第8話 裁きの夜会と、偽聖女の末路
王城の大夜会が開かれるその日、王都じゅうは朝から妙に浮き足立っていた。
話題の中心は、もちろんグランツェル公爵夫妻――正確には、まだ婚約中ではあるものの、すでに誰もがそう呼んでいる二人のことだ。
もっとも、社交界に流れている噂は、相変わらずひどいものだった。
「呪いが少し和らいだとは聞くけれど、どうせあの公爵でしょう?」
「顔の半分が爛れたまま、黒い瘴気を引きずって現れるのではなくて?」
「婚約者のほうも、あの“万年最下位”のフィオラ・エーヴェルスでしょう? 本物の聖女だなんて、一度派手に光ったからって持ち上げられすぎですわ」
「きっと気弱で頼りない、陰気な娘よ。あの公爵邸に閉じ込められて、ますます怯えているんじゃないかしら」
きらびやかな広間の片隅で、扇の陰に口元を隠した令嬢たちがくすくす笑う。
その輪のすぐそばでは、年配の貴婦人たちがもっと品よく、しかし同じくらい意地悪く囁いていた。
「まあ、公爵家もお気の毒ですこと。あのような見目の殿方に、あのような頼りない花嫁候補では」
「せめて並んだ姿だけでも哀れを誘うのではなくて?」
笑い声が小さく弾む。
けれどその一方で、別の場所では、もっと低く重い話が交わされていた。
「教会の調査、かなり深いところまで進んだらしいぞ」
「司教が関わっていた魔導具の不正も、証拠が出たとか」
「では今夜、王家から正式な沙汰があるのか」
「そのために、グランツェル公爵がわざわざ出席するのだろう」
華やかな夜会の裏で、すでに裁きの歯車は回り始めている。
だが、今この場にいる誰もが本当には予想していなかった。
今宵、自分たちが目にするものが、ただの「噂の答え合わせ」ではなく、社交界の記憶そのものを塗り替える光景になることを。
金のトランペットが高らかに鳴り響いた。
王族の入場を告げるのではない。
特別な賓客の到着を知らせる合図だ。
ざわめいていた広間の空気が、一斉に正面の大扉へと引き寄せられる。
「グランツェル公爵閣下、ならびにフィオラ・エーヴェルス嬢、ご到着――」
朗々たる声とともに、扉が開いた。
最初に見えたのは、黒ではなく、深い濃紺だった。
夜の色をそのまま織り上げたような礼装に身を包み、長身の男が一歩、広間へ足を踏み入れる。無駄のない動き。剣のように研ぎ澄まされた立ち姿。だが、その気配には戦場の冷たさではなく、揺るぎない落ち着きと品格があった。
そして彼が灯りの下へ出た瞬間、広間のあちこちで、息を呑む音が重なった。
「……え」
「うそ……」
「あれが、グランツェル公爵……?」
呪いの痕は、もうどこにもなかった。
瘴気もない。
爛れた肌もない。
あるのは、神が気まぐれに手をかけすぎたとしか思えぬほど、完璧に整った美貌だった。
冷ややかな美しさではない。鋭さと優しさ、孤独と気高さが同居した、目を逸らせなくなるような美だ。金の瞳は燭台の光を受けて静かに輝き、その一瞥だけで広間の空気ごと支配してしまう。
先ほどまで嘲っていた令嬢の一人が、扇を取り落とした。
別の誰かは、あまりの衝撃に半歩後ずさる。
「そんな……聞いてないわ」
「呪われ公爵、では……」
「むしろ王都で一番といっていいほどではなくて……?」
ひそめるつもりの声が、動揺のあまり隠しきれない。
けれど、本当の衝撃はまだ半分だった。
ヴォルフラムの隣に、白銀の月光をまとったような人影が進み出る。
フィオラだった。
淡い白金のドレスは彼女の細い身体を上品に包み、幾重にも重なる薄絹が歩みに合わせて光をこぼす。胸元や袖口に飾られた真珠は決して華美ではないのに、彼女自身の持つ清らかさに引き立てられて、まるで聖なる露のように見えた。
だが何より人々の目を奪ったのは、装いではない。
その表情だった。
かつて学院でうつむき、嘲笑を浴びるたびに身を縮めていた少女は、もうそこにはいない。背筋を伸ばし、ヴォルフラムの隣に並び立つその姿は、静かで、凛として、ひどく美しかった。
