トン、トン、トン。スキャナーが、一度だけ読みとりに失敗した。
「遅いんだよ」
小銭が、トレーにたたきつけられた。百円玉が一枚はねて、床を転がっていく。チャリン、チャリン、と乾いた音が、静かな店内に大きくひびいた。男は拾いもせずに袋をつかみ、店を出ていった。自動ドアのチャイムだけが、のんきに鳴った。
(どうせ、わたしなんか、お金を数える機械だと思ってるんでしょ。……この店、まだセルフレジもないのに)
しゃがんで百円玉を拾う。床のタイルは、夏なのに、ひやりと冷たかった。指先が、少しふるえていた。
百円玉は、表を上にして止まっていた。
「表か」
品出しの棚の向こうで、蒼汰がつぶやいた。
「何がですか」
「いや。裏で止まった世界も、どこかにあるのかなって。……ごめん、くせなんだ」
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶです。慣れてるんで」
うそだった。慣れるほど長く、何かを続けたことなんて、一度もない。
ピアノは、小学3年でやめた。バスケ部は、中学2年の夏にやめた。高校の美術部は、コンクールのしめきりの前の週にやめた。ダイエットは3日、日記は5日、英会話アプリは連続記録の12日目。
そして、デザインの専門学校は、3か月。
(わたしは、途中でやめる天才だ)
横浜駅の近くの専門学校。グラフィックデザイン科の、イラストレーション専攻。デッサン基礎も、タイポグラフィも、デジタルイラストも、きらいじゃなかった。最初につまずいたのは、色彩構成の講評会だった。
金曜日の午後、全員の作品が、教室の壁に一列に貼りだされる。ポスターカラーと、マスキングテープのにおい。蛍光灯の光をはね返す、40枚の色。遥が出したのは、夜の駅のホームの絵だった。蛍光灯だけが光る、だれもいないホーム。遥の作品の前で、講師は少しだけ長く立ちどまった。
「きれいだね」
ほめられたと思った。次のひとことを聞くまでは。
「きれいだけど――ここに、あなたがいない」
その翌週の月曜日、遥は駅の改札の前で立ちどまり、そのまま引きかえした。火曜日も、水曜日も。行かない理由は、毎日ちゃんと見つかった。
◇ ◇ ◇
午前3時。休けいの時間。バックヤードのパイプいすで、蒼汰は缶コーヒーを開けながら言った。
「七瀬さん、『多世界解釈』って知ってる?」
「たせかい……?」
「物理の考え方のひとつ。何かが起きるたびに、世界が枝分かれしてる、っていうの。ぼくがコーヒーを選んだ世界と、お茶を選んだ世界。どっちも、どこかで続いてるかもしれない」
蒼汰は、缶コーヒーを手の中で回した。プルタブの開いた口から、あまくて苦い湯気が、細くのぼる。
「木の枝みたいにね。一本の幹から、選ぶたびに枝が分かれて、その先がまた分かれて。だから、宇宙は、本当は一つじゃなくて、数えきれないくらいある……かもしれない、って話」
遥は、パイプいすの上でひざをかかえた。
「……じゃあ、専門学校をやめなかった世界も、あるんですか」
言ってから、しまった、と思った。蒼汰は少しだけ目を丸くして、それから、いつものようにのんびり笑った。
「あるかもね。でも、その世界の七瀬さんは、たぶん、こっちの七瀬さんのことを知らない」
「会えないんですか。その、別の世界の自分と」
「ふつうは、会えない。枝と枝は、二度とまじわらないことになってる。……ふつうは、ね」
蒼汰は、それから、少しだけ声を落とした。
「でもさ、最近、ちょっと気になる論文があって。枝が分かれる数が、ここ何年か、へってるんじゃないかって。みんなが同じものを選ぶようになると、枝は、だんだん分かれなくなるんだって。……まあ、こじつけだと思うけど」
なぜか、その言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。
◇ ◇ ◇
午前5時すぎ。東の空がうすく明るくなりはじめたころ、自動ドアが開いた。
ひんやりとした朝の空気が、すきまから流れこんでくる。どこか遠くで、カラスが一度だけ鳴いた。
あの男だった。上着は着ていない。手には、病院の名前が印刷された紙袋をさげている。
男はまっすぐレジに来ると、遥の前で、頭を下げた。
「さっきは、悪かった。……母が、夜中に救急車で運ばれてね。病院の売店が閉まってて、ここに来たんだ。気が立ってた。きみに当たることじゃなかった」
遥は、何も言えなかった。
さっきまで、この人は「いやな客」だった。今は、母親のベッドのそばで一晩じゅう眠れなかった人に見える。同じ顔なのに。同じ赤い目なのに。
(見えてるものって、メガネの色で、こんなに変わるんだ)
どこかで聞いたことのある言葉だった。父の声だった気がした。
遥は、ホットドリンクの棚の裏にまわった。お客さんの側からは手のとどかない、反対がわの段に、『非売品』のシールを貼ったお茶が何本か、並んでいる。夜勤の人が冷えたときにと、店長が置いてくれている、従業員用のサービス品だ。遥はその一本を取って、男の前に置いた。ペットボトルの熱が、手のひらにじんわりとしみた。
