13話 隊長の手帳〈残り48時間〉
隊長ガイウスは、天空砦の医務室で、ベッドに横になっていた。
白いひげ。がっしりとした肩。それなのに、毛布の上に置かれた手は、思っていたよりも、ずっとやせていた。
「来たか、ハル」
ガイウスは、かすれた声で言った。
「医者に、ひと月は飛ぶなと言われた。……情けないことだ。祭りの準備と、北の峰の見回りと、新人の訓練と。ぜんぶ、自分でやらねばと思っておった。気がついたら、竜舎の床で、天井を見ておったよ」
遥は、胸の奥が、きゅっとちぢむのを感じた。
休みなく働きつづけて、倒れた人。
父の顔が、浮かんだ。
「ハル。これを、あずける」
ガイウスは、枕もとから、一冊の手帳を取りだした。茶色の革の表紙が、手あかで黒ずんでいる。
「隊長になった日に、先代の隊長から、もらったものだ。最初のページを、読んでみろ」
遥は、手帳を開いた。
『最後のスピーチ。
自分のお別れの会で、仲間に、何と言われたいか。
それを先に書け。それから、毎日を飛べ』
その下に、ガイウスの、太い字。
『ガイウスは、一度も、仲間を見すてなかった』
さらに、その下に、ずっと新しいインクで、小さく書き足されていた。
『……それと、たまには、休んでいた、と言われたい』
ガイウスは、てれくさそうに、天井を見あげた。
「それは、ゆうべ書いた。倒れてから、やっと気づいたのだ。わしの『最後のスピーチ』には、走ることしか、書いておらんかった」
◇ ◇ ◇
昼すぎ、訓練に使う地図を取りに、ハルの部屋にもどったとき、遥は、ハルの日記を見つけた。
見るつもりは、なかった。机の引き出しを開けたら、地図の下から、すべり出てきたのだ。
閉じようとした。けれど、開いたページの、最初の一行が、目に入ってしまった。
『最後のスピーチ』
ハルも、ガイウスの手帳をまねて、書いていたのだ。
『ハル・ヴァルトは、仲間の命を、最後まであずかった』
『ハル・ヴァルトは、セレンの、いちばんの友だちだった』
そして、三行目。インクが、少しにじんでいた。何度も書いては、消そうとしたあとがあった。
『イリスに、「副隊長」でも「ヴァルト家の娘」でもなく、「ハル」と呼ばれたい。……本当の、わたしの名前で。いつか』
遥は、日記を、そっと閉じた。
昼間の、心臓の音を思いだす。イリスが笑ったときの、あの、どくん。
ハルは、イリスのことが、好きなのだ。
そして、それを、だれにも言えずにいる。
机の上には、もう一通、手紙が置かれていた。ヴァルト家の紋章の封蝋。父親からの手紙だった。
『祭りのあと、ヴァルデン侯爵家の長男殿との顔合わせを行う。竜騎士の家の娘として、よき縁組みである。心しておくように』
この国では、騎士の家どうしが縁組みをするのが、あたりまえなのだと、からだが知っていた。女の騎士が、女の騎士を愛することなど、だれも、考えてもいない。
遥は、ベッドにすわり、胸に手を当てた。
ハルのからだの心臓は、今は、静かだった。静かで、少しだけ、重かった。
(ハルは、ずっと、ひとりで、これを抱えてきたんだ)
人を好きになることに、正しい形なんてあるのだろうか。遥には、わからなかった。わかるのは、ただ、このからだの奥にある気持ちが、まっすぐで、本物だということだけだった。
遥は、ハルの日記を、引き出しの、地図の下にもどした。
(ハルの気持ちは、ハルのものだ。わたしが、かわりに決めちゃいけない)
〈……うん〉
ノヴァ2が、小さく言った。ノヴァ1は、何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、遥は、イリスといっしょに、新人の騎士たちの着地訓練を見ていた。
天空砦の下の、草の原。新人たちの竜が、次々《つぎつぎ》に舞いおりてくる。けれど、何頭かは、うまく着地できず、何度も草の原の上を旋回していた。
「あの子たち、着地する場所を見てないのよ」
イリスが、腕を組んで言った。風に、短い黒髪がなびく。
「竜はね、降りる場所を見てから、飛ぶの。どこに降りるかを、先に決める。そうしないと、いつまでも、空をぐるぐる回るだけ。……ハルが、新人のころ、わたしに教えてくれたことじゃない」
イリスは、遥の顔を、のぞきこんだ。
「ハル。最近、ちょっと変よ。隊長が倒れて、つかれてるの?」
どくん、と、心臓が鳴った。
遥は、それを、ハルの気持ちとして、そっと胸の奥にしまった。
「……だいじょうぶ。ありがとう、イリス」
イリスは、少しだけ目を見ひらいて、それから、ふっと笑った。
「めずらしい。ハルが、ありがとう、なんて」
イリスが行ってしまうと、遥は、草の上にすわりこんだ。
降りる場所を見てから、飛ぶ。
自分は、どうだろう。専門学校に入ったとき、どこに降りたいのか、考えていただろうか。何者かになれたら、いい。いつか、だれかにみとめられたら、いい。そんな、ぼんやりした空を、ぐるぐる回っていただけではなかったか。
だから、ちょっと風がふいただけで、どこにも降りられずに、落ちてしまったのではないか。
〈遥の、着地点は、どこ?〉
ノヴァ2が、聞いた。
遥は、答えられなかった。
自分のお別れの会で、何と言われたいか。考えたことも、なかった。
ふと、北の空を見あげる。高い峰の向こうから、低く、長い、うなるような声が、かすかに聞こえた気がした。
「……今の、何?」
[北の峰に住む、竜の王の声と推定されます。……過去の記録と比べて、声の周波数が、不安定です]
イリスが、遠くでふり返り、同じ空を見ていた。
「ここ何年か、竜の卵が、ほとんどかえらないの」
イリスの声が、風にのって、とどいた。
「巣に卵があっても、中で、眠ったまま。竜の王も、それで、気が立ってるのかもしれない」
遥の背中に、つめたいものが走った。
消えていく糸。枝が分かれる数が、へっている。――魔法王国の地下で見た光が、目の奥でまたたいた。




