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万年最下位の私、親友に魔力を奪われていました ~本物の聖女だと判明したら、呪われ公爵に求婚されました~  作者: 九条 綾乃


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第2話 裏庭の怪物と、落とされたハンカチ

 呪われ公爵の噂は、翌日になっても学院じゅうを騒がせていた。


 講義の合間も、食堂でも、寮へ続く回廊でも、生徒たちは声をひそめながら同じ話を繰り返す。北方戦線で受けた呪いはあまりに強く、公爵の半身を黒く爛れさせたこと。纏う瘴気は濃霧のようにまとわりつき、近づくだけで吐き気を催す者もいること。彼が戦場で振るう剣は魔獣すら震え上がらせるが、その姿を見た者は夜ごと悪夢にうなされること。


 どこまでが真実で、どこからが尾ひれなのか、もはや誰にもわからない。


 けれど、噂は真実かどうかよりも、人の心を怯えさせる力のほうが強い。


「もし本当に花嫁を探しているなら、王家もひどいことをするわ」

「聖女候補が差し出されるのかしら」

「でも、浄化の力が強い方なら、あの呪いを少しは抑えられるかもしれないものね」


 そう言って、ちらりとヴィヴィエンヌを見る視線があった。


 学院一の聖女候補。清らかな白魔法。誰もが彼女こそ選ばれるのではないかと囁いている。


 けれどヴィヴィエンヌは、憂いを帯びた美しい顔で首を振っただけだった。


「そんな恐ろしいこと、考えたくありませんわ」


 その横顔は、いかにも儚く、気高い。教室のあちこちから同情と称賛のため息が漏れる。


 フィオラは窓際の席で、そっと自分の膝の上に視線を落とした。自分が選ばれることなどありえない。そんなことはわかっている。魔力もない、家の期待にも応えられない、学院では最下位の令嬢だ。王宮が求めるのは、呪いに抗える強い力を持つ娘に決まっている。


 それでも、胸の奥には昨日から妙な引っかかりが残っていた。


 化け物。


 ヴィヴィエンヌがそう呼んだとき、皆は当然のように頷いた。フィオラも、怖い存在なのだろうと頭では思っている。なのに、ひどく冷たい言葉を聞いたような気がしてしまったのだ。


 その日の午後、白魔法演習はまた散々な結果に終わった。


 講義室の壇上に並べられた小さな瘴気結晶を、生徒たちは順番に浄化していく。優秀な者なら一瞬で白く透き通らせられるはずのそれを、フィオラはいつものようにほんの少し揺らしただけで終わってしまった。結晶の黒ずみはほとんど消えず、教官は無表情に記録をつける。


 帰り際、背後から聞こえた忍び笑いに、フィオラは肩をすくめた。


「浄化どころか、触っても変わらないなんて」

「名門の恥ね」

「首飾りだけは立派なのに」


 思わず、首もとの銀鎖を手で隠す。


 すると、すぐにヴィヴィエンヌが間へ入った。


「やめてくださいな。フィオラは人一倍、心を砕いているのですから」


 たしなめる声はやわらかいのに、皆はたちまち押し黙った。やはり彼女はすごい、とフィオラは思う。自分には決して持ちえない強さと光を、ヴィヴィエンヌは何の苦もなく纏っている。


 寮へ戻る途中、ヴィヴィエンヌはフィオラの手を取り、少し困ったように笑った。


「気にしないで。あの人たちは、あなたの本当の良さを知らないだけ」


「でも、結果はいつも同じだから……」


「結果だけで人を決めつけるほうがおかしいのよ」


 そう言いながらも、ヴィヴィエンヌの指先はふとフィオラの首飾りに触れた。


「ただ、この守護があっても無理は禁物。最近、顔色が悪いわ。放課後は少し休んでいて」


「うん……」


「約束よ」


 約束、と微笑まれると逆らえない。フィオラは素直に頷いた。


 だが、夕暮れが近づくころには、やはり部屋にじっとしていられなくなっていた。


 窓の外に見える裏庭の木立が、薄紫の影を落としている。学院の表庭はいつも手入れされ、貴族の子女たちが散策するのにふさわしく整えられているが、裏庭は少し違った。古い薬草園の名残と、手入れを逃れた野の花が入り交じり、静かで、人目が少ない。フィオラはその場所が好きだった。


