草斑2
これならバレまい、と意気揚々と関所に入った二人は失念していた。変装の結果、確かに医者ジャレッドとサララ姫には見えなくなっていたが、度を越してぐちゃぐちゃになった二人は普通に怪しかった。
怪しんだ兵士に汚れを落とされ、あっさり正体が発覚。二人はあっという間に兵士達に取り押さえられた。
「おい暴れるな!」
「離せ馬鹿この馬鹿! あってめぇどこ触ってんだこらこの馬鹿! 馬鹿野郎この野郎!」
ジャレッドは貧相な語彙で喚いているが、屈強な兵士に地面に押し付けられ動けない。
「おい、我が身は貴様如きが触れて良いものではないぞ。その顔覚えたからな。今すぐ離さなければ私に乱暴狼藉を働いた報いを十倍返しにしてやる。必ず、必ずだ」
「ひぃ……」
都合の良い時だけ王族の威光を放つサララは押さえつける兵士を怯えさせていたが、解放まではされなかった。
万事休す、抑え込まれたまま縄をうたれ最早ここまでと思われた時、救いの神は現れた。
彼女はいつの間にかジャレッドの前に立っていた。誰も彼女が現れる瞬間をみていない。全員の意識の隙間を縫って、平然とそこにいた。
その女性はジャレッドと同じ使い古された黒のマントを身に着け、解れと破れだらけの手袋をはめている。
かなりの長身で、兵士達の誰よりも高い。この世の物とは思えないほど美しく怜悧に整ったほっそりした顔の両目は閉じられていて、何よりも奇妙なのはその長く艶やかな黒髪だった。風もないのに不自然に棚引き、揺れるたびに誰かの苦悶の顔や骨が浮かんで見えるのだ。
女性は静まり返った一同をゆっくり見まわし、床に顔面を叩きつけられ鼻血を出しているジャレッドを見つけて微笑んだ。煉獄に咲いた鮮血の花のような、美しくも恐ろしい笑みだった。彼女がほんの僅かに息を吹くと、ジャレッドを縛っていた縄がボロボロになり、死んだ。
兵士の一人が空気に溶けて消えていく縄の残骸と女性を見比べて息を飲み、畏怖と共にその名を呼んだ。
「死神モルスロム……!」
死神モルスロムはその兵士に顔を向けなかった。だが、名を呼ばれた瞬間不機嫌に見えない何かを発した。兵士は何かを感じ、顔を土気色にして悲鳴を上げ、同僚を突き飛ばし脇目も降らず逃げだした。恐怖は速やかに伝染し、十秒もしない内に兵士は全員居なくなった。
死神は逃げ去った兵士の背中を閉じた目で冷たく一瞥し、一転してにこやかにジャレッドに手を差し伸べた。
「立てますか?」
「余計なお世話だ。ありがとう」
ジャレッドは死神の手を不機嫌に払いのけ、自分で立ち上がった。死神は払いのけられた手をさすり、優しく語りかけた。
「死にそうですね、ジャレッド。変わりないようで良かった」
「黙れ。失せろ」
「そんなっ、悲しい事を言わないで下さい」
死神は本当に悲しそうに顔を歪ませた。ジャレッドは無視してサララの縄を解きにかかった。
「少し痩せましたね。ちゃんと食べていますか? 寒いときはあったかくしないと駄目ですよ」
「黙れ。生き返らせるぞ」
「ひ、酷い。誰にそんな悪い言葉を教わったのですか」
「俺が自分で考えたんだ」
「!! ジャレッドが、あんなに可愛くて素直だったジャレッドが、悪い子になってしまいました……!」
「わざとらしく傷ついたフリをするな。苛々する……ん? え? す、すまん言い過ぎた」
邪険にしていたジャレッドだが、死神がはらはらと涙を零すのを見て慌てて謝った。弱い。
サララは俯いた死神が満面の笑みを浮かべているのを見て、二人の大体の力関係を察した。からかわれている。
縛めを解かれたサララはジャレッドの後ろに隠れて恐々死神を見た。
死神モルスロム。死を司り、世界に死という概念を与えた旧く有名な神である。
彼女の一息で村が死に、一歩歩けば森が死に、一言喋れば大地が死ぬと言われている。
そこまで理不尽な存在ではないようだったが、縄を殺すなどという意味不明な現象を起こした時点で十分恐ろしい存在に違いはない。
