第3話 聖堂の密談と、哀しき搾取の理由
それから数日、フィオラは胸の内に小さな秘密を抱えたまま過ごした。
制服の内ポケットに忍ばせた白いハンカチは、そこにあるだけで不思議と彼女を落ち着かせた。講義で失敗しても、陰口を叩かれても、そっと布の感触を確かめると、あの夕暮れの裏庭が脳裏によみがえる。足元の野花を枯らすまいと、困ったように立ち尽くしていた大きな人影。噂に塗りつぶされない、静かな優しさ。
だからだろうか。
ヴィヴィエンヌが「あの呪われ公爵は本当に恐ろしい方らしいわ」と囁くたび、フィオラの胸には、前のような素直な恐れだけではないものが残るようになった。
「近衛の方がおっしゃっていたの。近づくだけで瘴気にあてられる者もいるって。フィオラみたいにか弱い子は、絶対に関わってはだめ」
昼休み、中庭のベンチでヴィヴィエンヌはそう言って、フィオラの肩にショールを掛けてくれた。
相変わらず優しい。誰よりも気を配ってくれる。
なのにフィオラは、その手が自分の首飾りに触れるたび、なぜか身体がこわばるのを感じた。
――この守護があっても無理は禁物。
ヴィヴィエンヌはよくそう言う。そしてそのたび、まるで確認するように首元の銀鎖へ触れるのだ。
おかしい、などと思ってはいけない。彼女は親友で、心配してくれているだけなのだから。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
その夜、学院の鐘が消灯を告げたあとも、フィオラは眠れずにいた。
窓の外では春の風が木立を鳴らしている。机の引き出しからそっと取り出したハンカチを膝に広げると、月明かりを受けた白布がひっそりと輝いた。
「……優しい人、だったのに」
なぜ皆は、あの人を化け物としか呼ばないのだろう。
なぜ自分は、ヴィヴィエンヌの言葉に以前のように頷けなくなってしまったのだろう。
小さくため息をついた、そのときだった。
廊下の向こうで、かすかに足音がした。こんな時間に見回りだろうかと耳を澄ませると、続いて聞こえてきたのは、見回りの修道女たちの規則正しい靴音ではなかった。急いで、しかし人目を忍ぶように抑えた足取り。
フィオラは身を起こした。
扉の隙間から廊下をうかがうと、月影のなかを白い外套が横切っていくのが見えた。ヴィヴィエンヌだった。
こんな夜更けに、どこへ?
すぐに、後ろめたい気持ちがこみ上げる。親友を疑うなんて、と自分を恥じた。けれど同時に、胸の奥のざらつきがささやく。確かめなければいけない、と。
フィオラは薄い上着を羽織り、音を立てないように部屋を出た。
夜の学院は、昼間とはまるで別の建物のようだった。長い回廊には燭台の火がぽつぽつと灯るだけで、白い壁は青黒い影を落としている。ヴィヴィエンヌの背を見失わぬよう、柱の陰を選んでついてゆくと、彼女は本棟を抜け、学院に隣接する小聖堂へ入っていった。
聖堂は普段、夜には固く閉ざされるはずだ。
扉はわずかに開いていた。フィオラは心臓を早鐘のように打たせながら、その隙間へ身を寄せる。
中は静かだった。祭壇の前に灯る数本の蝋燭だけが、金色の揺らぎを石床へこぼしている。そして、その淡い光のなかに、ヴィヴィエンヌともう一人、黒い法衣の男が立っていた。
教会の司教だ。
学院を訪れることもある高位聖職者。慈悲深い笑みを絶やさぬ人物として知られているが、その目は今、蝋燭の火よりも冷たく光っていた。
「……次の披露会まで保たせなさい」
司教の声は低く、石壁に鈍く反響した。
フィオラは息を止める。
「わかっております」
ヴィヴィエンヌの返事は、昼間の柔らかな響きとはまるで違った。疲れと苛立ちを隠しきれない、硬い声。
「けれど最近、転送量が不安定です。フィオラが妙に勘づきかけているようで」
「勘づく? あの娘が?」
司教は鼻で笑った。
「無能と蔑まれ続け、親友であるおまえに縋るしかない娘だ。自分で考える力などあるまい」
その言葉は、刃物のようにフィオラの胸を裂いた。
けれど次の瞬間、それよりはるかに恐ろしい言葉が落ちてきた。
「首飾りの効力に問題があるのではありませんか」
ヴィヴィエンヌがそう言って、苛立たしげに自分の胸元を押さえる。
「このところ、流れてくる神聖魔力にむらがあります。あれほど膨大な力を持っているのに、なぜわたくしの器へ定着しないのです」
「贅沢を言うな」
司教は冷たく切り捨てた。
「あの娘の魔力を、おまえに違和感なく移し替えるために、どれだけ手を尽くしたと思っている。浄化の守護と偽った魔力吸収の首飾りは、そう易々と作れる代物ではない」
フィオラの頭のなかで、何かが真っ白になった。
首飾り。
魔力吸収。
偽った――?
