13:君とは会いたくなかった
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階下が寝静まった。
屋根の上から恐る恐る下を見下ろすと、さっきまでガラス窓を照らしていたランプの温かい橙色は、今は深い紺色に変わっている。
いや、まだか? アキラは決めかけた腹をまた保留した。
ユーリによると、この前の相手と違い、今日の相手はこの街における普通の家族と同じ様に、家族全員が一つの部屋で寝ているという。横並びに何人かが寝ているのではなく、まるで人間を入れる棚の様に、ベッドが二段になっているという。窓から入って右手の、上の段が目標の機械傀儡らしい。間違えたら事だ。もう一度頭の中で確認する。
と、その時、ポツリと顔に雫が当たった。ふと見上げると、頭上の天は濃いねずみ色の
雲で覆われて、藍色の空は一片も顔を出していなかった。どうりで雨粒が落っこちてくるはずだ。
あれよあれよと言う間に、外套に跳ねる水滴の音は間隔が詰まっていき、やがて、一つながりの、ざー、という音になった。
耳を聾さんばかりの、ざらりとした雨音だ。
「ったく、ついてねえなあ」
アキラは悪態を吐くと、ええい、と腹を決めて、屋根の縁に手を掛けた。滑らないように、指先の感覚を研ぎ澄ます。身体中に魔法の樹から流れ出る魔力を感じて、それを筋肉へと送る。
は、とリズムをとって、アキラはひとつの窓枠に取り付いた。泥の塗って作られた壁から、窓枠の木が巧い具合に飛び出していたのだ。
そのまま窓を揺すろうとして、アキラは、すでに窓が開け放たれていた事に気がついた。ゆらりゆらりと揺れてる窓に触れないように、アキラは建物の中へと入り込む。
アキラが取り付いたのはただの物置の窓だったようで、寝室は他にあるようだった。埃が乗った古い床板をできるだけ軋ませないように、鳴かせないように、足音を忍ばせながら部屋を奥へと進んで行く。
廊下につながっているのであろう扉を押し開けようと、アキラが取っ手に手を掛けた、その時だった。
「きゃーっ‼︎‼︎ 泥棒!」
廊下を挟んだ向こうからだろう、女の人の金切り声が聞こえた。と、瞬時に扉の向こうが騒がしくなる。
自分が侵入した事がバレたのか、とアキラは一瞬身構えた。しかし、この部屋を見ている人間など、誰もいないはずだ。アキラは息を潜め、物置の何が入っているかもわからない箱の影に身を隠した。
重そうな足音が、どたどたと床を踏む音がする。しかし、もう一つの足音が止まると同時に、その重そうな足音も止まった。
「そいつ、サルビアのベッドにいたの!」
さっきの女の声だ。
「…………てめえ、まさか、怪盗ソキウスだな」
今度は若い男の声だ。ドスを効かせた声だったが、その言葉に答える声はなかった。代わりに、金切り声の女の絶望で塗り固められた声がする。
「サルビア、起きて! ねえ、起きて! 起きてよっ! 起きてってばッ‼︎‼︎」
そして、声は泣き声に変わった。
アキラは、扉の向こうを想像した。男が一人、女が一人、サルビアという女の子がひとり。そして…………。
ほんものの、怪盗ソキウスが、一人。
寒気がした。鳥肌がブツブツとたった。正体の知れない緊張感が、血を沸き立たせ、腸を踊らせる。しゃがんでいるのが耐えられなくて、意味もなく立ち上がる。でも、むずむずするような緊張感は消えてはくれない。身体中の筋肉がこわばって、でも、誰かが心臓を鐘のようにどんどんと打ち鳴らす。
どうにかこうにか、わけのわからない焦りを耐えながら、アキラは扉の向こうで起こってることへ、意識を研ぎ澄ませた。
にらみ合いが続いているのだろう。ドアの向こうからはなんの動きも伝わってこなかった。でも、こういう事に慣れていないアキラだって、知っていることくらいある。
にらみ合いの均衡は、いつか必ず破られるものなのだ。
そして、その時は案外早くやって来た。
「この野郎ッ‼︎‼︎」
若い男の声がして、もつれるように幾つかの足音が重なった。床板が派手にきしみ、この家全体が大きな楽器のように、きしきしと激しい音を出す。
と、階下にいた誰かが、慌てたような足音で階段を上ってくる音も聞こえてきた。
アキラのうなじに、嫌な粘っこい汗が流れた。
自分も、一歩間違えば、扉の向こうの人間と立場は交換していたかもしれないのだ。自分がそうでない事に安堵感を覚えるより、もしものこうだったら、を考えてしまって、嫌な汗は一向に止まらない。
手にも汗が流れる。ぬるぬるする手を、埃っぽい床で拭った。
「騒がしいけど、どうかしたの?」
年老いた女の声だ。
「何が起きたっ?!」
こちらは年老いた男の声だ。足音が増えるたび、アキラの心臓の音は、早く、大きくなる。
帰ろうか、とアキラは思い始めた。このままこの場に背を向けて、屋根に上って、あのアジトへ帰るのも、合理的な選択であるような気もした。
が、それは許されなかった。
重いものが二つ、床へ倒れこむ音がした。もみ合う音が聞こえる。そして、それを覆い隠すような、男の声とも女の声ともつかない、悲鳴のような音。ごろごろと重そうで、それでいて乾いた音が続き、やがて、どちらかが立ち上がった。
一目散にこちらへ近づいてくるのだ。
まずい、と思った。自分がここにいるとばれる事が、ではない。ほんものの怪盗ソキウスを追わないと、とアキラは思った。ほんものの怪盗ソキウスを追わないと、自分まで悪者にされてしまう。
それじゃあ、わざわざ面倒な思いまでして、ユーリの元にいる理由がなくなってしまう。
つまり、さっきこの物置の窓が開け放してあったのは、怪盗ソキウスが自分より前に入り込んでいたからなのだろう。なら、帰る時もこの部屋を通るのは当たり前と言えば当たり前だ。
アキラは一層腰を低くした。どたどた言う足音が、向こうの部屋から、この部屋へ向かってくる。
この扉が開け放たれた時、自分も飛び出すのだ。そして、奴を取り押さえ、魂玉を奪う。
息を整える。足音が近く。あと三歩、あと二歩、あと一歩。
乱暴に扉が開け放たれた。
今だ!
