何も無い。
「あっ、うそ、先輩、好きです!」
「え?」
「(は?)」
体育の授業前。
俺は例の如く、トイレの個室で着替えていて。
外から聞こえた女性の声と、春海に声に、動きが固まる。
「一人珍しいですね!体育ですか?あ、ID交換しませんか?」
「いや、」
「あ、もう行かなきゃ、あの、これ!連絡してください!」
「ちょ」
それからバタバタと駆けて行く足音がして、静寂。
「(……嘘だろ)」
俺は、指先が冷えていくのを感じた。
「希」
「……」
「希、ごめん。顔見せて」
「……」
どう反応するのが正解か、分からなかった。
だから言っただろ、なのか。
すぐ断れよ、なのか。
連絡、するのか、なのか。
まさか、まさかしないだろうとは思いつつ。
律儀な春海のことだから、完全に無いとは言い切ることができなくて。
もう授業が始まるし、着替えたし、行かなきゃ、そう思うのに、トイレの個室から出られないままでいる。鍵を開ける勇気が、出ないままでいる。
「希、下がってて」
「っえ」
バン、と強い音がして、驚いているうちに、春海が空から降ってきて。
え?
「希、」
「いやいやいやお前」
「希聞いて」
「いや、」
真剣な顔をして距離を詰めてくる春海。
でも俺はそれどころじゃなくて。
どうやって登ったんだよ、え?降ってきたぞ?は?
パニックで、とりあえず腕を伸ばして、春海を押さえ付けて、距離を取る。
扉を閉めて、鍵も閉まっているトイレの個室に、春海は上から入って来た。
上から。
上から??
「希」
「まて、待てって、お前どうやって」
「跳んだ」
「とっ、跳べるかよばか!」
「しー」
必死に押して、反抗していたら宥められる。
個室で二人はそんなに余裕も無くて。
今は見たくない春海の顔が、どうしても目に入る。
「は……」
るみ、と、何故か呼べない。
お前、何告られてんだよ。
俺にだけモテるんじゃなかったのかよ。
何IDとか貰ってんだよ。
触られたのかよ。
……違う、違う。
春海は何も悪くないのに。
「希、ごめん、嫌な思いさせた」
「……ちがうだろ。お前が謝ることじゃない」
「でも泣かせた」
泣いてねぇとは、流石に言えない。
泣くことじゃないのに、泣いていた。
悔しいのか、嫌だったのか、混乱なのか、よく分からないけれど、涙が出る。涙が止まらない。
「おれ、泣くつもりじゃ」
「うん、ごめん」
「お前のせいじゃない」
「俺のせいだよ」
ちがう、違うのに。
俺だけの春海がいい。俺だけが春海と居たい。俺の春海なのに、勝手に好きになるなよ、取るなよ、見るなよ。
俺だけが春海の良いところを知っていると思っていたのに。
俺だけが春海の傍に居たいのに。
俺だけが春海を独り占めしたいのに。
「春海」
「うん」
「居なくならないで」
春海の隣がいい、春海の傍がいい。
春海の近くが俺の居場所で、春海の傍なら息がしやすい。
俺が俺で居られるのは春海が居るからなのに。
俺から春海を取るなよ、俺には春海しか居ないのに。
俺には春海だけなのに。
狂ったように涙が出る。
泣こうと思っていないのに涙が出る。
なんでこんなに泣けるんだろう。
春海が居れば幸せなのに。
…………春海が居ないと、何も無い。
「っごめん出て」
春海を無理やり個室から追い出す。
鍵を閉めて、振り返ると吐いた。
最悪だ、と思う。
胃液だけを吐いた後、また降って来た春海が鍵を開けて、俺を連れ出した。
上手く便器に吐けたけれど、流す暇なんて無くて、春海に見られた上に、春海が流した。
突き放そうとする俺に肩を貸して、手洗い場で口をゆすがせる春海。
力が入らなくてその場でしゃがみ込もうとして、また肩を貸されて、支えられて、保健室まで連れて行かれた。
どう見てもフラフラの俺に、先生は直ぐにベッドを空けてくれて、倒れ込む。
その後先生と春海が揉めているような声が聞こえたけれど、俺はまた何故か涙が止まらなくて、そのまま意識を手放した。
頭に響く、チャイムの音で目が覚める。
知らない色が見えて、カーテンだと理解して、そこから少しだけ覗く天井を見て、ここが保健室だと思い出す。
寝返りを打つと、カーテンの向こうで足音がして、カーテンが開く。
「目、覚めたね。気分は?」
「……気持ち悪い、です」
「そっか、親御さんは仕事かな?今日はもう帰る?」
「……はい」
ハキハキとした保健室の先生に促されるまま、ベッドから降りる。
けれどフラフラして、倒れかけて、先生が支えてくれて。
「っ希!」
先生の肩に掴まっていたら、身体が引かれて、ぶつかる。
見なくても分かる、この声と、温かさは春海で。
安心するより先に、また泣きたくなった。
力が入らなくて、崩れる。
「しんどそうだね〜、後一時間あるから寝て行く?」
「……はい」
結局、ベッドに逆戻りで、俺は目を閉じて。
「俺ここに居ます」
「ダメダメ、私が先生に怒られちゃう」
「怒られてください、ここに居ます」
「は〜!ほら行った行った!」
「っ希、後で迎えに来る」
ガラガラと勢い良く開け閉めされる扉の音。追い出される春海の、遠い声。
先生とすら、話す声に嫉妬した。
泣きたくないのに涙が落ちる。
春海と離れたくないのに。
今は一番会いたくなかった。




