第6話 呪われ公爵邸の温かな日々
王宮での騒動から三日後、フィオラはヴォルフラム公爵邸の門をくぐった。
グランツェル公爵家の屋敷は、王都の北側、小高い丘の上に建っていた。黒曜石を思わせる重厚な門扉と、古い石造りの本邸。遠目には威圧感のある屋敷だったが、近づくと意外にも庭はよく手入れされており、季節の花々が風に揺れていた。どこか静かで、寂しくて、それでいて凛とした空気がある。
フィオラは馬車を降りると、思わず足元の花壇へ目を向けた。
白や薄紫の花が、陽だまりの中でやさしく咲いている。
「……きれい」
小さく漏らすと、隣に立ったヴォルフラムが少しだけ視線を和らげた。
「庭師が丹精している。あまり人を招く家ではないが、花を絶やさぬよう言いつけてある」
低い声は相変わらず落ち着いていて、けれど学院で聞いたときよりもわずかにやわらかい。フィオラはその横顔を見上げた。呪いに侵された左半分は痛ましいままだが、右の金の瞳には、彼が本来持っている穏やかさがよく表れている。
「やっぱり……お花がお好きなのですね」
するとヴォルフラムは一瞬だけ言葉を失い、それから低く咳払いした。
「嫌いではない」
それだけの短い返事だったのに、耳の先がわずかに赤くなっているように見えた。フィオラはくすりと笑いそうになったが、すぐに顔を引き締める。
屋敷の玄関には、使用人たちがずらりと並んでいた。
執事、侍女、料理人、庭師。皆きちんとした出迎えの姿勢を取っている。だが、その表情には緊張があった。いや、緊張だけではない。戸惑い、警戒、そしてほんの少しの哀れみ。
無理もない、とフィオラは思う。
王宮で本物の神聖魔力を示したとはいえ、自分はついこの間まで「万年最下位」と笑われていた娘だ。しかも今は、公爵の婚約者として突然この屋敷に迎え入れられた。誰だって戸惑うだろう。
年配の執事が一歩進み出る。
「ようこそお越しくださいました、フィオラ様。私はこの屋敷で執事を務めております、アルベルトでございます」
「フィオラ・エーヴェルスです。これからお世話になります」
深く頭を下げると、使用人たちの間にわずかなざわめきが走った。貴族令嬢らしからぬ丁寧さに驚いたのかもしれない。
アルベルトはすぐに礼を返したものの、その視線はちらりとヴォルフラムへ向かった。主人の意向をうかがうように。
ヴォルフラムは短く言う。
「彼女は客人ではない。私の婚約者として遇せよ。ただし、形式ばった窮屈さを押しつけるな」
「かしこまりました」
執事が頭を下げる。だがその後ろで若い侍女のひとりが、そっとフィオラの首元を見ていることに気づいた。もうあの首飾りはない。そこに残るのは、細い鎖が長年こすれていたかすかな跡だけだ。
屋敷の中は広く、静かだった。
赤い絨毯の敷かれた廊下、古い肖像画の並ぶ壁、陽のよく入る大きな窓。だが華美ではない。どの部屋にも、必要以上の飾り立てを嫌う主の気配があった。
案内された部屋は、南向きの客間だった。大きな窓の外には庭が見え、白いカーテンが風に揺れている。寝台も机も上質だが落ち着いており、フィオラにはもったいないほどだった。
「何か不足があれば、すぐに申しつけてくださいませ」
侍女長のミレイユがそう告げた。声は丁寧だが、どこか距離がある。
「ありがとうございます。十分すぎるほどです」
フィオラが頭を下げると、ミレイユはほんの少しだけ目を瞬かせた。
荷をほどき終えたころ、ノックの音がした。
入ってきたのはヴォルフラムだった。大柄な体が部屋に入ると、そこだけ影が差したように見える。だがフィオラはもう、その影に怯えなかった。
「落ち着けそうか」
「はい。とても素敵なお部屋です」
「そうか」
短い返事ののち、彼は部屋の入口近くで足を止めたまま動かない。中へ踏み込みすぎぬようにしているのがわかる。フィオラはその気遣いに胸があたたかくなる。
「公爵様」
「ヴォルフラムでいい」
すぐに返ってきた言葉に、フィオラは目を丸くした。
「ですが……」
「婚約者にいつまでも公爵様と呼ばれるのは、少し距離がある」
そう言ったあとで、彼は少しだけ視線を逸らした。命令する口調ではなく、むしろ遠慮がちで、それが可笑しくも愛おしい。
フィオラは小さく微笑んだ。
「では……ヴォルフラム様」
金の瞳がわずかに揺れる。たったそれだけの変化なのに、なぜだか心臓が跳ねた。
「あなたも、フィオラと呼んでください」
「ああ。フィオラ」
自分の名が彼の声で呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなる。学院で呼ばれていたのと同じ名前なのに、まるで別のものみたいだった。
しばしの沈黙のあと、フィオラは意を決して口を開いた。
「……ヴォルフラム様。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「あなたの呪いを、少し見せていただけませんか」
その言葉に、彼の表情がかすかに強張った。
部屋の空気が静かに張りつめる。
「怖くはないのか」
低い問いだった。
フィオラは首を横に振る。
「怖くないといえば嘘になります。でも、あの日……王宮で、私の魔力があなたの瘴気に触れたとき、少しだけやわらいだように見えました。だから、力になれるかもしれないと思って」
ヴォルフラムは黙ったままだった。彼にとって、その呪いがどれほど長く苦しみであったか、フィオラには想像しきれない。軽々しく触れてよいものではないこともわかっていた。