死神モルスロムは死を拒む死すべき者の前に現れるため、忌み嫌われると同時に崇拝もされている。誰もに好かれる人格者の前に現れる事もあれば、誰もが手出しできない暴君の前に現れる事もある。肖像画も多く残り、彼女の姿は正確に伝わっている。礼拝堂に飾られている事もしばしばだ。
そんな死を司る女神たるモルスロムが、なぜ人を救う医者たるジャレッドにこれほど親し気なのか。ジャレッドもジャレッドである意味での医者の天敵に対して物怖じしなさ過ぎる。サララはジャレッドにひそひそ声で聞いた。
「なあ、死神とどんな関係?」
「ああ、昔生き返りかけてたから殺したらなんか懐かれた」
「はっ!? ……え? 何? なんて?」
「あー、死神は生死が逆転してるんだ。白骨化してる時が一番元気で、心臓が動き出しでもしたら身動き一つとれなくなる。だから蘇生しそうになってるモルスロムを殺して助けた。で、お礼に祝福もらった訳だが」
「神様の祝福!? 凄いじゃん!」
「凄くない。死神の祝福だぞ? 呪いみたいなもんだ。貰ったのは不治の病、死神病だ」
ジャレッドがシャツをめくると、そこには腹ではなくがらんどうの肋骨があった。サララは口を手で押さえ悲鳴が漏れないようにしなければならなかった。肋骨の中に浮かぶむき出しの心臓とそこから伸びる血管、肺、石溶。それが胴の全てだった。ジャレッドはすぐにシャツを下ろした。
「ジャレッドは困ったさんですね。抵抗しては駄目だと言っているでしょう? 素直になればすぐに素敵で立派な白骨になれるのですから」
頬に手を添えた死神の声音は母のような慈愛に満ちていたが、内容は酷いものだ。
サララは死神に心底嫌悪感を抱いた。同じジャレッドに助けられた者として、恩を仇で返す死神が許せなかった。神と人の感性の違いが理由だとしても。
「行こう」
サララは馬に乗り、ジャレッドを促した。関所にはもう誰もいない。今なら素通りできる。
ジャレッドもそこには異論なく、死神に舌を出して荷台に飛び乗る。そしてサララの掛け声で馬が急加速して駆け出した。死神を乗せてやるつもりは毛頭なかった。置き去りである。死神のお陰で助かった事は事実でも、それとこれとは話が別だ。
「ジャレッド、死神って――――」
肩越しに振り返ったサララは絶句した。死神が嫌がるジャレッドを膝枕していた。乗車した気配は全く無かった。死神からは逃げられない。
「寝ていなさい。魔力も体力も回復しきっていないでしょう。子守歌歌ってあげますから」
「離せ子供扱いするな。そんな歳じゃない! お前のそういうところがほんと嫌いだ!」
「私にとっては定命の者は皆子供ですよ。何歳違うと思っているのですか」
「……くっ!」
「ジャレッドから離れろ、死神。嫌がってるだろ」
簡単に言いくるめられたジャレッドに代わりサララが文句をつけた。死神は柔和な笑みを消し、美しくも恐ろしい寒気がする無表情を浮かべた。
「あの馴れ馴れしい定命は?」
「助手のサララだ」
「ほう、助手」
そこで初めて死神はサララを認識したようだった。目を閉じていても視えるらしく、顔を見て、泥の落ち切っていない髪を見て、腹を……ちょうど晶腫があった位置を特にじっとりと見つめる。
サララは悪寒に襲われた。死神が何を視ているのか分からないが、何か良くないものを視ている事は間違いなかった。死神が死の息を吐かない事を神に祈ろうとして、目の前の相手が祈る相手である事を思い出しぞっとする。
「サララ・ナルガザン・エルフィリア。覚えておきましょう」
死神が何かに納得して頷くと、黒髪の陰影がサララに非常によく似た苦悶の表情を作った。ろくでもない覚え方をされた気がして胃が引き攣った。
関所を越えキオ共和国の領土に入ると、荒れ地は徐々に緑と勾配を増し、入り組んだ山岳地帯をうねる山道に入り込んでいった。ジャレッドは並足になった馬車に揺られ、死神の膝枕と子守歌に包まれてすぐにぐっすり寝ていた。
