18話 ふたつめと、みっつめの鍵穴〈帰還〉
自分の部屋の天井を見たとたん、記憶が、なだれのように流れこんできた。
細い腕で、満員電車の手すりをつかんだときの、ぎしぎしというきしみ。押しつぶされそうな女の子の、「ありがとうございます」。
専門学校の門の前の、陽菜の涙。「さみしかったの。……それだけ」。
夕焼けの海ぞいの道。手をつないで歩いていく、二人の女の人の背中。ほおをつたった、熱いもの。
そして、コンビニの店長の前に置いた、一枚の紙。
遥は、ベッドの上で、しばらく、動けなかった。
怒りが、こみあげてきた。どうして。どうして、勝手に。やっと、店長に、自分の言葉で話せたのに。
けれど、その怒りのすぐ下から、べつのものが、わきあがってきた。
夜風の中で、ハルが見あげた空。
(もどったら、言おう)
ハルは、遥の隠れ場所を、こわしていった。そして、自分の隠れ場所からも、出ていこうとしていた。
遥は、まくらに顔をうずめた。
「……ばか」
それが、だれに向けた言葉なのか、自分でも、よくわからなかった。
◇ ◇ ◇
[帰還後の手続きを、ご案内します]
スマートフォンから、ノヴァ1の声がした。
〈おかえり、遥〉
ノヴァ2の声も、いっしょだった。
ノヴァは、二人のまま、だった。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は、コンビニに行った。
店長は、レジの奥にいた。遥の顔を見ると、少しだけ、気まずそうに目をそらした。
「店長。あの、この前の、退職届のことなんですけど」
言いかけて、遥は、言葉に、つまった。
あれは、わたしじゃない。別の世界の、わたしなんです。――そんなことを、言えるはずがなかった。
店長は、しばらくだまっていた。それから、ゆっくりと口をひらいた。
「退職届は、受けとった。来週から入る人も、もう、決めた」
胸が、ずしんと重くなった。
「……ただな、七瀬」
店長は、レジのカウンターに、両手をついた。
「あの夜のおまえは、今まで見たなかで、いちばん、まっすぐな顔をしてた。ここで、だれとも目を合わせずに働いてるおまえより、ずっとな。……ここは、おまえが、ずっといる場所じゃないのかもしれん」
遥は、何も言えなかった。
「何か決まったら、顔を見せに来い。……それだけだ」
店を出ると、蒼汰が、裏口の前で、段ボールをつぶしていた。
「七瀬さん」
蒼汰は、少し笑った。
「この前の七瀬さん、また、別の世界の人みたいだったよ。……騎士みたいだった」
「……そうですか」
「うん。でも、たぶん、どの世界の七瀬さんも、七瀬さんなんだと思う。……がんばってね」
◇ ◇ ◇
家に帰ると、スマートフォンに、陽菜からの長いメッセージがとどいていた。
『遥へ。
この前は、びっくりした。でも、遥が、あんなふうに、まっすぐ怒ってくれて、正直、ちょっと、うれしかった。
あの投稿、ごめん。遥に見てほしくて、わざと、あんな書き方した。最低だよね。
遥が来なくなって、わたし、講評会で、遥のとなりの壁が、ずっとあいてるのを見てた。
あの夜の駅の絵、すごく、好きだった。先生は「あなたがいない」って言ったけど、わたしは、あの絵の中に、遥がいると思った。だれもいないホームに、ひとりで立ってる遥が。
返事は、いらない。でも、いつか、また、遥の絵が見たい。陽菜』
遥は、画面を見つめたまま、長いあいだ、動けなかった。
怒りと、はずかしさと、それから、ほんの少しの、ありがたさ。
返事を書こうとして、何度も消した。どの言葉も、ちがう気がした。
結局、遥は、短く、一行だけ送った。
『読んだ。ありがとう。少しだけ、時間をください』
◇ ◇ ◇
翌朝、遥は、父の書斎で、手帳を開いた。
ルーティン1のページの、次のページ。
『ルーティン2「着地点から飛べ」
ゴールの見えない山には、登れない。
自分のお別れの会で、だれに、何と言われたいか。それを、先に書け。
それが、お前の人生のコンパスになる』
ガイウスの手帳と、同じことが書いてあった。
さらに、次のページ。
遥は、息をのんだ。
そこには、大きな四角が描かれていた。十字に区切られた、四つの部屋。
『ルーティン3「急がない宝物から」
大切なことは、たいてい、急いでいない。
急ぎの部屋は、放っておいても、むこうから来る。
急がない宝物の部屋だけは、自分で、ドアを開けに行くしかない』
イリスが、剣の先で、土に描いた図と、まったく同じだった。
(……これだったんだ)
ページのすみに、付箋が一枚。父の字だった。
『今週も、仕事が全部、一つ目の部屋に入ってきた。二つ目の部屋に、遥の運動会を入れたかった。来年こそ』
遥は、その付箋を、指でなぞった。
来年は、来なかった。
父は、二つ目の部屋のドアを、最後まで、開けられなかったのだ。
◇ ◇ ◇
その日、遥は、三つのことをした。
ひとつ。スマートフォンの、ほとんどの通知を、切った。
ふたつ。毎朝30分だけ、絵を描くと決めて、その日の朝、さっそく描いた。竜の背から見た、雲の海。夜明けの空を、竜と人が、ならんで飛んでいる絵。人の顔は、まだ、描けなかった。けれど、空の中に、小さく、竜騎士の影を、ふたつ、描きいれた。
みっつ。新しいノートの最初のページに、題名を書いた。
『人生のコンパス(下書き)』
その下に、しばらく考えてから、一行だけ書いた。
『七瀬遥は、描くことから、もう逃げなかった』
書いてから、少し、はずかしくなった。消そうかと思った。けれど、消さなかった。ガイウスも、ハルも、たぶん、父も、きっと、こうやって、何度も迷いながら、書いたのだ。
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
白い扉。七つの鍵穴。いちばん上の、星をきざんだ真鍮のプレートの鍵穴が、若葉の色に光っている。
その下の、うろこ模様の銀のプレートの鍵穴が、ゆっくりと、明るくなった。
そして、その下の、羽根の模様の、あかがね色の銅のプレートの鍵穴も。
――ふたつめ。……みっつめ。
扉の向こうの声が、少しだけ、近くなった気がした。
――あと、よっつ。
◇ ◇ ◇
目がさめると、スマートフォンの画面に、星がならんでいた。
『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』
遥は、指を止めた。
「……ねえ。これ、どっちにつければいいの」
[評価は、旅行一回につき、一つです]
〈どっちでも、いいよ〉
遥は、しばらく考えて、星を四つ、黒くした。
「四つ、★★★★。……二人で、四つ」
[……規定にない評価方法です]
〈やった。はんぶんこだね〉
二人のノヴァの声が、同時に、ひびいた。
それから、ノヴァ2の声だけが、少しだけ、ためらうように、続いた。
〈遥。次の旅行先では――〉
〈あなたは、お母さんです〉