控えめなのに弱くはない。
柔らかなのに折れそうではない。
誰かに庇われている娘ではなく、自分の足で立ち、自分の意思で隣にいる女だった。
しかも、その美しさはただ可憐なだけではなかった。白い光を宿したような澄んだ眼差しが、彼女の内に眠る圧倒的な神聖魔力を思わせる。着飾った令嬢たちが宝石の輝きを競う中で、フィオラだけは本人の存在そのものが光源のようだった。
「頼りない花嫁……?」
「冗談でしょう」
「あんな方、見たことがない……」
先ほどの令嬢たちの声は、もう笑いではなく、震えに変わっていた。
フィオラはそんな周囲のざわめきにも動じず、ヴォルフラムと歩調を合わせて進んでいく。二人の並びは恐ろしいほど美しかった。彼が夜なら、彼女は夜明けだ。彼が剣なら、彼女はその刃を包む光だ。どちらかがどちらかを飾り立てているのではない。互いの存在が、互いをもっと鮮やかに見せていた。
広間の中央まで進んだところで、ヴォルフラムがほんのわずかに腕を差し出した。フィオラは自然な仕草でその腕に指先を添える。
それだけのことなのに、またしてもあちこちでため息が漏れる。
似合いすぎている。
誰も口には出さないが、そう思わずにはいられない。
王妃が玉座の前で微笑んだ。
「ようこそ、グランツェル公爵。フィオラ嬢。今宵の主役は、間違いなくあなた方です」
「過分なお言葉を」
ヴォルフラムが礼を取り、フィオラも優雅に一礼する。
その所作の完成度に、かつて彼女を「陰気で頼りない」と決めつけていた者たちは、ますます言葉を失った。公爵邸でどれほど愛され、大切に扱われてきたかが、立ち居振る舞いの端々から伝わってくる。怯えの影はなく、代わりに静かな自信がある。
王妃の隣に立つ王太子が、くすりと笑って広間を見渡した。
「どうやら、ずいぶんと愉快な前評判が流れていたようだが」
その一言に、場の何人かがぎくりと肩を揺らした。
「醜い公爵に、頼りない花嫁――だったかな?」
誰も答えられない。
王太子は続ける。
「だが、余は今夜、こう見ている。王国随一の騎士にして公爵、そして本物の聖女たる淑女だと」
明るく言われたその言葉は、優雅な体裁を保ちながらも、社交界への見事な一撃だった。広間の空気がひっくり返る。
さきほどまで扇の陰で笑っていた令嬢たちが青ざめ、今度は慌てて「まあ本当に素敵」と囁き合い始める。だがもう遅い。その手のひら返しすら、惨めなほど滑稽だった。
そこで、再びラッパが鳴った。
今度は祝いの音ではない。
鋭く、冷たい、宣告の音だ。
広間の後方の扉から、王宮騎士たちが列をなして入ってくる。その中央に、手枷をかけられた男がいた。豪奢な法衣は剥がれ、顔色は土のように悪い。
「司教……!」
「まさか、本当に」
どよめきが走る。
司教はなおも取り繕おうとしたが、王の側近が朗々と罪状を読み上げる声の前には何の意味もなかった。孤児院を使った脅迫。聖女候補選定への不正介入。魔力吸収の魔導具による簒奪。教会財産の私的流用。いくつもの罪が、ひとつずつ白日の下へ晒されてゆく。
「以上の咎により、司教位を剥奪。終身投獄とする」
重い宣告が落ちる。
広間の空気は一瞬にして凍りついた。
司教は何か叫んだ。陰謀だ、誤解だ、と。だが誰も耳を貸さない。かつて権力の象徴だった男は、いまや哀れな罪人でしかなかった。
そして、さらにもう一人、騎士に伴われて広間へ現れた女がいた。
ヴィヴィエンヌだった。
絢爛たる装いも、次期聖女候補としての輝きも、もうない。質素な灰色の衣に身を包み、細くなった肩を強張らせて立っている。その顔立ちはなお美しいのに、そこにあったはずの虚飾の光がなくなったことで、むしろ疲弊と苦悩が生々しく見えた。
かつて彼女を取り巻いていた令嬢たちは、誰一人として視線を合わせようとしない。
読み上げられるのは、魔力簒奪への加担。
ただし、司教による長年の脅迫と、孤児院の弟妹を人質に取られていた事情を酌量し、極刑は免じる――と。