だからこそ、続ける。
「無理にとは申しません。ただ……私にできることがあるなら、したいのです」
窓の外で風が吹き、花壇の花が揺れる。
やがてヴォルフラムは、ゆっくりと手袋を外した。
現れた手の甲には、黒い筋のような呪いの痕が浮いていた。肌そのものが蝕まれているようで、見ているだけで痛々しい。指先の周囲には、ごく薄い瘴気がまとわりついている。
フィオラは息をのんだが、目を逸らさなかった。
「……少し、触れます」
頷きが返る。
フィオラはそっと両手で彼の手を包んだ。大きくて、少し冷たい。けれどその奥に、微かな震えがあった。呪いの苦痛によるものか、それとも別の感情かはわからない。
目を閉じ、意識を集中させる。
自分の奥底から、澄んだ水のような白い魔力をすくい上げる。学院ではいつも、力を出そうとしてもどこか空洞に吸われるようだった。けれど今は違う。胸の中心に確かな泉があって、そこから尽きることなく光が湧き出してくる。
その光を、やさしく、傷口へ触れるように流す。
じわ、とヴォルフラムの手の甲に白い光が広がった。黒い筋が抵抗するようにざわめく。だがフィオラは押し流そうとせず、包み込むことだけを意識する。痛みを否定するのではなく、そこにある苦しみをほどくように。
やがて、黒い筋の一部がふっと薄れた。
同時に、ヴォルフラムが短く息をのむ。
「……これは」
「痛みますか?」
「いや……逆だ」
彼は信じられないものを見るように、自分の手を見つめた。
「痛く、ない」
その声には、深い驚きがあった。
フィオラはほっと息をつく。完全に消えたわけではない。けれど確かに、呪いは一部やわらいでいた。
「少しずつなら、浄化できるかもしれません」
「少しずつで十分だ」
ヴォルフラムは低く言った。
「この呪いを前にすると、たいていの者は嫌悪か恐怖を隠せない。触れようとした者すらほとんどいなかった。おまえは……いや、フィオラは違うのだな」
その言葉に、フィオラは胸が痛くなった。
「だって、ヴォルフラム様は怪物なんかじゃありません」
思わず口をついて出た。
彼は目を瞬く。
「裏庭で見たんです。花を枯らさないように、困っていらしたのを。あんなふうに小さな命を気遣う人を、怪物だなんて思えません」
しばらくの沈黙ののち、ヴォルフラムはほんの少しだけ笑った。
それは爛れのない右半分だけに浮かぶ、不器用な笑みだった。それでも、ひどくきれいだとフィオラは思った。
翌日から、屋敷には小さな変化が生まれた。
朝の祈りのあと、フィオラは庭へ出て、花壇の傷んだ草花に浄化を施した。土に残っていた淀みが消え、萎れていた蕾がみるみるうちに顔を上げる。庭師の老人は最初こそ目を疑っていたが、やがて感極まったように何度も礼を言った。
厨房では、古くなっていた貯蔵庫の空気を浄めた。湿気の匂いが消え、料理人たちは目を丸くした。
そして何より、ヴォルフラムの瘴気が、フィオラの傍にいるとわずかに静まることに、使用人たちは気づき始めた。
「旦那様のまわりの空気が……今日は楽だわ」
「咳が出ない」
「まさか、本当に」
そんな囁きが、日に日に驚きから敬意へと変わっていく。
最初は距離のあった侍女長ミレイユも、夕食の席で静かに頭を下げた。
「フィオラ様。先日は失礼をいたしました。屋敷の者たちは皆、長らく旦那様の呪いにできることがなく……そのため、あなた様にも半信半疑でおりました」
「当然です」
フィオラは首を振った。
「私自身、少し前までは自分の力を知らなかったのですもの」
「それでも、旦那様に触れてくださった」
ミレイユの声音は震えていた。
「ありがとうございます」
使用人たちが一斉に頭を下げる気配に、フィオラは慌てた。
「そんな、大げさです。私はただ、自分にできることをしているだけで……」
「それができる方が、今までいなかったのです」
アルベルトのその一言に、フィオラは胸が詰まった。
この屋敷の人たちは、ヴォルフラムを恐れていたのではない。むしろ、何もして差し上げられないことを長く苦しんでいたのだ。
夕暮れ、フィオラは一人で回廊を歩きながら、窓の外の庭を見た。橙色の光の中、ヴォルフラムが花壇の脇を歩いている。相変わらず、足元の花を避けるように慎重な歩き方だ。
その姿に、自然と笑みがこぼれる。
「何を笑っている」
いつの間にか振り返っていたヴォルフラムが、少し不思議そうに尋ねた。
「秘密です」
「気になる」
「では、いつかお話しします」
そう答えると、彼はほんの少し眉を下げた。無骨な人なのに、そういうところだけ妙に素直だ。フィオラはまた笑いそうになる。
その夜、フィオラは自室の窓を開け、春の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
ここは学院ではない。
無能だと笑われる場所でも、優しい嘘に閉じ込められる場所でもない。
まだ痛みは残っている。ヴィヴィエンヌのことを思い出せば胸は疼くし、失った年月の重さも消えない。けれど今、自分はちゃんと自分の足で立っている。
そしてその傍らには、同じように傷を抱えた人がいる。
フィオラは胸の前で手を組んだ。
少しずつでいい。
この屋敷に、もっとあたたかな光を増やしていきたい。
ヴォルフラムの長い苦しみも、いつかきっと終わらせたい。
窓の外では、夜風に乗って花の香りが流れてくる。
その香りは、呪われ公爵邸と恐れられてきたこの場所が、もうすでに少しだけ変わり始めていることを教えていた。