 誰にも見つからないように階段を下り、回廊を抜ける。夕風はまだ少し冷たいが、花の匂いがした。


 裏庭の隅には、石壁に沿って小さな野花が群れて咲く一角がある。名前も知られていないような、ごくありふれた白い花だ。けれど、夕日に照らされると星の欠片を散らしたように見えて、フィオラはそこへ来るたび、心が少しだけ軽くなった。


「今日は元気ね」


 しゃがみこんで囁く。返事があるはずもないのに、花弁が風に揺れたのを見て、なぜか微笑んでしまう。


 ――あなたはそのままでいいの。


 ヴィヴィエンヌの声が頭をよぎる。


 そのままでいい、はずなのに、胸の奥には小さな棘が刺さったままだった。自分は本当にこのままでいいのだろうか。誰かに守られて、誰かに「無理をしないで」と言われるまま、何もできないまま生きていくのだろうか。


 フィオラは首を振った。考えすぎだ。こんな気持ちは、きっと疲れているだけ。


 そうして立ち上がろうとしたとき、不意に空気が変わった。


 冷たい。


 春の夕暮れの冷え込みとは違う、もっと肌の内側へしみ込んでくるような温度の低下。鳥の声がぴたりと止み、葉擦れだけがやけに大きく聞こえた。


 フィオラは息をのんで振り返る。


 木立の向こう、薄闇を押し分けるようにして、一人の男が立っていた。


 背が高い。学院の若い教師たちよりもなお頭ひとつ抜けている。黒い外套は夜のかけらのように重く、その肩口から漂うものがあった。靄のような、煙のような、形を定めない黒い瘴気。


 そして、顔の左半分を覆うように走る、痛ましい爛れ。


 噂どおり――いや、噂以上だった。


 ただそこに立っているだけで、この世のものではない異質さがある。人は本能で恐れるだろう。フィオラも足が竦み、声が出なくなった。


 男は彼女に気づいたようだった。金色の、鋭い眼差しがかすかに動く。


 次の瞬間、フィオラは逃げなければと思った。怖い。瘴気が濃い。もし触れたら、もし近づかれたら。


 だが男は、一歩もこちらへ来なかった。


 それどころか、奇妙なことに、彼は足元を見ていた。じっと、ひどく苦しげに。


 視線を追って、フィオラははっとする。


 男の立っている少し前、石畳の裂け目から、白い野花が数輪だけ顔を出していた。さきほどまで風に揺れていたのと同じ、小さな花。男がもう半歩前に出れば、瘴気に触れてしまう位置だ。


「……っ」


 男はわずかに身を引いた。


 その動きは、敵を前にした戦士のそれではなかった。まるで、自分がそこにいるだけで何かを傷つけてしまうのを恐れる人のようだった。


 彼はゆっくりと外套の裾を押さえ、別の方向へ足を運ぼうとする。だがそこにもまた、名もない草花がある。踏まないように、枯らさないようにと避けるせいで、長身の体がひどく窮屈そうに見えた。


 フィオラは瞬きも忘れて見つめた。


 化け物、のはずなのに。


 噂では人を不幸にする存在のはずなのに。


 その人は今、足元の小さな花を傷つけないよう、まるで子どもみたいに困っていた。


 胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。


 男は小さく息を吐くと、自分の手袋越しの指先を見た。瘴気が濃くまとわりつき、行き場を失ったように揺れている。憎んでいるようでも、嫌悪しているようでもなく、ただ深く諦めている眼差しだった。