「ヴィヴィエンヌ・ルミエール。すべての爵位資格を剥奪のうえ、辺境の村への追放を命ずる」
その言葉に、ヴィヴィエンヌは唇を噛みしめた。
広間のあちこちから、ひそかな嘲りと安堵が混じる気配がする。昨日まで持ち上げていた者たちが、今日はもう冷たい目で見下ろしている。
けれどフィオラは、その光景を見て胸が少し痛んだ。
憎んでいないわけではない。
忘れたわけでもない。
それでも、かつてたしかに親友だった少女が、すべてを失って立ち尽くす姿は、ただ快いだけのものではなかった。
そのとき、ヴィヴィエンヌがふと顔を上げた。
視線の先には、ヴォルフラムの隣に立つフィオラがいる。
昔とは何もかも違う。嘲られていた少女は今、誰よりも美しく、誰よりも堂々と、王城の中心に立っている。しかもその隣には、かつて自分が「化け物」と蔑んだ男が、王都じゅうの視線を奪うほどの美貌と威厳を取り戻して立っている。
それは、どんな罰よりも鮮烈な現実だった。
ヴィヴィエンヌの目に、一瞬だけ、耐えがたいものを見た人のような色が走る。
羨望か、悔恨か、それともその両方か。
フィオラは静かに彼女を見返した。
勝ち誇りはしない。
見下しもしない。
ただ、もう二度と奪わせはしないという確かな強さだけを、その眼差しに宿して。
やがてヴィヴィエンヌは目を逸らした。騎士に促され、広間を去っていく背は小さく見えた。
裁きは終わった。
長く王都を覆っていた虚飾と腐敗は、今夜、ようやく断ち切られたのだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、王妃だった。
「……では、夜会を続けましょう。今宵は古い膿を洗い流すだけでなく、新しい祝福を迎える夜でもあるのだから」
楽団が、控えめに、しかし確かに音を奏ではじめる。
張りつめていた空気が少しずつほどけ、人々はようやく息をついた。だがもう、さきほどまでの空気には戻らない。社交界の視線は、完全に二人へ塗り替えられていた。
「一曲、お願いできますか」
ヴォルフラムがフィオラへ手を差し出す。
その声音は人目のある場にふさわしく落ち着いているのに、目元には隠しきれないやわらかさがあった。
「はい、喜んで」
フィオラがその手を取る。
広間の中央へ進み出た二人が踊り始めた瞬間、誰もが再び見惚れた。
ヴォルフラムのリードは流れるように滑らかで、フィオラはまるで光そのもののように軽やかに舞う。寄り添うたび、互いを見る眼差しの中に確かな愛情が宿っているのがわかる。その熱は決していやらしくはなく、むしろ神々しいほどに尊い。
「本当に、お似合いだわ……」
「前評判が何だったのか、馬鹿みたい」
「まるで伝説の一場面みたい……」
囁きは、もはや羨望そのものだった。
フィオラは踊りながら、ふとヴォルフラムを見上げる。
「皆さま、ずいぶん驚いていらっしゃいますね」
「当然だ」
彼は淡く笑った。
「私も、隣にいるのがこんなに美しい君だと知って、毎日驚いている」
「……ヴォルフラム様」
「事実だ」
さらりと言われて、フィオラの頬が熱くなる。社交界の真ん中で、なんてことを言うのだろう。このひとは。
けれど、もう隠そうともしないその愛情が、たまらなく嬉しかった。
曲の終わり、二人がぴたりと動きを止めると、広間は一拍遅れて大きな拍手に包まれた。
それは単なる賛辞ではない。
過去の嘲りを、自ら上書きするための拍手だった。
醜い公爵など、もうどこにもいない。
頼りない花嫁も、どこにもいない。
そこにいるのは、呪いを越えてなお誇り高く立つ公爵と、すべてを奪われてもなお光を失わなかった本物の聖女。
そして何より、互いを見つけ、互いを救い合った、どうしようもなく美しい二人だった。
夜会の燭火は、その姿をいつまでも照らし出していた。まるで王都そのものが、ようやく本当に祝福すべきものを知ったのだと告げるように。




