第10話 不器用な手紙と、光の中の二人
春の陽射しは、公爵邸の温室にやわらかく降っていた。
硝子越しの光に包まれた花々は、白、薄桃、淡紫と、色とりどりに咲いている。その中央で、フィオラは小さな鉢植えへそっと手をかざしていた。傷んでいた葉先が淡い光に撫でられ、みるみる艶を取り戻していく。
「……よし。これで大丈夫」
「大丈夫ではない」
すぐ後ろから、きっぱりした声が飛んできた。
振り返ると、ヴォルフラムが深刻な顔で立っていた。今日も隙のない礼装姿だが、腕にはなぜかふわふわしたショールが一本かけられている。しかもその後ろには、侍女長ミレイユが困ったような顔で温かいお茶の盆を持って控えていた。
フィオラは目を瞬いた。
「ヴォルフラム様?」
「今ので三鉢目だ。休憩が必要だ」
「三鉢だけです」
「三鉢も、だ」
真顔で言われ、フィオラはとうとう苦笑した。
ヴォルフラムの呪いが解けてからというもの、彼の溺愛は日ごとに増していた。もともと気遣い深い人だったのだろうが、それが解呪によって遠慮なく表に出るようになった結果、いまや公爵邸全体を巻き込む過保護ぶりである。
朝、少し咳をしただけで王都一番の医師が呼ばれかける。
庭に出るなら日傘と羽織を持たされる。
浄化を続ければ「疲れたのでは」と五分おきに椅子が運ばれてくる。
菓子を気に入ったと呟けば、翌日には箱で届く。
昨日など、フィオラが書庫の高い棚の本を取ろうとして少し背伸びしただけで、「危ない」とヴォルフラムが駆け寄り、以来その棚の本が丸ごと低い位置へ移されてしまった。
「少し過保護すぎませんか」
半ば呆れ、半ば笑いながら言うと、ヴォルフラムは眉ひとつ動かさず答えた。
「足りないくらいだ。今まで足りなかった分を埋め合わせている最中だからな」
当然のように言われ、フィオラは頬を赤くするしかない。
ミレイユが絶妙な無表情でお茶を置いたが、その肩はわずかに震えていた。最近、使用人たちは「旦那様が本日も通常運転」と目で会話する術を身につけつつある。
ヴォルフラムはフィオラの肩へショールをかけると、そのまま椅子へ導いた。
「外気はまだ少し冷える」
「温室の中ですよ?」
「念のためだ」
「念が多すぎます」
「君に関しては、いくらあっても足りん」
さらりと返されて、フィオラは言葉に詰まった。こういうところだけ無駄に滑らかだ。この人は。
そのとき、温室の外から軽い足音が近づいてきた。執事のアルベルトが、銀盆の上に一通の封書を載せて現れる。
「フィオラ様、お手紙が届いております」
「私に?」
「差出人名はございません。ただ、辺境から届いたもののようです」
フィオラの胸が小さく鳴った。
封筒は質素だった。だが紙は大切に選ばれたものらしく、乱暴に扱われながらも破れぬ厚みがある。蝋印はなく、代わりに封じ目がきつく折り込まれていた。いかにも、素直ではない誰かが書きそうな手紙だった。
ヴォルフラムが一瞬だけ目を細める。
「……読んでも平気か」
「はい」
フィオラはそっと封を切った。
中には、少し歪んだ文字で書かれた便箋が一枚。書き慣れぬ手らしく字は荒い。それでも、途中で投げ出さず最後まで書き切った意地の強さが伝わる文だった。
フィオラは静かに読み始める。
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フィオラへ。
まず最初に言っておくけれど、これは謝罪文じゃないわ。そんなものを素直に書いてやるほど、私は可愛くできていないもの。
でも、借りができたことは認める。
辺境の村に届いた物資のことも、新しい孤児院のことも、全部わかった。わからないと思った? あんたの魔力、散々奪ってきた私が気づかないわけないでしょう。最後まで詰めが甘いのよ、本当に。
弟も妹たちも無事だそうよ。手紙が来たわ。前よりずっといいごはんを食べて、字まで習っているんですって。生意気なことに、もう私よりまともな字を書くかもしれない。
安心した。
死ぬほど安心した。
