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万年最下位の私、親友に魔力を奪われていました ~本物の聖女だと判明したら、呪われ公爵に求婚されました~  作者: 九条 綾乃


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第9話 極寒の村の奇跡と、公爵の孤児院


 辺境の冬は、骨まで噛む。


 ヴィヴィエンヌは、ひび割れた桶を抱えて、凍った井戸の前に立っていた。風は刃物のように頬を切り、荒れた指先の感覚はとっくに失せている。王都でまとっていた絹も宝石も、今はもう夢の残り香ですらなかった。


 足元は泥だ。昼にわずかに緩んだ雪が、夕方にはまた凍りつき、道とも畑ともつかぬ地面をぐずぐずにしている。薄い外套の裾は汚れ、編み上げ靴は水を吸って重い。


「遅いよ、ヴィヴィ!」


 小屋のほうから、甲高い声が飛んだ。


 村の女たちは、王都から来た元貴族の娘に容赦しなかった。いや、むしろ容赦しないでいてくれるだけましなのかもしれない。ここでは誰も彼女を聖女候補とも、令嬢とも見ない。ただ、働きの鈍い余所者として扱うだけだ。


「……今、行くわ」


 返した声は、自分でも驚くほど擦れていた。


 桶を引きずるようにして小屋へ戻る。扉を開けると、乾いた藁の匂いと、煮崩れた根菜の薄い湯気が鼻をついた。暖炉はあるが薪は乏しく、火は赤い目玉みたいにかろうじて残っているだけだ。


 ヴィヴィエンヌは桶を置くと、その場で壁にもたれた。


 疲れた。


 腕も脚も痛い。慣れない労働のせいで、掌は潰れ、腰は悲鳴を上げている。王都では少し眉を曇らせれば侍女が駆け寄り、少し喉が渇けば香茶が運ばれてきたのに、ここでは熱い湯を飲むことすら贅沢だった。


 だが本当に痛いのは、身体ではない。


 脳裏に焼きついているのは、あの夜会の光景だ。


 燭火の下、美しい公爵の隣に立つフィオラ。

 誰よりも清らかで、誰よりも堂々としていて、昔のように俯いてなどいなかったフィオラ。

 そして、自分が「化け物」と笑った男が、誰の目にも明らかな愛情を隠しもせず彼女を見ていたこと。


「……っ」


 歯を食いしばる。


 腹の底が煮えるようだった。


 どうしてあの子ばかり。

 どうして、最後に全部持っていくのがあの子なの。


 そんな黒い感情が、疲労の隙間から何度でも顔を出す。


 けれど、そのたびに別の記憶が重なる。


 聖堂で盗み聞きされた夜。

 王宮で首飾りを断ち切られた瞬間。

 そして裁きの場で、自分に向けられたフィオラの目。


 見下しでも、勝ち誇りでもなかった。ただ静かに、「もう奪わせない」と告げる目だった。


「……偽善者」


 吐き捨てた言葉は、やけに弱々しく聞こえた。


 本当にそうだろうか。

 本当に、あの子はただの偽善者だっただろうか。


 考えたくなくて、ヴィヴィエンヌは藁の上へ身を投げ出した。だが眠れるはずもない。寒さが骨の芯にこびりつき、空腹が胃を掻く。


 翌朝、村は小さな騒ぎになった。


 まだ日も高くならぬうちに、外から怒鳴り声とざわめきが聞こえてきたのだ。


「荷馬車だ!」

「王都からか?」

「いや、紋章がないぞ!」


 ヴィヴィエンヌは半ば反射的に飛び起き、小屋を出た。広場にはすでに村人たちが集まっている。霜の降りた地面の上に、荷馬車が三台。見慣れぬ御者たちが、次々と木箱や麻袋を下ろしていた。


「何、これ……」


 思わず呟く。


 袋の口から覗いているのは、小麦、豆、塩漬け肉、乾燥果実。箱の中には毛布、分厚い外套、薬草、石鹸、子ども用の靴まであった。しかも一つや二つではない。こんな辺境の寒村には、過分なほどの量だ。


 村長が目を白黒させながら、御者へ詰め寄る。


「誰の差し金だ!」


「匿名の寄進だよ」


 御者は肩をすくめただけだった。


「差出人は伏せろと言われてる。ただ、毎冬必要なものを送る手配は済んでる。受領書だけくれりゃいい」


 村人たちがどよめく。


 疑い、歓喜、困惑。入り混じった空気の中、毛布を抱えた子どもが歓声を上げた。老女は塩の袋を見て泣きだし、若い母親は靴を胸に抱えて何度も頭を下げている。


 ヴィヴィエンヌはその光景を、少し離れたところから見ていた。


 匿名の寄進。


 そんな都合のいい話があるだろうか、と最初は思った。だが運び込まれる物資はどれも実用的で、この村の不足をよく知っている者の選び方だった。見せびらかすための豪奢な施しではなく、本当に必要なものを、過不足なく。


「すごいねえ、これで今年は凍え死なずに済むかもしれないよ」


 隣の老婆がしみじみと言う。


 ヴィヴィエンヌは返事をしなかった。


 なぜだろう。

 胸がざわつく。


 昼を過ぎたころ、さらに別の知らせが届いた。王都から来た若い行商人が、荷と一緒に手紙を運んできたのだ。村長が読み上げる間もなく、彼は興奮したように話し始めた。


「教会の古い孤児院、閉鎖されたんだってさ! でも子どもたちは無事だ。王都北方に新しくできた大きな孤児院へ移されたらしい。教会の手から切り離して、公爵家が後ろ盾になってるとかで」


 その瞬間、ヴィヴィエンヌの視界がぐらりと揺れた。


「……どこ、の」


 喉がひりつき、声がうまく出ない。


「グランツェル公爵家だよ。なんでも、教会の影響を受けない新しい保護施設だとか。食事も寝床も十分で、読み書きや魔導の基礎まで学ばせるつもりらしい。辺境の子でも受け入れるって話だぜ。すごいよな、公爵様って」


 周囲は感心したように騒いでいたが、ヴィヴィエンヌにはもう何も入ってこなかった。


 弟妹たちが。

 あの子たちが。

 無事?


