8:思い出って、なに?
◇
ルナリアは眠れなかった。ベッドのから見える水瓶の隣の作業台で、ユーリが何かをゴソゴソとしていたのもそうだが、何より、すぐ隣にアキラが寝ているからだった。
よく考えてみれば、小さい頃から誰かと一緒に横になって寝る、という事はあまりなかった。小さい頃から寝室が与えられていた彼女が眠るとき、大抵は召使が横についているだけだった。
だから今、ルナリアの体は、風邪でもひいたかの様に熱い。どうしても落ち着かない。心臓の音はさすがに聞こえないが、それでも、盛んに身体中が熱を発している事がわかった。なのに、隣のアキラの体温は、空気を伝わっていやというほど感じられる。
でも、全く嫌じゃない。嫌ではないけれど、訳の解らない落ち着かなさが、身体中をムズムズとくすぐるのだ。
眠れない! こんなんじゃ、夜が明けてしまう!
ルナリアは、重たくなって来た体を起こし、すでに寝息を立てているアキラを眠りから醒さないように、静かにベッドから降りた。
と、暗い足元で、何かを足が蹴っ飛ばした。軽い音を立てて鍋のようなものが飛んでいく。その音に気づいたユーリが、ゆっくりと振り向いた。口元にボロ布を巻き、作業台の上では何やら型のようなものと、その隣には今朝も見た鍋があった。
「あれ、ルー。起きてたんだ」
「ええ、なんだか眠れなくて」
「アキラはぐーすか寝てるんだ」
「だって、あれだけ大変な仕事をしたんですから」
「ま、そうだね。慣れれば、なんてことはないんだけどね」
慣れちゃ困るけど、とユーリは呟いてから、ルナリアのいなくなったベッドを見て、ふふ、と笑った。
「なんでも知ってますみたいな落ち着き方してるくせに、案外初心なんだね」
ルナリアはしばらくユーリの言葉の意味を計りかねていたが、やがてすぐにその言葉の意味に気づいた。
「そんなんじゃなくって、その…………。あ、ユーリ。あなたの点けてるランプが眩しくて」
「そう? ごめん」
「それと」
「何?」
「私は何も知りません。知ってると思ってて、知らない事があった。だから私はあなたに攫われたんですよ? 忘れたとは言わせません」
「あー、ほんとあんた、そういうところ細かいよね」
ユーリがやだやだ、というと、ルナリアはふくれっ面をして見せた。
「細かくないですよーだ」
「あーら、可愛い」
「可愛くないですよーだ」
ユーリは彼女をいなすように答えると、また作業台に向いた。彼女の作業を、ルナリアはテーブルについて眺めることにした。
手袋を嵌めて、鍋から器用に型に金属を流し込み、型に全部流し込むと慣れた手つきで型を隣の棚に入れ、代わりに作業台の端にあった別の鍋を取り出す。足元の袋から一つかみ、二つかみ、三つかみの小石を取り出し、鍋に入れる。鍋の取っ手を、あの例の火の入った器の上に渡してある棒に引っ掛け、ちょうど火の上に鍋がぶら下がるような形にして、温める。ユーリはそこへ何か特別そうな液体を流し込むと、今度は鍋から目を離し、作業台の上で何かを削り始めた。
もう、何年も前からやっているのだろう。ルナリアに一つ一つの作業の意味は解らなかったが、ユーリがその作業に慣れている事は解った。
ルナリアは、自分がユーリの手つきにぼうっと見入っていた事に気づいた。
「あ、そういえば、ルー」
だから、ユーリの言葉に、ルナリアの答えは一瞬出遅れた。
「えっと、何?」
「アキラに、あんたがなんで私と一緒にいるのか、言った?」
「言ってません」
「そう」
ユーリはそっけない返事をした。ルナリアはそのまま、この話は終わりになるものだと思った。
違った。
「教えておいたほうが、私は良いと思うけどね」
「なんで?」
思っても見ないユーリの言葉に、ルナリアの言葉は気付かぬうちに真面目な色に染まっていた。
ルナリアは、月明かりに照らされたユーリの横顔を見た。整った顔立ちに、同性の自分でさえも、うっとりしてしまうくらいだ。凛々しい表情も、良い。