あんたには、感謝してる。
この一文を書くために三回破り捨てたから、重みくらい察しなさい。
昔の私は、優しいふりが上手かったのよ。
あんたを気遣ってるみたいな顔をして、守ってあげるみたいなことを言って、その実いちばん守ってたのは自分だった。
事情がある私、可哀想な私、仕方なかった私――そんなものを守るための仮面だった。
たぶん今の私のほうが、ずっと嫌な女で、ずっと本当よ。
あんたにしたことが消えるなんて思ってない。私自身も消すつもりはない。あれが私の醜さだったんだって、今はわかってる。見ないふりをしてきた分まで、これから嫌というほど向き合うわ。
村の暮らしは最悪よ。寒いし、重いし、泥だらけ。爪は割れるし、髪はぱさぱさ。でも、泣き言を言っても誰も何もしてくれないのは、妙に気分がいい。少なくとも、もう誰かのせいにはできないから。
だから生きる。
意地でも生き抜く。
あんたに助けられたままで終わるなんて、癪だもの。
いつか私自身の足で立って、胸を張って、あんたの前に出るわ。そのときは借りを返す。何で返すかはまだ決めてないけど、絶対に返す。覚えておきなさい。
それから、公爵様にも伝えて。
最初に化け物なんて言ったことは、撤回してあげてもいいわ。あんたを大事にしてるみたいだし。
ただし、甘やかしすぎてあんたを駄目にしたら許さないとも伝えて。私がぶん殴りに行くから。
次に会うとき、私は今よりずっとましな女になってる。
あんたも、優しいだけじゃなく、ちゃんと幸せでいなさい。
絶対に生き抜いて、絶対に借りを返す。
だからそのときまで、勝手に終わったみたいな顔しないこと。
ヴィヴィエンヌ
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最後まで読み終えたとき、フィオラはしばらく便箋から目を離せなかった。
胸の奥が、じんわりと熱い。
不器用で、刺々しくて、どうしようもなくヴィヴィエンヌらしい手紙だった。謝らないと言いながら、きちんと向き合おうとしている。感謝を認めるのに三回紙を破ったと書いてしまうところまで含めて、ひどく彼女らしい。
けれど何より、あの「優しさ」が仮面だったと、彼女が自分の言葉で認めたことが、フィオラの胸を打った。誰かを欺くためだけではなく、自分自身をごまかすために被っていた仮面。そこから目を逸らさずにいるのなら、ヴィヴィエンヌはきっと、もう後戻りしない。
フィオラは便箋を抱きしめるように胸元へ寄せた。
「……生きているのですね」
「そのようだな」
ヴォルフラムの声は落ち着いていたが、彼もまた手紙の重みを理解しているのだろう。
フィオラは小さく笑った。
「相変わらず、素直ではありません」
「そこは変わらぬらしい」
「でも……よかった」
その一言に、いろいろな意味がこもる。
弟妹たちが救われたこと。
ヴィヴィエンヌがまだ折れずにいること。
憎しみだけでは終わらず、その先へ行こうとしていること。
フィオラの目元が少し潤んだのを見て、ヴォルフラムがすっとハンカチを差し出した。以前、二人を結びつけたあの白いハンカチではなく、新しく誂えたものだ。だが角には、あのときと同じ銀糸の意匠が丁寧に縫われている。
「泣くか」
「少しだけ」
「なら、今日は残りの予定をすべて取りやめる」
「そこまでしなくても」
フィオラは笑ってしまった。涙がこぼれそうだったのに、そのおかげで少しだけ和らぐ。
ヴォルフラムは彼女の手からそっと手紙を預かり、折り目を傷つけぬよう丁寧にたたんで返した。
「大切に保管しよう」
「私が持ちます」
「では、防水の箱を用意する」
「普通の引き出しで大丈夫です」
「火事の可能性もある」
真顔で言い募られ、フィオラはとうとう声を立てて笑った。
「ヴィヴィが聞いたら、本当に『甘やかしすぎ』って怒りますよ」
「半分は冗談らしいが、半分は本気なのだろうな」
「ええ。たぶん」
「なら、再会までに反論を用意しておく必要がある」
「反論、ですか」