「これ、よかったら。……病院、朝は冷えると思うので」
男は少しおどろいた顔をして、それから、小さく笑った。
「ありがとう」
自動ドアが閉まる。チャイムの音が、さっきより少しだけ、やわらかく聞こえた。
◇ ◇ ◇
朝6時。夜勤を終えて坂をのぼる。夜のあいだに降った小雨で、アスファルトがしめったにおいを立てていた。坂の上の電線で、すずめが何羽も、いそがしそうに鳴いている。家の鍵は、もうかかっていた。母の京子は、調剤薬局の早番に出たあとだった。
台所のテーブルに、メモが一枚。
『誕生日おめでとう。ケーキは冷蔵庫。今日も遅くなります。母』
冷蔵庫を開けると、小さなショートケーキが一つ、とうめいなケースに入っていた。ろうそくは、なかった。冷蔵庫の冷たい息が、ほおにふれた。
二階にあがる。自分の部屋のとなりに、父の書斎のドアがある。
父・航が亡くなって、3年がたつ。システムエンジニアだった父は、大きな仕事の納期が重なった冬、休みなく働きつづけて、深夜、この書斎で倒れた。心筋梗塞。50歳だった。
その夜、16歳の遥は、父とけんかをしていた。何が原因だったのか、もう思いだせない。思いだせるのは、自分の最後の一言だけだ。
「どうせ、お父さんには、わたしの気持ちなんかわからない」
そう言って、遥は自分の部屋のドアを閉めた。それが、最後の会話になった。
書斎のドアを、少しだけ開ける。紙と、冷めたコーヒーのにおいが、まだ残っている気がした。本当は、もうとっくに消えているはずなのに。
机の上に、黒い革の手帳が一冊。表紙には、父の几帳面な字で『7ルーティン』。付箋が何十枚もはみだして、手帳は、もとの倍ぐらいにふくらんでいる。
3年間、遥はその手帳を、一度も開けていない。開けたら、父が最後に自分に言いたかったことが書いてある気がする。それが、こわかった。
「7月4日は、独立記念日なんだぞ」
毎年、誕生日のケーキの前で、父はそう言った。
「それ、アメリカの話でしょ」
「そう。だれかに頼らず、自分の足で立つ日だ。遥にぴったりの誕生日だよ」
あのころは、意味がわからなかった。今も、わからない。自分の足で立ったことなんて、一度もないのに。
書斎のドアを閉めて、自分の部屋にもどる。机の上に、描きかけのスケッチブック。遥が描くのは、いつも、人のいない場所ばかりだった。夜明けの坂道。シャッターの下りた商店街。雨のバス停。人の顔を描こうとすると、なぜか手が止まる。場所なら、いくらでも描けるのに。
ベッドにたおれこむ。スマートフォンを開くと、SNSに、陽菜の新しい投稿があった。
専門学校で、いちばん仲のよかった友だち。入学式の日、となりの席で、遥の筆箱にかいた落書きを「かわいい」と言ってくれた子。
『前期最後の講評会、おわった! 途中でいなくなった人のぶんまで、がんばった』
写真には、壁に貼られた作品の列。そのまんなかに、遥が使うはずだった場所が、ぽっかりあいている――ように、遥には見えた。
(どうせ、わたしのこと、笑ってるんでしょ)
画面を消して、目をとじた。
昼すぎまで眠り、夕方、ひとりでショートケーキを食べた。生クリームはあまいのに、いちごは少しすっぱくて、なぜか、のどの奥がつんとした。母は、夜の10時をすぎても帰ってこなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は夢を見た。
白い廊下。どこまでも続く、白い壁。その先に、白い扉が一つ。音がない。においもない。はだしの足のうらに、床の冷たさだけがあった。
廊下の両がわには、同じ白い扉が、数えきれないほどならんでいた。どの扉の前にも、だれかが立っている気配がした。顔は見えない。けれど、どの背中も、耳たぶをさわっていた。親指と人さし指で、右の耳たぶをつまむ背中。くいっ、くいっと、二回引っぱる背中。親指の腹で、ぐっと押しこむ背中。指先で、とん、とん、と軽くたたく背中。少しずつちがうのに、なぜか、どれも自分のくせだとわかった。
扉には、鍵穴が七つ、たてにならんでいた。どれも、光っていない。
鍵穴の外枠のプレートは、一つずつちがっていた。星をきざんだ、古い真鍮。うろこのような模様の銀。羽根の模様をきざんだ、あかがね色の銅。黒くつやのある木。赤くさびた鉄。白く光る、見たことのない金属。そして、いちばん下の一つだけは、何の飾りもない、ふつうの家のドアについているような、銀色のプレートだった。
扉の向こうから、声がした。
――トワ。
だれかの名前を呼んでいる。いや、ちがう。だれかが、自分の名前を名のっている。
――トワ。ここを、あけて。
遥は、手をのばそうとした。けれど、その手は、鍵を持っていなかった。
七つの鍵穴のうち、いちばん上のひとつが、まばたきするように、一瞬だけ光った。
目をさましたとき、まくらがぬれていた。時計は、午前3時14分。
まくらもとのスマートフォンが、一度だけ、ふるえた。




