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万年最下位の私、親友に魔力を奪われていました ~本物の聖女だと判明したら、呪われ公爵に求婚されました~  作者: 九条 綾乃


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第5話 化け物からの求婚と、ハンカチの返礼

 重々しい扉が、音もなく左右へ開かれた。


 ざわめきに満ちていた大広間が、その瞬間だけ息を止めたように静まり返る。


 現れたのは、黒い外套をまとった長身の男だった。王宮の衛士たちですら無意識に道を空けるほどの威圧感。肩口からは、夜の残滓のような瘴気が淡くたなびいている。顔の左半分を覆う爛れは痛ましく、見る者に本能的な恐れを呼び起こした。


「呪われ公爵……」

「ヴォルフラム・グランツェル……!」


 誰かの囁きが、波紋のように広がる。


 フィオラは白光の中心で、その人を見つめた。


 夕暮れの裏庭で見た背中と同じだった。あのときは遠く、静かで、花を踏まないよう困り果てていた人。今は王宮の大広間にありながら、やはりどこか周囲から隔てられて見える。恐れられることに慣れきってしまった人の、諦めにも似た孤独が、その立ち姿にはあった。


 彼――ヴォルフラムは、一度だけ広間全体を見渡し、それからまっすぐフィオラへ視線を向けた。


 金の瞳が、白い光の中の彼女をとらえる。


 その眼差しに、嘲りも、驚愕も、値踏みもなかった。ただ、長く探していたものをようやく見つけたような静かな熱があった。


 王宮の魔導士のひとりが慌てて前へ進み出る。


「グランツェル公爵閣下、いまは儀式の最中です。どうか後ほど――」


「いや」


 ヴォルフラムの声は低く、よく通った。


「むしろ、今でなければならない」


 言葉少ななのに、場を支配する力があった。魔導士は気圧されたように口をつぐむ。


 床に崩れ落ちたままのヴィヴィエンヌが、その姿を見上げ、ひきつったように笑った。


「……最悪」


 掠れた声だったが、静まり返った広間にははっきり響いた。


「よりによって、こんなときに……化け物まで来るなんて」


 その一言に、空気がさらに冷えた。


 だがヴォルフラムは、彼女を見もしなかった。


 ただ、フィオラだけを見ている。


 そのことが、ヴィヴィエンヌには耐え難かったのだろう。彼女は床に手をついたまま、なおも自暴自棄に笑う。


「お似合いですわ。偽物の聖女から力を取り戻した本物の聖女と、呪いで顔を失った公爵様なんて。皆が見たがっていた悲劇の絵そのものだもの」


「やめて」


 思わずフィオラは声を上げた。


 ヴィヴィエンヌを庇いたかったわけではない。けれど、その言葉があまりにも痛々しかった。相手を刺すふりをして、自分の傷口に塩を塗り込むような声音だった。


 フィオラの制止に、ヴィヴィエンヌははっとしたように唇を噛む。だがもう遅かった。広間じゅうの視線が彼女からヴォルフラムへ、そして再びフィオラへと行き交っている。


 その中心で、ヴォルフラムがゆっくりと歩きだした。


 一歩。

 また一歩。


 瘴気をまとっているはずなのに、その歩みはひどく慎重だった。白い光に満ちた魔法陣の縁へ差しかかったとき、彼はほんのわずかに足を止める。まるで、自分の呪いが彼女の清らかな力を汚すのではないかとためらうように。


 フィオラの胸がきゅっと痛んだ。


 この人は、こんなときでさえ、他者を傷つけることを恐れている。


「……閣下」


 知らず、声が漏れた。


 その呼びかけに、ヴォルフラムの金の瞳がかすかに揺れる。


「近づいても、よろしいか」


 低く問う声は、王国屈指の実力者のものとは思えぬほど静かだった。許しを乞うようですらある。


 フィオラは息をのんだ。周囲は固唾を呑んで見守っている。きっと誰もが、公爵の瘴気を恐れているだろう。だが、フィオラにはわかった。あの裏庭のときと同じだ。この人が本当に恐れているのは、自分自身のほうなのだと。


「はい」


 フィオラは頷いた。


「大丈夫です」


 その一言で、ヴォルフラムはようやく白光の中へ足を踏み入れた。


 途端、広間のあちこちから小さなどよめきが起こる。瘴気と神聖魔力がぶつかり合うのではないかと皆が身構えたのだろう。だが実際には何も起こらなかった。いや、正確には、起こったのは静かな変化だった。


