14話 〈向こうの私〉竜騎士、満員電車に乗る
ハル・ヴァルトが最初に気づいたのは、からだの、たよりなさだった。
腕が、細い。肩が、うすい。にぎりこぶしをつくっても、指の力が、まるで入らない。剣を持ったことのない手だ、と、すぐにわかった。
ハルは、ベッドの上で、うつ伏せになって、親指の腹で、右の耳たぶの下を、ぐっと押しこんだ。考えごとをするときの、くせだった。
(ここが、もう一人のわたしの世界)
机の上の、黒い平たい板が、光っていた。
『ようこそ、ハル・ヴァルトさま。こちらは、交換相手さま向けのご案内です』
ハルは、案内を、すみからすみまで読んだ。竜騎士は、任務の前に、命令書を最後まで読む。それから、板の使い方を、半日で覚えた。
そして、ひとつの画面で、指を止めた。
「SNS」という場所に、遥の、元の友人の言葉があった。
『途中でいなくなった人のぶんまで、がんばった』
ハルは、眉をひそめた。
言いたいことがあるなら、本人の前で言え。遠まわしに、背中から矢を射るようなまねは、騎士のすることではない。
「……明日、行くぞ」
ハルは、だれもいない部屋で、つぶやいた。
その日、ハルは、案内と、板の使い方と、この世界の地図を、夜までかかって頭にたたきこんだ。
◇ ◇ ◇
2日目の朝。駅の階段をおりたところで、ハルは、立ちどまった。
人が、多すぎた。
ホームに、すきまなく人がならんでいる。到着した鉄の箱の扉が開くと、中から人があふれ出し、それと同じ数の人が、また、すいこまれていく。
戦場の、突撃のようだった。
ハルは、ぐっとこぶしをにぎり、人の波に飛びこんだ。
背中を押される。肩がぶつかる。だれかのカバンが、わき腹にくいこむ。息をするのも、むずかしい。知らない人の、汗と、香水と、コーヒーのにおい。鉄の箱が、がたん、とゆれるたびに、何十人ものからだが、いっせいに同じ方向へかたむく。
それなのに、だれも、声をあげない。だれも、怒らない。みんな、黒い板を見つめたまま、ただ、だまって、この押しつぶされるような時間に、たえている。
(この世界の人たちは、毎朝、これを……?)
竜の背の、あの広い空を思った。ハルは、少しだけ、この世界の人たちを、尊敬した。
ななめ前で、背の低い女の子が、大きな男の背中に押しつぶされそうになっていた。
ハルは、片腕を、女の子の頭の上の手すりにのばし、自分の背中で、うしろからの圧をうけとめた。細い腕が、ぎしぎしときしむ。この弱いからだでも、盾にくらいは、なれる。
女の子が、小さく「ありがとうございます」と言った。
ハルは、だまって、うなずいた。
◇ ◇ ◇
専門学校の門の前で、ハルは、二時間、待った。
夕方、門から、学生たちがぞろぞろと出てきた。その中に、写真で見た顔があった。茶色の髪を、ゆるく一つにまとめた女の子。大きなスケッチブックを、胸にかかえている。
「水野陽菜」
ハルは、その前に立ちはだかった。
陽菜は、目を丸くした。
「……遥? なんで、ここに」
「遥のことを、遠まわしに書くのは、やめろ」
陽菜の顔から、血の気が引いた。
「言いたいことがあるなら、本人の前で言え。背中から矢を射るのは、卑怯者のすることだ」
まわりの学生たちが、何ごとかと、ふり返った。
陽菜は、スケッチブックを強くだきしめた。くちびるが、ふるえていた。
「……言えるなら、言ってたよ」
小さな声だった。
「遥、急に来なくなって。連絡しても、返事、ないし。わたし、何かしたのかなって、ずっと。……いなくなった人のぶんまで、って書いたのは、遥に、見てほしかったから。見て、怒って、何か言ってきてほしかったから」
陽菜の目から、涙が、ぽろりとこぼれた。
「さみしかったの。……それだけ」
ハルは、言葉につまった。
怒りが、すっと、引いていった。かわりに、胸の奥に、べつのものが、うずいた。
言いたいことを、本人の前で言えない。その気持ちを、ハルは、だれよりもよく知っていた。
「……すまない。言いすぎた」
ハルは、陽菜の前で、深く頭を下げた。
「その言葉を、遥に、そのまま伝えてやってくれ。遥は、きっと、聞く」
◇ ◇ ◇
帰り道、ハルは、海の見える広い通りを歩いた。
夕焼けが、水面を、オレンジ色にそめていた。潮のにおい。かもめの声。遠くで、大きな観覧車が、ゆっくりと回っている。
そのとき、ハルの足が、止まった。
前を、二人の女の人が、歩いていた。
手を、つないでいた。
どちらも、ハルと同じくらいの年に見えた。一人が何か言って、もう一人が、肩をゆらして笑う。つないだ手を、子どものように、前後にふる。
すれちがう人たちは、だれも、ふり返らなかった。だれも、指をささなかった。夕焼けの中を、二人は、ほかのだれとも同じように、ただ、ふつうに、歩いていった。
ハルは、その場に、立ちつくした。
からだが、動かなかった。胸の奥から、熱いものが、のどまで、せりあがってきた。
(……この世界では、だれも、ふり返らないのか)
ドラグネアでは、ありえないことだった。騎士の家の娘が、女を愛するなど。だれにも言えない。言えば、家も、隊も、何もかも、失うかもしれない。だから、ハルは、日記の三行目を、何度も消そうとしてきた。
それなのに、ここでは。
夕焼けの中を、遠ざかっていく二人の背中を、ハルは、見えなくなるまで、見ていた。
ほおが、ぬれていた。遥のからだの涙だった。けれど、それは、まちがいなく、ハル自身の涙だった。
◇ ◇ ◇
その夜、ハルは、遥の職場だという、明るい店に行った。
店の奥で、50代の男が、書類を見ていた。店長、と呼ばれている人だ。となりで、やさしそうな青年が、品物をならべていた。
ハルは、この一日で、遥という人間のことを、少しだけ知った。
絵がうまいこと。けれど、描いた絵を、だれにも見せていないこと。友だちから、にげていること。夜の店で、だれとも目を合わせずに、すむ仕事をしていること。
ここは、遥の、隠れ場所なのだ。
ハルには、それが、わかった。自分も、ずっと、隠れてきたから。
(隠れ場所があるかぎり、人は、出てこない)
ハルは、紙に、遥の字で、短く書いた。
『退職届 一身上の都合により、本日をもって退職いたします。七瀬遥』
店長の前に、それを置いた。
「……七瀬?」
店長が、顔をあげた。品出しの手を止めた青年が、目を丸くした。
「これまで、世話になりました」
ハルは、騎士の礼で、胸に手を当て、深く頭を下げた。
店を出ると、夜風が、ほおをなでた。
ハルは、夜空を見あげた。この世界の空には、竜は飛んでいない。けれど、遠くの、あの空のどこかに、自分の世界がある。
そして、そこには、イリスがいる。
(もどったら、言おう)
ハルは、親指の腹で、耳たぶの下を、ぐっと押した。
(本当の名前で、呼んでほしいと)
◇ ◇ ◇
同じころ、遠いドラグネアの空の下。
祭りの準備の書類に追われ、夜おそく、ハルの部屋のベッドにたおれこんだ遥の耳の奥で、冷たい声がひびいた。
[報告します。交換相手が、旅行者の雇用契約を、解除しました]
「……は?」
遥は、がばっと起きあがった。