足のバネを解放する。魔力をふくらはぎと腿につぎ込む。体がいきなり引っ張られるように、窓へ向かって飛び出していった。窓にたどり着く前に、目の前の黒い影に追いついた。影は振り向いた。目があったきがする。でも、暗い物置の中で、詳しい相貌は全くわからない。
そのまま、床板を強く蹴った。怪盗ソキウスの体は重かった。目をつぶり、歯を食いしばり、魔力を限界まで注ぎ込んで、雨降り注ぐ窓の外へ飛び込む。
ふっ、と体が浮かび上がったような気がした。水の中に飛び込んだような、どこか不安な浮遊感。一緒にもつれ合って窓から落っこちる。
相手が普通の人間なら、それだけで大怪我だ。
相手が魔術を操るなら、怪我一つしないだろう。ならそれはそれで、勝負は地面でつければいい。
とにかく、魔法の樹を絞る。体を固める。魔力で体を硬くし、来る衝撃に備える。
地面が恐ろしい勢いで近づいてきた。暗い谷の底のような通りが近づいて、石畳のひとつひとつの目がはっきりと見えるようになって。
ごつ、と変な音がした。
アキラは怪盗ソキウスを下敷きにして地面に倒れ込んでいた。今まで体のいたるところに詰まっていた魔力が、血の中に溶けて流れ出るのがわかった。初めて、体の上に大粒の雨が降り注いでいるのを感じた。ぱちぱちと外套の上で弾ける雨粒は、痛いくらいだった。
…………魂玉は?
アキラは目の前に倒れている男を見た。腰に下げているのはナイフの鞘だけだ。かばんのようなものは持っていない。
握り込まれた拳を無理やり広げると、やっぱり、少し湿った真紅の石が握り込まれていた。これさえ持って帰れば、もう今日の仕事は終わりだ。誰も自分の正体に気づいていないし、この家の人間でさえ、怪盗ソキウスは目の前の男だと正しく認識している。
が、次の瞬間、体が思いっきり左側に吹っ飛ばされる感覚を覚えた。右から殴られたのか、左から殴られたのか解らない。一瞬遅れて、右から殴られたのだと気づいた。
頭から水たまりに突っ込む。じゃりじゃりと砂の混じった水が口に入って、すごく不味い。
「おい小僧、ふざけた真似しやがって」
服をはたきながら、目の前でさっきまで倒れていた男は立ち上がった。顔は大きな布で隠されていてよく解らない。が、解ることは、やはり、この男は魔術を操る者だったのだ、ということだ。
アキラは外套のフードを被った。自分より高いところにある相手の顔を、睨み上げる。
「迷いもせずにこれを盗もうってことは、これがなんだか解ってるってことだな?」
答えない。答えるはずがないじゃないか。
目の前の男の目が醜悪に歪んだ気がした。口元だって、見るもおぞましいくらいに気持ち悪く歪んでいるに違いない。
唸りを上げて、男の腕が振るわれた。アキラは身を低くして交わす。と、何が起きたのかも解らないまま、ただ衝撃だけが腹に突き刺さった。足が浮き上がって、遅れて痛みがやってくる。
内臓が反転した、ような気がした。体がぺっちゃんこになったような、そんな風に思えた。姿勢を低くしたところを、膝で蹴り上げられたのだ。
「えほっ、げほっ、っおえぇっ」
アキラは地面にうずくまって、吐いた。内臓を絞られるような感覚だった。雨に濡れてぬらぬらと光っていた石畳に、異質なぬらぬらが広がっていく。
男は相変わらず凶悪な笑みを浮かべて、アキラを見下ろしていた。
「てめえか、こそこそ嗅ぎ回ってたのは」
ドスを聞かせた声だった。さっきの若い男とは比べ物にならないほど、腹に響く声だ。地面を揺るがすような、いや、声だけでアキラの体を地面に張り付かせようとするような声だ。今ここで謝るだけ謝って、脱兎のごとく逃げてしまったらどんなに楽だろう、と思う。
本当は無理なのだ。まだ腸が震えている。足に力が入らない。こんなところにいるのが、この世界にうじゃうじゃいる人間の中で、たまたま自分だったという、それだけの理不尽にやり場の無い怒りを覚えた。唾を吐き掛けたくたって、そんな力すら出てこない。
無い力をかき集めて、やっとの事で言葉を編み上げる。
「お前が…………、怪盗ソキウス………………、なのか……?」
怪盗ソキウスには、あれもこれも、山ほど言ってやりたいことがある。いまはただ、その元気が無いだけだ。




