15話 祭りの準備〈残り24時間〉
ほとんど、眠れなかった。
雇用契約を、解除しました。ノヴァ1のその一言が、ひと晩じゅう、頭の中で回っていた。
「なんで、勝手にやめるの……!」
朝の竜舎で、遥は、わらをけとばした。わらくずが舞いあがり、子竜がおどろいて、ピイッと鳴いた。
[交換相手の行動について、旅行者が介入する方法はありません。現在、遥さまが対応すべき課題は、こちらの世界にあります]
ノヴァ1の声は、いつもどおり、冷たく正確だった。
〈……くやしいね〉
ノヴァ2が、ぽつりと言った。
〈せっかく、店長さんに、自分の言葉で話したばっかりだったのに〉
遥は、何も言いかえせなかった。のどの奥が、つんと熱くなった。
あの夜、壁のシフト表に、店長が青いペンで引いてくれた、一本の線。「今日から、数えなおしだ」。あれは、遥が、自分の足で、はじめて手に入れたものだったのに。
◇ ◇ ◇
けれど、くやしがっているひまは、なかった。
竜祭りは、明日だった。
ドラグネアでいちばん大きな祭り。王都の空いっぱいに、竜騎士隊の竜が舞い、人々《ひとびと》は、屋根の上から、色とりどりの布をふる。その飛行の指揮を、隊長の代わりに、ハルがとることになっていた。
天空砦の作戦室の机には、書類が、山のようにつまれていた。
王宮からの式次第。飛行隊列の届け出。観覧席の警備の配置。飾りの布の数。竜の鞍につける金の鈴の注文書。そして、祭りの後援者、ヴァルデン侯爵からの、手紙の束。
[本日の課題を、優先度の順に並べます]
ノヴァ1が言った。
[第一に、ヴァルデン侯爵の要望への回答。侯爵は、竜騎士隊の予算の3割を出しています。侯爵の満足度は、隊の来年の運営に、直接影響します。第二に、飛行隊列の最終確認。第三に、王宮への届け出――]
ノヴァ1の言うことは、すべて正しかった。どれも、今日じゅうに、片づけなければならないことばかりだった。
作戦室の扉が開いて、イリスが入ってきた。
「ハル。午後の訓練、どうする?」
「訓練?」
「竜たちの、ならし飛行。祭りの前は、毎日やるでしょ。……ここ二日、やってないのよ」
イリスの声は、かたかった。
「竜たちの様子が、おかしいの。羽が、いつもより、ずっと震えてる。夜も、北の空を見て、落ちつかない。ちゃんと飛ばして、ちゃんと休ませてやらないと」
遥は、書類の山を見た。それから、イリスを見た。
[訓練は、祭りの成否に直接は関係しません。後まわしを推奨します]
ノヴァ1が言った。
〈……セレンの羽、見た?〉
ノヴァ2が、小さく聞いた。
遥は、ノヴァ2の声を、聞かなかったふりをした。
「訓練は、あしたの朝にする。今日は、侯爵の要望を、先に片づけないと」
イリスは、しばらくだまって遥を見ていた。それから、短く「わかった」とだけ言って、作戦室を出ていった。
扉の閉まる音が、少しだけ、強かった。
◇ ◇ ◇
作戦室を出ると、廊下で、まだあどけない顔の少年が、待っていた。
「副隊長!」
新人の騎士、トマスだった。16歳。この春、竜騎士隊に入ったばかりで、背は遥の肩くらいまでしかない。銀の胸当てが、まだ、からだに合っていなかった。
「午後の訓練、ないんですか。ぼく、まだ、急な旋回がうまくできなくて。祭りの本番で、失敗したら、どうしようって……」
トマスは、両手を、ぎゅっとにぎりしめていた。
遥は、その手を見た。19歳の遥が、専門学校の入学式の日に、同じように手をにぎりしめていたことを、思いだした。
「……あしたの朝、やるから。それまで、ちゃんと寝て」
「はい!」
トマスは、ぱっと顔をかがやかせて、走っていった。
その背中を見おくりながら、遥は、胸の奥に、小さな、とげのような不安を感じた。けれど、それも、書類の山のことを考えるうちに、すぐに見えなくなった。
◇ ◇ ◇
昼すぎ、ヴァルデン侯爵が、天空砦にやってきた。
でっぷりと太った、赤ら顔の男だった。指という指に、宝石の指輪が光っている。香水の、むせかえるようなあまいにおいが、作戦室いっぱいにひろがった。
「やあ、ヴァルト家のお嬢さん。いや、副隊長どのか。祭りのあとは、わが家の息子とも、顔合わせだそうだね。楽しみにしているよ」
侯爵は、にこにこと笑った。
遥の胸の奥で、ハルのからだが、ぎゅっとかたくなった。息が、浅くなる。手のひらが、つめたくなる。
この人の家に、ハルは、嫁ぐことになるかもしれないのだ。
「ところで、祭りの最後に、わたしからの『おくりもの』を、王都の皆さまにお披露目したい。竜騎士隊には、その台の、警護をたのみたいのだがね」
侯爵が、天空砦の中庭を指さした。
そこには、大きな布をかぶせた、荷車が一台、止まっていた。布の下で、何かが、ぼんやりと光っているように見えた。
中庭のすみで、セレンが、うなり声をあげた。
低く、長く。今まで、聞いたことのない声だった。
◇ ◇ ◇
夜おそくまで、遥は、書類と格闘した。
侯爵の要望。隊列の変更。鈴の数の数えなおし。ひとつ片づけると、また、ひとつふえる。
作戦室の窓の外で、竜たちが、落ちつきなく、羽を鳴らしていた。ばさり、ばさり。北の峰のほうから、ときどき、あの、低いうなり声が、風にのってとどく。そのたびに、竜舎じゅうの竜が、いっせいに頭をあげた。
遥は、ペンを止めて、ふと思った。
自分の毎日も、こうだった。
夜勤のシフト。寝る時間。SNSの通知。返さなきゃいけないメッセージ。今すぐやらなきゃいけないことだけで、一日がうまっていた。そして、本当にやりたかったこと――絵を描くこと――は、いつも、「あとで」の箱に入れたまま、ふたを閉めていた。
あとで、あとで。
その「あとで」は、いつまでたっても、来なかった。
〈遥〉
ノヴァ2が、そっと呼んだ。
〈今、セレンの羽、見に行ける?〉
遥は、窓の外を見た。月の光の中で、セレンの銀色の翼が、こまかく、こまかく、震えていた。
まるで、何かに、おびえているように。