 司教に脅され続ける原因だった孤児院は、もうない。子どもたちは教会の手の届かぬ場所へ移され、しかもグランツェル公爵家の庇護下にあるという。


 力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。


「お、おい、大丈夫か」

「顔色が悪いぞ」


 誰かが声をかけたが、ヴィヴィエンヌはそれを振り払うように走り出した。


 気づけば、荷が積まれた広場の片隅にしゃがみこんでいた。乱暴に積まれた麻袋の一つに、額が触れる。小麦の匂い。乾いた布の感触。


 弟も妹たちも、飢えていない。

 凍えていない。

 もう司教の気まぐれに怯えなくていい。


 その事実が、胸を真っ先に満たしたのは、どうしようもない安堵だった。


「……っ、あ」


 涙が、勝手に落ちた。


 安堵のはずなのに、同時にひどく苦しい。


 だって、こんなふうに救われる資格など、自分にはないと思っていたからだ。

 フィオラから奪い、傷つけ、あんなふうに裏切った自分には。


 ヴィヴィエンヌは唇を噛みしめ、涙を拭おうとした。そのとき、指先にかすかな違和感が触れた。


 麻袋の表面。

 縫い目の近く。

 ほんの一瞬だけ、冷たいような、あたたかいような感覚。


「……え?」


 反射的に手を当てる。


 微かすぎて、普通の人間なら気づかないだろう。だがヴィヴィエンヌは長年、あの力を間近で感じてきた。奪い続けてきたからこそ、わかってしまう。


 純白の魔力の残滓だ。


 澄んでいて、静かで、触れるだけで胸の奥の澱を洗われるような気配。荷に付着したそれはもうほとんど消えかけていたが、間違えようがなかった。


「……フィオラ」


 名前が、呆然と零れ落ちる。


 匿名の寄進。

 教会から切り離された新しい孤児院。

 実用的すぎるほど実用的な支援物資。

 そして、この魔力。


 線が、一気につながった。


「うそ、でしょう……」


 嘘であってほしかったのか、本当であってほしかったのか、自分でもわからない。


 けれど残酷なくらい、その答えは明らかだった。


 あの子だ。

 フィオラがやったのだ。


 自分を追放したあと、せいせいした顔で忘れ去ることもできたはずなのに。

 司教も教会も断罪され、何もかも手に入れた今、わざわざ辺境の村で泥にまみれる女の面倒など見る必要はないのに。


 それでも。

 それでもあの子は、弟妹たちを救い、この村に冬を越すための物資を送り、しかも名乗りもしなかった。


「ばかじゃないの……」


 声が震える。


「本当に、お人好しにも程がある……」


 止めようとしても涙が止まらなかった。


 フィオラのことを、何度も鈍いと思った。

 奪われても気づかない、守られることに甘んじる弱い子だと見下していた。

 でも違ったのだ。


 あの子は鈍かったんじゃない。

 優しかったのだ。

 優しいまま、壊れずにいたのだ。


 ヴィヴィエンヌは麻袋に顔を埋めるようにして、嗚咽を漏らした。村人たちが何事かと遠巻きに見ていたが、もうどうでもよかった。


 みっともない。

 惨めだ。

 それでも、今さら取り繕えるものなど何もない。


 ずっと、フィオラの優しさに甘えていたのは自分のほうだったのかもしれない。

 勝手に「守ってあげる」側に立ったつもりで、実際にはその優しさを搾り取り、自分の言い訳にしていただけだったのかもしれない。


 風が吹き、頬の涙を凍らせる。


 しばらくして、ヴィヴィエンヌはようやく顔を上げた。泣きすぎて頭が重い。けれど胸のどこかに、今までとは違う熱が灯っていた。


 それは逆恨みではなかった。

 自己憐憫でもない。


 うまく名前をつけられない、ひどく不格好な感情。


 悔しい。

 情けない。

 でも、あの子に救われたままで終わりたくない。


 ヴィヴィエンヌは立ち上がり、乱暴に涙を拭った。


「……見てなさいよ」


 誰に向けたのか、自分でもわからない。

 フィオラか。

 運命か。

 それとも、どうしようもなく醜かった昨日までの自分か。


 ただ一つ、確かなことがある。


 もう「司教に脅されていたから」で済ませるつもりはなかった。

 弟妹たちが守られた今、自分が立ち上がらない理由はない。


 泥だらけでもいい。

 手が荒れても、足が裂けてもいい。

 這いつくばってでも、生きる。


 そしていつか、借りを返す。


 それがどれほど先になるかわからないとしても。


 広場では、村人たちが新しい毛布を分け合い、子どもたちが届いた乾パンをかじって笑っていた。極寒の村に、ほんの少しだけ、春の気配みたいなぬくもりが落ちている。


 ヴィヴィエンヌはもう一度だけ、荷に残る純白の魔力の気配へ触れた。


 消えかけたその残滓は、まるで返事のように、かすかに指先で揺れた気がした。


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