第7話 至高の浄化と、美しい素顔
公爵邸での暮らしが始まって、ひと月が過ぎた。
春は終わりへ向かい、庭の花々は次々と咲き替わっていく。フィオラは毎朝、朝露の残る花壇を歩き、傷んだ葉や淀んだ土を浄化した。使用人たちはすっかり彼女に心を開き、庭師は咲いた花を誇らしげに見せ、厨房の料理人は新しい菓子を焼くたび味見を頼んでくる。
そして何より、ヴォルフラムの呪いは、少しずつだが確かに和らいでいた。
最初は手の甲だけだった黒い筋の薄れが、いまでは腕へ、首筋へと及んでいる。常に肌にまとわりついていた瘴気も、フィオラがそばにいる時はおとなしく凪いでいた。痛みで夜に眠れぬことも減り、公爵邸の空気は目に見えぬほど穏やかになっていた。
けれど、完全には消えていない。
顔の左半分を侵す爛れは今なお深く、そこから立ちのぼる瘴気だけは、最後まで頑固に残り続けていた。
「……ここが、核なのだろうな」
ある晩、執務室で浄化を終えたあと、ヴォルフラムは低く呟いた。
窓の外は夕闇に沈み、机の上の燭台だけが二人を照らしている。彼の顔の右半分は金の光を受けて整って見えるのに、左半分は影の中でなお痛々しかった。
フィオラは膝の上で手を握りしめた。
「痛みは?」
「耐えられぬほどではない。だが……時折、呪いそのものが意志を持っているように抗う」
「意志を……」
「ああ。戦場で受けたときから、ただの瘴気ではないと感じていた。まるで、こちらの心の弱いところへ根を張ろうとするような」
その言葉に、フィオラは胸を冷たくされた。
長いあいだ彼がどんな苦しみを抱えてきたのか、完全には想像できない。顔を侵される痛みだけではない。近づけば恐れられ、視線を逸らされ、怪物と囁かれる日々。呪いはきっと、身体だけでなく心まで蝕もうとしていたのだ。
フィオラはまっすぐヴォルフラムを見つめた。
「なら、終わらせましょう」
彼の金の瞳がわずかに揺れる。
「もう少しずつ、ではなく?」
「はい」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「ここまで来たからわかるのです。あと一歩です。でも、その一歩はきっと、今までよりずっと大きい。だから……私も、覚悟を決めます」
ヴォルフラムはしばらく何も言わなかった。静かな沈黙の末、やがて低く尋ねる。
「危険か」
フィオラは正直に頷いた。
「たぶん。呪いの核に触れるなら、私の魔力もかなり使うと思います。もしかしたら、一時的に倒れてしまうかもしれません」
「なら駄目だ」
間髪入れず返ってきた言葉は鋭かった。
フィオラは目を瞬く。ヴォルフラムはすぐに視線を伏せたが、その声には抑えきれぬ焦りがにじんでいた。
「私は、おまえにそこまで背負わせたくない」
「でも」
「私のために、おまえが傷つくことだけは許せない」
その一言に、胸の奥が熱くなった。
学院にいた頃、誰もが「あなたのため」と言いながら、フィオラから何かを奪っていった。できないだろうと決めつけ、守るという名目で檻に閉じ込めた。
けれどこの人は違う。
差し出された優しさの中に、支配がない。
守りたいという言葉の中に、彼女の意志を奪おうとする色がない。
だからこそ、フィオラは微笑んだ。
「私は、誰かに命じられてやるのではありません」
ヴォルフラムが顔を上げる。
「自分で選びたいのです。あなたを救いたいと、私がそう思っているから」
燭台の火が、静かに揺れる。
ヴォルフラムは何かを言いかけて、飲み込んだ。やがて長い沈黙ののち、深く息をつく。
「……本当に、敵わない」
ひどく小さな声だった。
「わかった。だが条件がある。少しでも危険だと感じたら、すぐにやめること。約束してくれ」
「はい」
「必ずだ」
「必ず」
そうして二人は、翌朝、屋敷の奥にある古い礼拝室で解呪を行うことを決めた。
礼拝室は、公爵家の先祖たちが祈りを捧げてきた場所だという。白い石でできた小さな部屋で、天井は高く、正面の硝子窓からは朝の光が差し込む。外界の音は遠く、ただ静けさだけが満ちていた。