 その表情があまりにも静かで、悲しくて、フィオラは怖さを忘れた。


 声をかけたいと思った。


 大丈夫です、と何を根拠にともなく言いたくなった。


 けれど喉は震え、結局何も言えない。


 男はやがてこちらから視線を外し、花のない場所だけを選ぶようにして裏門のほうへ歩き出した。夕陽はすでに沈みかけ、彼の影は長く地面を滑る。黒い瘴気が風に散るたび、周囲の空気がざらつくのに、不思議とその歩みは慎重で、やさしかった。


 その背中が木立の向こうへ消える寸前、何か白いものがひらりと落ちた。


「あ……」


 フィオラは我に返って駆け寄る。


 石畳の上に落ちていたのは、上質な白布だった。男物にしてはやや繊細な刺繍が角に施されている。銀糸で縫い取られた紋章は、見覚えのない古い意匠だったが、貴族の持ち物だとすぐにわかった。


 ハンカチだ。


 拾い上げると、ほんのかすかに冷たい。けれど、恐れていたような禍々しさはなかった。むしろ清潔な石鹸の香りと、その奥にごく淡い薬草の匂いが残っている。


 フィオラは思わず胸元に抱き寄せた。


 追いかけて返さなければ。そう思うのに、足は動かなかった。もう姿は見えないし、裏門の先には学院の衛兵もいる。自分のような者が、あの呪われ公爵に声をかけるなど、できるはずもない。


 それに。


 この布を握っていると、先ほど見た金の瞳を思い出す。花を避けて、ひどく困ったように立ち尽くしていた大きな人影を。


「……やさしい人」


 口に出した瞬間、自分で驚いた。


 学院中が恐れている相手に、何を言っているのだろう。ヴィヴィエンヌが聞いたらきっと眉をひそめる。あんな化け物に同情してはいけない、と諭されるかもしれない。


 けれど、フィオラにはもう、さっき見たものが嘘だとは思えなかった。


 少なくとも、自分の足元に咲く小さな花を傷つけまいとする人を、ただの怪物と呼ぶことはできない。


 夕闇が濃くなり、学院の窓に灯りがともりはじめる。早く戻らなければ門限に間に合わない。


 フィオラはハンカチを丁寧にたたみ、そっと胸元へしまった。制服の内ポケットに収めると、そこだけがほのかに温かい気がした。


 返す機会があるだろうか。


 そもそも、もう二度と会わないかもしれない。


 それでもなぜか、なくしてはいけないものを拾ったような気がした。


 寮へ戻る途中、窓ガラスに映る自分の顔は、少しだけいつもと違って見えた。怯えだけではない、名前のつけられない感情が目の奥に灯っている。


 部屋の扉を開けると、ちょうどヴィヴィエンヌが訪ねてきたところだった。


「フィオラ、どこへ行っていたの? 心配したのよ」


 やさしい声に、フィオラははっとして胸元を押さえる。布越しに、白いハンカチの感触が確かにあった。


「ご、ごめんなさい。少しだけ裏庭に」


「もう、駄目じゃない。日が落ちてから一人で歩くなんて」


 ヴィヴィエンヌは困ったように笑い、それからフィオラの頬をのぞきこんだ。


「でも、顔色は少し良くなったみたい。花を見ていたの?」


「……うん」


「そう。あなたらしいわ」


 その言葉に頷きながら、フィオラは初めて、胸の内に小さな秘密を抱えた。


 誰にも言えない秘密。


 噂とは違う、悲しげでやさしい横顔を見たこと。

 その人が落としたハンカチを、返せずに持ち帰ってしまったこと。

 そして、それを手放したくないと思ってしまったこと。


 夜、寝台の中でこっそり取り出した白布は、月明かりの下で静かに光って見えた。


 指先でそっと撫でる。


 その瞬間、冷たかったはずの胸の奥に、小さな灯がともるのをフィオラは感じていた。


第3話 聖堂の密談と、哀しき搾取の理由

に続きます。

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