けれど、自分はその横顔に、ひどく偉そうな言葉を投げかけている。夜だから、と、自分に言い訳をした。
「聞かせて」
「私もなんで自分がそんな事言ってるのか、全く解らないんだけどね」
ユーリはそう言って目を細めた。ルナリアはつられて笑顔を見せそうになって、思いとどまった。自分が笑顔を見せて良い時じゃない。
ユーリは口元の布を外して、手から手袋を外した。細めた目で、眩しそうに外の景色を見やった。思い出話をするように、ぽつぽつと言葉を放り出した。
「もし、本当に、もしもの話だよ。もしもいま、突然の別れが訪れたとして、さ。ルーとアキラが、もうこれから、ずっと、永遠に会う事はない、って事になった時、あなたはアキラを忘れられる?」
「忘れられないと思います」
「でしょ? 突然の別れがやってきても、あなたは多分この日々のことを、いつまでも、色鮮やかに思い出せると思う。そうでなきゃ、私に黙って攫われていないもんね。
でも、アキラはどう?」
「…………、アキラも、忘れないと、思います」
「そう。案外、人間ってものを覚えてるものなの。でも、覚えてることのほとんどが思い出。解るかなあ」
ルナリアはしばらく考え込んで、首を振った。思い出とそれ以外の記憶の違いが解らなかった。
「アキラの人生にとって、この二日は、訳も分からず巻き込まれた事件みたいなものなの。平穏な人生に突然降ってきた雨の日みたいなもの、って言っても良いかな。これから、アキラが大人になって、家業を継ぐかどこかで働くかして、誰かと結婚して、子供ができて、昔のことを話してってせがまれて、ああ、こんなことがあったなあ、って言って思い出す。
決して、その時のアキラを動かす力を持っていない。アキラが手を伸ばそうとした時だけ、手の届くところに現れる、幻。
それが思い出」
ユーリは、ふう、と息を吐いた。そして、残りの一つかみの言葉を、空気の中へとこぼす。
「ルーがそれを望むなら、私は無理強いしないけどね、教えること」
「教えれば!」
ルナリアは正体の解らない恐ろしさを覚えていた。記憶の中にいても、自分は幻となってしまう。存在し続けるのでも、消えてしまうのでもない。あるかもしれない、ないかもしれない自分が、アキラの心の中で、ずっと、思い出してくれるのを待ち続けるだけなのだ。
恐ろしさは焦りを生んだ。焦りが、ルナリアの心を駆り立て、それが声に顔を出した。
「教えれば、私は思い出にならないで済むんですか?」
「それは、なんとも言えないね」
ユーリの目は、相変わらず窓の外だ。それはルナリアの視線から逃げているのか、それとも、窓の外を見ていると言葉が紡げるのか。ルナリアには解らなかった。
「でも、アキラは私たちに巻き込まれただけ。それも、この上なく理不尽な形で、ね。私たちと離れたがってるのは、まあ、確実だね」
「でも、でも……」
「ま、そう信じたくなる気持ち、解らないでも無いけど」
ユーリは目を閉じ、そっと首を振った。
「ま、打ち明けなかったら、世界は広がって、でも、ルーの足は一歩も世界へ踏み出せないまま、だね。
広い世界があって、その真ん中にひとりぼっち、だ」
「それは…………、嫌です」
「そ」
ユーリはそっけなく返事をすると、また口に布を巻いた。手にさじを持って、鍋の上の方の液体を掬って、別の器に移し始めた。手を止めず、振り向かず、ユーリは言う。
「ま、話はそれだけ。早いところ寝ないと体に障るよ」
「解りました」
ルナリアも短く返事をした。小さな笑顔を作って、ユーリに声をかける。
「こんどこそ、おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
ルナリアはまた、ベッドに横たわった。
思い出になりたく無い。そればかりが、頭をぐるぐる回って、今はまだその答えは得られないみたいだった。