使用人たちは皆、祈るような面持ちで二人を見送った。侍女長のミレイユは平静を装っていたが、その指先はかすかに震えていたし、執事のアルベルトは何度も眼鏡を押し上げていた。庭師など、朝からずっと神頼みをしていたらしい。
フィオラは白い簡素なドレスに着替え、礼拝室の中央へ立った。床には浄化のための陣が描かれている。彼女自身の魔力を媒介にするため、余計な魔道具は一切使わない。
ヴォルフラムは数歩離れた場所に立ち、外套を脱いだ。瘴気の濃い左半身が露わになる。黒い痕は首から頬へと食い込み、爛れた皮膚の下で、禍々しい何かが脈打っているのが見えた。
フィオラは息を整えた。
怖くないわけではない。けれど、逃げたいとは思わなかった。
「始めます」
「ああ」
ヴォルフラムの声は低く、落ち着いていた。だがその奥には、長年求めながら諦めてもいた希望への、かすかな震えがある。
フィオラは彼の前に立ち、両手をそっとその頬へ伸ばした。
爛れた肌に触れた瞬間、ずきりと鋭い痛みが指先を走る。瘴気が拒絶しているのだ。まるで「触れるな」と唸る獣のように。
それでもフィオラは手を離さなかった。
「大丈夫です」
自分に言い聞かせるように囁き、目を閉じる。
胸の奥の泉へ意識を沈める。学院で奪われ続けていたころには、決して辿りつけなかった、自分の本当の中心。そこにあるのは、尽きることのない純白の光だ。
その光を、ゆっくりとすくい上げる。
手のひらから、指先から、朝露のように澄んだ魔力が溢れ出す。最初は細い流れだったそれが、次第に奔流となってヴォルフラムの呪いへ注ぎ込まれていく。
礼拝室の空気が震えた。
硝子窓から差す朝日が強まり、白い光と混ざり合う。ヴォルフラムの左半身を覆っていた瘴気が激しく逆巻き、黒い霧となって暴れ出す。床の陣がきしみ、燭台の火がばちばちと音を立てた。
フィオラは眉を寄せる。抵抗が強い。今まで触れてきたどの部分よりも深く、呪いは彼の中へ食い込んでいた。
――返せ。
――これは俺のものだ。
そんな幻聴のようなものが、耳の奥で囁いた気がした。
違う。
フィオラは唇を噛む。
これは誰のものでもない。苦しみは、ここで終わらせる。
「フィオラ!」
ヴォルフラムの声がした。彼女の顔色が悪くなったのを見たのだろう。けれどフィオラは首を振った。
「まだ……いけます」
さらに魔力を注ぐ。
白い光は彼の顔を、喉を、胸元を包み、まるで長い夜を溶かす朝のように瘴気を押し返していく。黒が白へ侵食されるのではない。白が黒を飲み込み、その奥に閉じ込められていた本来の輪郭を取り戻していく。
爛れた皮膚が淡く光り、ひび割れるように剥がれ落ちる。そこから現れた新しい肌は、驚くほどなめらかで、傷ひとつない。
だが最後の一点、左の瞳の周囲に濃い瘴気が残った。
そこが核だ。
フィオラは息を呑む。ここを浄化しきらなければ、また呪いは広がる。
全身から力が抜けていく感覚の中で、フィオラは最後の光をかき集めた。胸の奥が焼けるように熱い。視界が揺れる。けれど、ここで止まれない。
「どうか……」
祈るように呟く。
「あなたを、返してください」
その瞬間だった。
フィオラの内から溢れた光が、一段と強く膨れ上がった。礼拝室の中が真昼よりも眩しくなり、あらゆる影が消え失せる。白光はまっすぐ核へ突き刺さり、黒い瘴気を根元から貫いた。
耳をつんざくような悲鳴が聞こえた気がした。人のものではない、呪いそのものの断末魔。
次の瞬間、黒は砕け、光の粒となって散った。
静寂が落ちる。
フィオラの膝から力が抜けた。床へ崩れそうになったその身体を、大きな腕が受け止める。
「フィオラ!」
ヴォルフラムの声が、すぐ近くで響いた。
苦しい。けれど痛みはない。魔力を使い果たしたあとの、深い脱力だけがあった。フィオラは彼に支えられたまま、ゆっくり目を開ける。
「……終わった、のですね」
かすれた声で尋ねると、返事はなかった。
代わりに、支える腕がわずかに震えているのに気づく。
