19話 子のいる体〈残り72時間〉
最初に気づいたのは、重さだった。
胸の上に、何か、あたたかくて、やわらかくて、ずっしりとしたものが、乗っている。
遥は、目をあけた。
赤ちゃんだった。
丸い顔。ぷっくりとしたほっぺ。小さなこぶしを、遥の着物のえりに、ぎゅっとからませて、すうすうと寝息を立てている。ミルクのような、日なたのような、あまいにおいがした。
(……え)
声を出しそうになって、あわててのみこんだ。赤ちゃんが、むにゃ、と口を動かす。
天井は、すすけた木の梁と、かやぶきの屋根の裏だった。土と、わらと、かまどの煙のにおい。板戸のすきまから、白い朝の光が、細い線になって、土間にさしこんでいる。遠くで、にわとりが、けたたましく鳴いた。
[おはようございます。旅行1日目、午前7時00分06秒。魂の交換は、正常に完了しました]
〈おはよう、遥。……その子、あったかいね〉
ノヴァ1とノヴァ2の声が、耳の奥で、つづけてひびいた。
[現在地は、第3世界、戦国時代の近江国、甲賀の山里、水無瀬村。天正のころと推定されます。交換相手は、お遥さま、42歳。忍びの妻で、夫の留守をあずかる、村の長です]
(42歳……)
遥は、そっと、自分の手を見た。
指のふしが、太かった。手のひらは、まめと、あかぎれで、がさがさしている。爪のあいだに、土がしみこんでいた。何十年も、水をくみ、田を耕し、子を育ててきた手だった。
腰が、重い。ひざが、少しきしむ。けれど、それ以上に、胸の上の、この小さなからだの重さが、遥のからだ全部を、しずかに、しっかりと、地面にしばりつけていた。
[胸の上のお子さまは、お鈴さま、1歳半。もう一人、ご長男の小太郎さま、7歳がいらっしゃいます]
「かかさま」
土間のほうから、小さな声がした。
見ると、男の子が、板戸のそばに立っていた。つんつるてんの着物。ひざこぞうに、すり傷。ぼさぼさの髪を、うしろでひとつにしばっている。手には、水の入った木の桶を、両手でかかえていた。
「水、くんできた。……かかさま、きのう、ずっとせきしてたから」
小太郎だった。
遥は、胸の奥が、きゅうっと、しめつけられるのを感じた。
こんな小さな子が、母親の心配をしている。
◇ ◇ ◇
その日は、目が回るほど、いそがしかった。
お鈴が、泣く。おなかがすいたのか、おしめがぬれたのか、ねむいのか、遥には、まるでわからない。とりあえずだきあげて、ゆらす。泣きやまない。ゆらし方を変える。もっと泣く。
[乳児の泣き声の原因は、統計上、空腹が42%、不快が31%、眠気が18%、そのほかが――]
(それ、今、聞いてもわかんない!)
〈遥。お鈴の、からだの、どこが、かたい?〉
ノヴァ2の声に、遥は、お鈴を見た。小さな足を、つっぱって、おなかに力を入れている。
「……おなか?」
となりの家の、おかみさんが、ひょいと顔を出した。
「おやまあ、お遥さん。お鈴ちゃん、おなかにガスがたまってるんだよ。いつも、あんたがやってる、ほら、こうやって」
おかみさんは、お鈴をうつぶせにして、背中を、手のひらで、とん、とん、と、ゆっくりたたいた。お鈴が、ぷうっと小さな音を立てて、とたんに、けろりと泣きやんだ。
「どうしたんだい、今日は。熱でもあるのかい」
遥は、あいまいに笑うしかなかった。
それから、田の水。
村の長の家には、朝から、村人たちが、次々《つぎつぎ》にやってきた。上の田の吾作と、下の田の弥平が、田んぼに引く水の量で、つかみあいのけんかをしている。今年は、泉の水が、少ない。去年よりも、おととしよりも。
「お遥さま、どうにかしてくだせえ。このままじゃ、うちの稲が、枯れちまう」
「なに言ってやがる。おめえんとこが、水口を広げたからだろうが!」
二人の大人の男が、遥の前で、どなりあっている。その向こうで、ほかの村人たちが、じっと、遥の顔を見ていた。
村の長が、どう答えるのか。
遥は、のどが、からからになった。
(わたし、19歳だよ。コンビニの夜勤しか、したことないんだよ)
けれど、このからだは、42歳だった。この村の、だれもが、このからだの声を、待っていた。
◇ ◇ ◇
夜。
お鈴が、やっと眠った。小太郎も、遥のとなりで、丸くなって寝息を立てている。
いろりの火が、ぱちぱちと、小さくはぜていた。
遥は、いろりのそばに、すわりこんだ。腰が、いたかった。肩が、がちがちに、こっていた。何より、心が、くたくただった。
昼間の、吾作と弥平のけんかは、結局、遥には、おさめられなかった。「あした、考える」と言うのが、せいいっぱいだった。二人とも、ふまんそうな顔で、帰っていった。
自分以外の命を、背負う。
それが、こんなに重いことだとは、知らなかった。
小太郎が、寝返りを打った。むにゃむにゃと、寝言を言う。
「……とと、さま……」
遥は、小太郎の寝顔を見つめた。
[お遥さまの夫、甚八さまは、1年前、忍びの務めで、西の国へ向かいました。それ以来、便りはありません]
ノヴァ1の声は、いつもどおり、正確だった。
1年。生きているのか、いないのか、わからないまま。お遥は、この村と、二人の子を、ひとりで、守ってきたのだ。
遥の指先が、無意識に、耳もとにのびた。指先で、とん、とん、と、耳たぶを、軽くたたいていた。遥のくせではない。お遥の、くせだった。
とん、とん。
お鈴の背中を、たたいたときと、同じリズムだった。
(……この人は、こうやって、ずっと、だれかを、なだめてきたんだ)
自分のことも。
いろりの火を見つめながら、遥は、ふと、母のことを思った。
夫を亡くしてから、仕事をふやして、ひとりで、遥を育ててきた母。
あの人も、こんなふうに、夜、ひとりで、火を見つめていたのだろうか。