思わず口元を押さえる。声を漏らせば終わりだった。
祭壇の前で、ヴィヴィエンヌはうつむいていた。長い睫毛の影が頬に落ちる。
「……わたくしだって、好きでこんなことをしているわけではありません」
「ならば従え」
司教の声に、今度は露骨な威圧が混じった。
「孤児院の子どもたちを飢えさせたくなければな。弟も妹たちも、今の暮らしを失えばどうなる? おまえが次期聖女候補である限り、あの子らは守られる。わかっているだろう」
孤児院。
弟妹。
フィオラは目を見開いた。ヴィヴィエンヌは名家の養女として迎えられた才媛だと思っていた。だが彼女の震える肩は、その秘密が真実であることを物語っていた。
「……わかっています」
押し殺した声が落ちる。
「だから、従ってきました」
それは今にも崩れそうな響きだった。
フィオラの胸が痛んだ。知らなかった。ヴィヴィエンヌがそんな事情を抱えていたなんて。彼女もまた、何かに追い詰められていたのだと知ってしまう。
だが、司教は容赦しなかった。
「ならば躊躇うな。あのフィオラとかいう娘の魔力は王国でも稀な純度だ。本来なら聖女として祭り上げるにふさわしい。しかし扱いやすい駒はおまえのほうだ。生まれの弱みがある者ほど、こちらに従順だからな」
吐き気がした。
足元が崩れてゆくようだった。
自分が無能なのではなかった。
魔力が淀んでいたのでもない。
奪われていたのだ。
ずっと。知らないうちに。信じていた首飾りを通して。
そして、その首飾りを勧め、いつも触れていたのは――
「フィオラは……」
ヴィヴィエンヌが、かすかに唇を震わせた。
「あの子は、本当に何も知らないんです。わたくしが傍にいて励ませば、疑いもしない。だから……だからせめて、わたくしが支えてあげなくては」
司教がせせら笑う。
「罪悪感の慰めか?」
「違います!」
ヴィヴィエンヌの声が、聖堂に鋭く響いた。
「……違う、はずです。わたくしは、あの子を守っているのです。あの子があの力を持つと知れれば、もっとひどい者たちに目をつけられる。家だって、王宮だって、教会だって。なら、わたくしが受け皿になればいい。あの子は何も知らないまま、穏やかに生きればいいんです」
その言葉を聞いた瞬間、フィオラの胸に広がったのは安堵ではなかった。
深い、深い絶望だった。
守るため。
穏やかに生きるため。
優しい言葉の形をしているのに、その実、そこにあるのは自分の人生を勝手に決める傲慢だった。
知らないままでいい。
何もできないままでいい。
あなたはそのままでいい。
今までヴィヴィエンヌが繰り返してきた言葉の意味が、ひとつにつながってゆく。
彼女は支えてくれていたのではない。
立ち上がれないよう、優しく抱え込んでいたのだ。
司教は鼻を鳴らした。
「ずいぶんと美しい理屈だ。だが本音は違うだろう、ヴィヴィエンヌ。あの娘の力が羨ましいのだろう?」
沈黙。
蝋燭の火が、ひときわ大きく揺れた。
「……ええ」
やがて、絞り出すような声が響く。
「羨ましいです」
フィオラは目を閉じたくなった。けれどできなかった。