 フィオラの白い魔力が、彼のまとった黒い瘴気に触れる。

 焼き払うのではなく、包み込むように。

 拒絶するのではなく、傷に触れる手のように。


 瘴気は一瞬ざわめいたが、すぐにおとなしくほどけ、薄く揺らいだ。


 広間にいた者たちは言葉を失った。


 ヴォルフラム自身も、わずかに目を見開いていた。けれど彼は何も言わず、フィオラの前まで来ると、深く外套をひるがえして片膝をついた。


 誰かが悲鳴のように息をのむ。


 呪われ公爵が。

 戦場で数多の魔獣を屠った英雄が。

 王侯にも容易く頭を垂れぬと言われる男が。

 いま、ひとりの令嬢の前に跪いている。


「な……」


 王宮の貴婦人たちが口元を押さえる。魔導士たちも、教会関係者たちも、誰ひとり動けない。


 ヴォルフラムはフィオラを見上げた。


「フィオラ・エーヴェルス嬢」


 その声音は、驚くほど穏やかだった。


「突然の無礼を許してほしい。だが、私はこの機を逃したくなかった」


 フィオラは瞬きもできずにいる。


 彼は続けた。


「君を見ていた」


 その言葉に、胸がどくりと鳴る。


「学院で、誰にも気づかれぬよう小さな花に話しかける姿を。傷ついた小鳥に手を差し伸べる姿を。笑われても、踏みにじられても、なお優しさを手放さなかった姿を」


 広間の空気が変わる。先ほどまで落ちこぼれとして彼女を見ていた視線が、戸惑いと驚きに揺れる。


 フィオラは呆然とした。


 見られていた。

 あの人が、自分を。


「君は自分の力を知らぬままでも、美しかった」


 ヴォルフラムの金の瞳が、まっすぐにフィオラだけを映す。


「他者に与えられた価値ではなく、君自身の在り方が。私はそれを、得難いものだと思った」


 こんなふうに言葉を向けられたのは初めてだった。


 無能だと言われたことはある。

 か弱いと、守られなければならないと、決めつけられたこともある。

 だが、自分自身の在り方を見てくれた人は、いなかった。


 胸の奥の、凍りついていた場所に、じわりと温かなものが広がる。


「だから、どうか」


 ヴォルフラムは右手を差し出した。


「私のもとへ来てほしい。君を利用するためではない。閉じ込めるためでも、飾り立てるためでもない。君が君として立つための場所を、私の名のもとで守りたい」


 そして、静かに告げる。


「私の花嫁になってくれないか」


 誰かが椅子を倒した。どこかで悲鳴が上がり、別の場所で息を呑む音が重なる。あまりにも突然で、あまりにも真っ直ぐな求婚だった。


 ヴィヴィエンヌが顔を上げ、信じられないものを見るように二人を見つめている。


「本気、なの……?」


 彼女の掠れた問いに、ヴォルフラムはようやく一瞥をくれた。その眼差しは冷たかったわけではない。ただ、揺るがなかった。


「本気だ」


 たったそれだけで、広間は再び沈黙した。


 フィオラは差し出された手を見つめる。大きな手。剣を握ってきた硬さがあり、それでも花を踏むことをためらう手。


 心のどこかでは、もう答えは決まっていたのかもしれない。


 フィオラは震える指で、そっと胸元に手を入れた。取り出したのは、何度も折りたたんで大切にしまっていた白い布。


 ヴォルフラムの瞳が、かすかに見開かれる。


「これを……お返しします」


 フィオラは両手でハンカチを差し出した。


「裏庭で落とされたものでしょう?」


 広間にざわめきが走る。だがフィオラにはもう、周囲の声は遠かった。


「あなたが噂とは違う方だと、あの日知りました」


 白いハンカチを見つめながら、フィオラは微笑む。ひどく不器用な、けれど心からの笑みだった。


「足元の小さな花を枯らさないように、困っていらした。怖い方だなんて、思えなかったんです」


 ヴォルフラムの表情が、初めて大きく揺れた。


 驚き。

 戸惑い。

 そして、それ以上に、信じがたいものを与えられた人のような痛みを含んだ安堵。


「君は……見ていたのか」


「はい」


 フィオラは頷く。


「だから、私もあなたの優しさを知っていました」


 その一言ののち、白いハンカチが大きな手に受け取られた。


 ヴォルフラムはしばらくそれを見つめ、それからひどく大切なものに触れるように握りしめた。爛れた顔の片側が痛ましいぶん、残る半面に浮かんだわずかな表情は、かえって胸を打つものがあった。


「……ありがとう」


 低い声が、かすかに震える。


 フィオラはその震えを聞いて、ふと気づいた。この人もまた、恐れていたのだと。拒絶されることを。見た目だけで、怪物と断じられることを。


 ならば。


 フィオラは、差し出された手の上に自分の指を重ねた。


「はい」


 ほんの小さな声だった。けれど大広間のすべてが、その返事を聞いた。


「どうか、よろしくお願いいたします。ヴォルフラム公爵」


 次の瞬間、場が完全に凍りついた。


 教会の者たちは青ざめ、貴族たちは口を開けたまま動けず、王宮の魔導士たちは事態についていけない顔をしている。先ほどまで「万年最下位」と蔑まれていた令嬢が、本物の神聖魔力を解放し、その場で呪われ公爵から求婚を受け、それを受け入れたのだ。誰ひとり、こんな結末を予想していなかった。


 ただ一人、フィオラだけは不思議と落ち着いていた。


 ヴォルフラムの手はあたたかかった。

 瘴気を纏っていても、そのぬくもりは確かだった。


 もう、誰かの優しい嘘に縋らなくていい。

 自分の意思で選んでいいのだと、その手が教えてくれる。


 ヴォルフラムは立ち上がると、なおも彼女の手を離さず、広間を見渡した。その横顔に漂うのは威圧ではなく、決意だった。


「この方は、私が預かる」


 静かだが有無を言わせぬ声に、誰も異を唱えられない。


 足元では、砕けた首飾りがまだ冷たく光っている。虚飾の時代は終わったのだと示すように。


 フィオラはその残骸から目を離し、隣に立つ人を見上げた。


 彼の顔にはまだ呪いの痕がある。

 黒い瘴気も消えてはいない。

 それでも、今のフィオラには、その姿が少しも恐ろしく見えなかった。


 むしろ――。


 長い孤独の果てにようやく差し出されたその手が、ひどく尊く思えた。


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