国境を越えたが行くアテの無いサララは、山岳を吹きすさぶ風に乗って飛んでいた鳥の視界を魔法で借り、北にある町を確認。太陽で方角を確認しつつ迷わないよう慎重に馬車を進めた。といっても轍の跡がいくつも同じ方向へ続いていたので道を失う心配は無い。
サララは黙々と馬を操っていたが、背後から聞こえる優しい子守歌がずっと途切れないためイライラして口を開いた。
「これからずっと付きまとうつもりか」
「これからはもちろんですが、私はこれまでもずっと一緒でしたよ。少し離れていただけです」
「そのままどっか行っててくれたら良かったのによお。なんでジャレッドから離れてたんだ」
「創造神の頼みで致し方なく。反抗的な神族を皆殺しにするお仕事をしていました」
「創造、え? 神族、皆殺し?」
話の大きさにサララは頭がくらくらした。なんでも無い事のように言っているが、明らかに神話的大事件だ。
ジャレッドの助手という事で、死神はサララに対し死んだ家畜にそうするように優しかった。労りは無かったが、無碍に扱う事もなかった。
「死神はジャレッドに助けて貰ったのにジャレッドを殺すのか。それが神の礼儀か?」
機嫌を損ねれば視線一つで殺されると分かっていても、サララは皮肉った。サララは怒っていた。例え神であろうと命の借りを悪い意味で命で返すのは全く度し難い悪行だ。ジャレッドは丸め込まれているが、本来なら怒り狂い罵って当たり前なのだ。
「誤解があるようですが」
死神の髪が谷風に煽られ、一瞬巨大な禍々しい鎌の形を作った。
「ジャレッドが死神病と呼ぶ私のこれは祝福です。全身を骨と化した時、ジャレッドは私と同じになる」
「死神に?」
「そうです」
「……やっぱり呪いだ」
命がけで自分を助けてくれた恩人が、命を刈る存在になり果てるのをサララは見たくなかった。ジャレッドもそれを望んでいないのは明白だ。
「呪い解いてどっか行けよ。いつまでくっついてるつもりだよ……」
「それはもちろん、ジャレッドの命が尽きるその時まで」
ヌケヌケと宣う死神を馬車を揺らし振り落としたい衝動に駆られたが、どう考えても振り落とされるのはジャレッドだけなので我慢した。
昼過ぎになるとジャレッドは起きだし、世話を焼こうとする死神を邪険に扱いながらサララにおやつのビスケットを寄越した。バターもチーズもたっぷり乗っていた。ぐっすり寝て罰を忘れたらしい。自分の分を齧りながら死神を「欲しいか? 欲しいか? やらん!」と煽っている。バターとチーズ抜きの素のビスケットと水を貰った死神はニコニコしていた。サララは素朴な疑問をぶつけた。
「なあ、ビスケットも水もやらなきゃいいんじゃないのか?」
ジャレッドはきょとんとした。
「は? おやつ無いと腹減るだろ」
「……死神の事、嫌いなんだろ?」
「当たり前だ! ふざけた呪いかけやがって! 許せるか!」
「でもビスケットはあげるのか?」
サララが念を押して聞くと、そこでようやく気付いた。
「あああああ! そうだ、お前なにしれっと貰ってるんだ! 返せ! お前にやるビスケットはない!」
「そんな事言わずに下さい。なんでもしますから」
「ほう、なんでも! ビスケット一枚のために死神モルスロムともあろう御方が卑しいなぁ、えぇ? そんなに欲しいなら俺の言う事を聞いてもらおうか!」
「はい」
しおらしい死神にサララは希望を見た。どう見ても死神はジャレッドに特別甘い。案外、ジャレッドが真剣に言えば立ち去るのかも知れない。
「よし! なら俺から離れろ! 邪魔なんだよお前! 金輪際近づくな! 死神病も治していけ!」
「しかしジャレッドは昔ずっと一緒に居てくれと言っていましたが。死神病も治さなくて良いと」
「ああ? 下手な嘘吐くな。そんな事言うわけないだろ」
「いいえ、言いました」
死神がきっぱり言うと、ジャレッドの怒気が目に見えて弱まった。サララは嫌な予感がした。