「ああ。私は甘やかしすぎではなく、適切に大切にしているだけだと」
「……どこまで本気なのですか」
「全部だ」
即答だった。
フィオラはもう、呆れるふりもできなかった。好きな人にここまで大真面目に大切にされるというのは、嬉しくて、くすぐったくて、少しだけ困る。
温室の外では、公爵家が後ろ盾となって建てた新しい孤児院の子どもたちが、今日も庭で遊んでいる声がした。ここ数ヶ月で、公爵邸にはいくつもの変化が生まれた。教会の支配から切り離された保護施設、辺境への継続的な支援、魔導学院の制度見直し。ヴォルフラムは表立って誇ることなく、けれど確実に、古い歪みを正しはじめている。
フィオラもまた、その隣に立っていた。
かつて「何もできない」と思い込まされていた少女は、今では多くの人を救う力を持つことを知っている。けれどその力は、誰かを見下すためではなく、誰かの明日を照らすために使いたいと願っていた。
だからこそ、ヴィヴィエンヌの手紙は嬉しかったのだ。
遠い辺境で泥にまみれながらも、彼女もまた前へ進もうとしている。
今はまだ同じ場所には立てなくても、いつかきっと、それぞれの足で立ったまま向き合える日が来る。
フィオラは立ち上がり、温室の外へ目を向けた。
春の庭は光に満ちている。白い花が揺れ、その向こうで子どもたちの笑い声が弾む。世界はまだ完璧ではない。傷も、後悔も、償いも残っている。けれど、それでもこんなふうに光の中へ歩いていけるのだと、今は信じられた。
「ヴォルフラム様」
「何だ」
「未来が楽しみです」
彼は一瞬だけ目を見開き、それから、とてもやわらかく微笑んだ。
「ああ」
そうして当然のように、フィオラの肩を抱き寄せる。
「君の未来なら、すべて一緒に見る」
「また、そうやって」
「嫌か」
「……少しだけ、恥ずかしいです」
「なら、人のいないところではもっと言う」
「それは困ります」
「困らせたいわけではない。だが、やめる気もない」
フィオラは頬を染めながら、そっと彼の肩へ寄り添った。
温室の中で寄り添う二人を、春の光が静かに包んでいる。
白い花々の向こうには、整えられた庭。
そのさらに向こうには、子どもたちの遊ぶ孤児院。
王都の空は高く晴れ、未来へ続く道のようにどこまでも明るい。
遠く離れた辺境の村では、夕暮れの冷え込みの中、ヴィヴィエンヌが薪の束を抱えて小屋へ戻っていた。朝から井戸の水を汲み、畑の石を拾い、泥に沈む荷車の車輪を押し、ようやく終えた一日の労働で、腕も肩も痛かった。指先はひび割れ、靴の中まで冷えている。それでも彼女は足を止めない。乱暴に薪を下ろし、竈の火を見て、明日の分の桶を壁際へ寄せる。その動きにはまだ洗練など欠片もないが、もう投げやりな苛立ちだけではなかった。生きるために働き、働いたぶんだけ今日を越えていく。そんな当たり前を、彼女は自分の足で覚えはじめていた。粗末な窓の外では雪明かりが静かに広がり、痩せた大地の向こうに小さな村の灯が点っている。ヴィヴィエンヌは息を白く吐き、少しだけ顎を上げた。明日もきっと厳しい。けれど、それでいいと思えた。
救われたままで終わらない。
借りを返す。
次に会うときは、自分の足で立っている。
そんな不器用な誓いが、細い身体の芯で小さく、けれど確かに燃えている。
公爵邸の温室では、フィオラが大切そうに手紙を胸に抱き、ヴォルフラムがその横顔を誰より愛おしいもののように見つめていた。辺境の村では、ヴィヴィエンヌが冷えた手を火にかざし、短く息をついてから、また明日のために動き出す。
春の光と冬の灯り。
遠く隔てられた二つの場所に、それぞれ違うぬくもりが宿っている。
失ったものは戻らない。けれど、傷を抱えたままでも、人は未来を選べる。
風は花の香りを運び、雪の匂いを越え、まだ見ぬ再会の約束をそっと結んでいく。
その先にある明日を信じるように、世界は静かに、やさしく、光に満ちていた。
これでいったん完結です。お読みいただき、ありがとうございました。