フィオラは不思議に思って顔を上げ、そして息を呑んだ。
目の前にいたのは、知らない人のようでいて、間違いなくヴォルフラムだった。
瘴気はもうない。
顔の左半分を覆っていた爛れも、影も、何も残っていない。
朝の光の中に現れた素顔は、あまりにも整いすぎていた。鋭さと静けさを併せ持つ眉、彫刻のように通った鼻梁、薄く結ばれた唇。そのすべてが均整を極めているのに、冷たさではなく、長く苦しみを知ってきた人の深い優しさが宿っている。
両の瞳は金色に澄み、まるで陽光そのものを封じ込めたようだった。
言葉を失うフィオラを見つめ返し、ヴォルフラムはひどく困ったように眉を寄せた。
「……そんな顔をするな」
「だって……」
だって、あまりにも。
美しい。
その一言が喉元までこみ上げたが、声にはならなかった。
ヴォルフラムは、いや、呪いの消えた彼は、そんなフィオラの反応を見てかえって不安そうに目を細めた。
「見苦しくないか」
その問いに、フィオラはようやく我に返った。
「逆です」
思わず強く言ってしまい、自分で驚く。けれど止められなかった。
「逆です、ヴォルフラム様。……とても、お綺麗です」
沈黙。
次いで、彼の耳がみるみる赤くなった。
あまりにも予想外の反応に、フィオラは思わず目をぱちぱちさせる。戦場を渡ってきた英雄が、たった一言でこんな顔をするなんて。
ヴォルフラムはわずかに視線を逸らしたが、すぐにフィオラへ向き直ると、そのまま彼女を抱きしめた。
強く、けれど壊れ物に触れるように慎重に。
「ありがとう」
低い声が、震えていた。
「おまえがいなければ、私は一生、あのままだった」
フィオラは彼の胸に頬を寄せた。呪いの瘴気の匂いはもうしない。代わりに、陽だまりみたいなぬくもりがある。
「私こそ」
ぽつりと答える。
「あなたに会えたから、今の私がいます」
学院で奪われ、閉じ込められていた自分。
その檻を壊したあとで、手を差し伸べてくれた人。
怪物ではなく、人として見てくれた人。
ヴォルフラムの腕が、さらにわずかに力を増した。
「これから先、おまえが望むものはすべて用意しよう」
唐突な宣言に、フィオラはきょとんとする。
「え?」
「庭も、部屋も、服も、本も、菓子も。王都で一番のものを集める。いや、王都で足りなければ国外からでも」
「そ、そこまででは……」
「足りない」
きっぱり言われ、フィオラは目を丸くした。
先ほどまでの静かな感謝はどこへやら、ヴォルフラムの目には妙に真剣な熱が宿っている。どうやら解呪と同時に、何か別の扉まで開いてしまったらしい。
「今までおまえは、あまりに粗末に扱われてきた。これからはその埋め合わせをする」
「埋め合わせ……」
「まずは休養だ。今日は一日、絶対に安静にしてもらう。食事は消化のいいものを。侍女は二人つける。いや三人か」
「三人もいりません」
「なら二人」
「一人で十分です」
「……では、私がつく」
「それはもっと落ち着きません」
ついそう返すと、ヴォルフラムは真顔で考え込み始めた。冗談ではなく本気らしい。フィオラはとうとう吹き出してしまった。
礼拝室の外では、異変に気づいた使用人たちが集まりはじめていた。扉が開かれ、アルベルトやミレイユが中の様子を見た瞬間、一斉に息を呑む。
「旦那様……!」
「お顔が……!」
歓声と涙声が礼拝室に満ちる。
その中心で、フィオラはまだ少し眩暈のする頭をヴォルフラムの肩に預けながら、そっと目を細めた。
長い呪いは終わった。
そしてたぶん、ここから先は、少し甘すぎるほど幸せな日々が始まるのだろう。
そう思った途端、ヴォルフラムが耳元で低く囁いた。
「フィオラ」
「はい……?」
「今日は休め。だが明日からは、もっと甘やかす」
宣言するような口調だった。
何をどう甘やかすつもりなのか、聞くのが少し怖い。
けれどその声がひどく嬉しそうで、フィオラは抗う気になれなかった。
窓から差し込む朝の光は、もう誰の影も歪めない。
二人の未来だけを、祝福するように明るく照らしていた。