「……言ったか?」
「言いました」
「そうか……」
ジャレッドは黙ってしまった。弱い。
「ジャレッド、それ絶対嘘だぞ。言い返せ」
「嘘なのか!?」
「本当です」
「本当だって言ってるぞ」
「だからそれが嘘なんだって」
「嘘なのか!?」
「本当です」
「やっぱり本当じゃないか」
「がああああ!」
サララは頭を抱えた。命に関わる深刻な問題のはずで、ジャレッドもジャレッドなりに真剣なのは確かだが、茶番にしか見えなかった。
はぁかわいい、という死神の呟きが聞こえる。目を閉じ声質を幼い子供に変換すればサララも同意するところである。しかし悲しいかな、実態は悪意が弱すぎるくたびれたおじさんだ。かわいさからは程遠い。
結局死神はビスケット一枚と引き換えにこの日の馬のブラッシングを一人でやる事になり、サララは死神を追い払おうとしているのが馬鹿馬鹿しくなった。
西日も弱まり日が山の向こうに消えかける頃、一行はなんとか街にたどり着いた。死神の存在がまた大騒ぎを起こすかと思いきや、死神の姿はいつの間にか消え、代わりにジャレッドの腰に古ぼけ錆びついた草刈り鎌がぶら下がっていた。
ジャレッドが舌打ちして投げ捨てる。草刈り鎌は放物線を描いて岩の向こうに落ち、そして目を戻すと、また同じ草刈り鎌が腰に下がっている。ジャレッドは苛々と頭を掻きむしった。
「またこれか」
「それ死神?」
「そうだ。これで切るとなんでも即死する」
「ひえっ……」
「何の役にも立たんボロ鎌だ。医者がこんなもん持ってどうしろと」
戦場で兵士が持てばこれ以上ないほど役に立つが、ジャレッドが持っていても猫に金貨と言う他ない。
二人と鎌に化けた一柱は通行税を払うだけで簡単に通された。街の名前はレイヴァルといい、谷底の細い川沿いにある。
増水対策か木造の家々の基礎は足が高く、水嵩が増しても浸水しないようになっていた。谷を挟む急峻な崖には物見台が幾つも張り付き、戦時は矢と魔法が雨のように降り注ぐであろう事は想像に難くない。
「これからどうする?」
「とりあえず宿だな。維持費が嵩むから馬車は売っていい。その金で宿を取る」
ジャレッドはレイヴァルを訪れた事があると言い、馬屋を見つけるまでは早かった。しかし馬車を売る時何の迷いもなく言い値で引き渡そうとしたため、サララが慌てて代わりに交渉をした。
生まれて初めての売買交渉でいいように翻弄され高く売るどころか逆に更に買い叩かれそうになったが、なんとか銀貨一枚分黒字に持っていく。
金貨二枚と銀貨五枚を握りしめ、サララは途方に暮れた
「これっぽっちかぁ。馬車って安いんだな。こんなの二日でなくなるぜ」
「ふざけろ、これだけあれば一か月はもつ」
呆れるジャレッドにサララは呆れた。
「おいおいジャレッドは計算もできないのか? いいか、一食銀貨四枚だろ。一日三食切り詰めて金貨一枚。二人いるから金貨二枚。あとは宿代で銀貨五枚ぐらいはかかるだろ。ほら、二日で無くなった」
「王族と一緒にするな。銀貨四枚もあれば平民は一か月食えるんだ。宿代は一か月で銀貨三枚」
「どういう金銭感覚してるんだよ。そんなに安く済む訳ないだろ」
「見てみろ」
ジャレッドが近くの宿屋の看板を指すと、『一食銅貨五枚。一泊小銀貨五枚。月泊まり銀貨三枚』と書かれていた。サララの顔がゆっくり赤くなっていった。
「あの、ごめんなさい。私が間違ってました……」
「全く、これだから物の価値を知らない奴は困る。まあ誰にでも間違いはある。これからゆっくり覚えていけ」
「馬車一台の相場は」
調子に乗っているジャレッドの腰の鎌から笑いをこらえた声がした。
「金貨十五枚です」
「…………」
「…………」
二人は黙り込んだ。金貨十二枚と銀貨五枚、三人分の生活費にして半年分の壊滅的大損である。同時に踵を返し、馬屋に怒鳴り込もうとしたが、もう店は閉まっていた上、騒乱罪で危うく警邏に捕まりかけた。