「何も持たないわたくしが、どれだけ努力しても届かないものを、あの子は生まれながらに持っていた。やさしくて、鈍くて、何も知らない顔をして。皆に蔑まれても、あの子の力だけは本物だった……だから、奪ってしまえば、少しは自分を許せる気がしたのです」
その告白は、泣いているようでいて、どこかひどく乾いていた。
フィオラのなかで、何かが静かに壊れた。
大好きだった親友。
たった一人、自分の味方だと思っていた人。
そのやさしさも、庇護も、寄り添う手も、全部が嘘だったわけではないのだろう。司教に脅され、家族を守るために必死だったことも本当なのだろう。
それでも。
それでも、その手は自分から奪い続けていた。
フィオラはよろめき、壁に手をついた。ひやりと冷たい石の感触が、どうにか意識をつなぎとめる。
泣きたかった。
叫びたかった。
どうして、と問いただしたかった。
けれど、聖堂のなかの二人に気づかれてはいけない。本能のような危機感が、震える身体をその場に縫いとめた。
司教が最後に低く告げる。
「明後日の王宮披露会が勝負だ。未婚令嬢たちの前で、おまえの聖女としての力を確固たるものにしろ。首飾りを通じて、もう一段階、強く吸い上げる。失敗は許さん」
「……承知しました」
足音が動いた。フィオラは我に返り、闇に紛れるように聖堂の外へ身を滑らせる。息ができない。胸が痛い。喉の奥まで熱く苦しい。
そのまま無我夢中で回廊を走り、自室へ戻ると、扉を閉めた途端に膝から崩れ落ちた。
「う、そ……」
掠れた声しか出ない。
首元をつかむ。銀の首飾りは、今や冷たい守護ではなく、肌に食い込む鎖に思えた。
自分は無能ではなかった。
ずっと奪われていただけだった。
その事実が、救いにならないのはなぜだろう。むしろ、信じていた日々が丸ごと汚されたようで、涙が止まらなかった。
ヴィヴィエンヌにも事情があった。家族を守るため、司教に逆らえなかった。そう考えると、彼女だけを憎むことはできない。できないのに、許すことも、もうできなかった。
フィオラは泣きながら、ふと机の引き出しを開けた。
白いハンカチを取り出し、ぎゅっと握る。
あの人は、誰も見ていない場所で、小さな花を守ろうとしていた。
自分が傷つけるものに怯えながら、それでも踏まない道を選んでいた。
だったら自分も、選ばなければならない。
誰かのためと名づけられた檻の中で、何も知らないまま守られるのではなく。
たとえ怖くても、自分の足で立つ道を。
フィオラは震える手で、首飾りを握りしめた。鎖は細いのに、呪いのように重い。
「……もう、犠牲になるのはやめる」
涙に濡れた声はかすかだった。けれど、確かに自分自身の意志だった。
明後日、王宮で未婚令嬢の魔力披露会がある。
きっとヴィヴィエンヌは、いつものように優しい顔で近づいてくるだろう。首飾りに触れ、心配そうに微笑み、自分を従わせようとするだろう。
そのとき、自分はどうするのか。
答えは、もう決まっていた。
窓の外では、夜明け前の風が静かに鳴っている。傷はまだ深く、胸の痛みは消えない。けれどその奥底で、長いあいだ奪われ続けていた何かが、微かに目を覚ましはじめていた。
第4話 決別の閃光、溢れ出す真の力
に、続きます。




