16:そして闇の中を知る
降りしきる雨が外套に跳ねる。石畳にぶつかる雨音が身を包むと、こんなにも騒がしいものだなんて、ちらりとも思ったことはなかった。でも、雨音は何も伝えてはくれない。自分を包み込んでいる雨音は、たとえ大きな音でも、木々の騒めきみたいに静けさをたたえている様に思えた。
ルナリアは暗い道を急いだ。雨に濡れてつるつるとした石畳に滑らない様に、一歩一歩に気をつけながら、でも、心が足を急いた。
大雨の中、夜の道を歩いてみたいだなんて、アキラを助けに行くための方便のつもりだった。でも、こうして一歩外に出てみると、あまりにも新鮮なその感覚に、自分の心のどこかがひとりでに踊り出すのがわかった。
踊り出したついでに、この心の不安も打ち消してくれればよかったんだけど、とルナリアは思った。
ユーリに教えてもらった通り、曲がり角を曲がっていく。昼間は人が多いのであろう広場を横切り、大きな道へ入る。大きな道を折れると少し小さな道が続き、両側の家々がさらに自分の近くへにじり寄ってくる。
アーテミシア通りへと折れた。今まで通ってきた通りと全く同じ、静まり返った空気が満ちていた。
…………いや、違う。静けさの向こう側に、確実に、何か違うところがある。たくさんの人が仮面をかぶって踊っている。自分も誰かと一緒に踊っている。踊り終わる。相手はおもむろに仮面を取る。…………彼は怪物の顔をしていた……。そんなことを、ふと考えてしまった。
ルナリアは息を一つ吸って、一歩踏み出した。細かな雨粒が煙って、霧がかかった様に視界が遮られている。ただただ足を前へと進める。
と、雨の煙幕に、黒い影が揺れているのに気がついた。体がこわばるのが解る。
誰かきた。
とっさにフードをぎゅっと顔まで下げ、体を少し斜めにして、顔を隠そうとした。できるだけ早くすれ違ってしまおうと、歩みを早める。
黒い影はだんだん大きくなってきた。大きくなると同時に、だんだんと輪郭がはっきりしてきた。影は男。しかも、少し小太りだ。私の知ってるあの人も、少し太り気味だったな、と思い出す。
影とルナリアは互いに近づいていった。彼我の距離が近づいていき、二つの影が重なる。フードを握る手に力を込める。
ルナリアは、はっ、と息を吸った。
やつは顔を隠していた。大きな布で顔を隠しているのだ。……後ろ暗いやつに違い無い。背格好が、やっぱり自分の知ってるあの人に知っていた。あの人が後ろでこそこそやっていたことを、私は誰よりも知っている。
なにより。
彼は、血に濡れたナイフを握っていた。飛沫の様に銀色の鋼の表面についた血が、黒光りしていた。
心が急に騒がしくなった。急げ、急げ、急げ。何かに自分は間に合おうとしている。意識はしていなかったが、自分のこの不安は、手遅れになるやならずや、そんな時に感じる不安なのだ。
ルナリアの歩みはさらに早くなった。早くなって、やがて、ルナリアは走り始めた。びちゃびちゃと水たまりを踏み抜き、ルナリアは通りを駆けた。アーテミシア通りから別れる路地は、ただでさえ暗いこの通りの何倍も暗い。駆けながら、目の端を通り過ぎていく闇を素早く追っていく。
と、一つの路地が目の端を通り過ぎた。ただの闇だ。でも、何かが違う。闇は何かおぞましいものを孕んでいた。
足を止めたく無い。止めてしまえば、見たく無いものを見る事になってしまう。不安が現実に異形の怪物として現れて、自分に襲いかかってくるんだろう。
でも、足を止めないわけにはいかなかった。
自分は彼を背負って帰らなければならない。
彼にとっては馴染みの無いあの汚らしい部屋であろうと、私にはあそこに彼を連れて帰る義務がある。
過ぎ去った路地へ、取って返す。暗闇に一歩踏み出し、もう一歩踏み出した。
「…………っ」
ルナリアは短く息を吸い込んだ。
つん、と鉄の匂いがする。目が暗闇に慣れてくる。水たまりに雨粒が飛び込んで、美しい円形の波紋を広げるのが見えた。
そして、見たく無いものが目に飛び込んでくる。黒い影が横たわり、どうやら嫌な臭いはそこから漂ってきている様だった。目を逸らしたい。でも、逸らしてはならない。目をそらすとは逃げる事だ。罪を背負った自分が逃げるなんて事は許されない。闇の中へもう一歩、ルナリアは踏み出した。
石畳の上に倒れ込んだ、アキラがいた。




