1:正義へ逃げよ
◆
ついてきて、とユーリは言った。アキラは素直にそれに従った。
セレーネ商会の外は、騒ぎになっていた。商会の中に積んであった空箱に火がつけられたらしく、黒く焦げた木の板が何枚も見える。もうだいぶ火は小さくなっているようだが、それでも真っ赤な火は煌々と夜の通りを照らしている。火に照らされながら火消しをしている者たちの顔は、一人残らず必死な表情だった。
石や土が塗ってあるとはいえ、木組みの家の集まる場所である。燃え広がれば大惨事だ。
そんな騒ぎの中だから、ユーリとアキラの二人は、簡単にセレーネ商会の裏口から抜け出す事が出来た。有事の際、主人が逃げるための出入り口だ、とユーリは物知り顔で言った。
そのまま、ユーリは壁のわずかな凹凸を使って、ひょいひょいと屋根へ登って行ってしまった。アキラはぼうっと彼女を見上げながら、ただ置いていかれるだけだった。
うそだろ。
「おい、そんなところ登れねえよ」
「え? なっさけないわね。こんな壁の一つや二つぐらい、登れなくてどーすんの? 魔術師なんでしょ?」
「いや、そうだけどさ…………」
魔術を使えば、確かに筋肉の出せる力を上げたり、自分の感覚をさらに研ぎ澄ませたりもできる。しかし、だ。いきなり馴れない事をするのは、やっぱり躊躇する。
この壁を登るのだ、と思って見上げれば、壁はどんどんつるつるに見えてくる。とっかかりらしきとっかかりも見当たらない。
「案外やってみればいけるもんだから。さっさと登りなさいよ」
「…………解ったよ」
アキラは目を瞑った。体の真ん中の『魔力の樹』に意識を集中させる。『魔力の樹』の発する魔力が、血管を伝って身体中に行き渡る。足にも、腕にも、指先にも。
よし。
アキラは手を手近な窓枠に掛けた。そのまま腕を引いて次は木骨が少し飛び出たところに指をかける。
いける。登れるぞ。
「おい! 誰だ!」
「まっずいなあ、見つかっちゃった」
男の怒声が背後から、ユーリのおどけた声が頭上から聞こえた。アキラは次へと伸ばしていた腕を一瞬引っ込めかけた。
が、ユーリの声はそれを許さなかった。
「逃げるよ。早く!」
言うが早いが、彼女は屋根の縁に手をかけ、腕一本で屋根からぶら下がった。普通の女の子なら、絶対にこんな事は出来ないだろう、とアキラは思う。
ユーリはその姿勢のまま、まだ二階くらいの高さで止まっているアキラに、手を差し伸べた。
救いの手が降りてきたように思えた。
「早く! 掴まって!」
「掴まって大丈夫なのか?」
「良いから! 早く!」
一転して真面目になったユーリの声を聞いて、アキラは迷わず、こちらへと差し伸べられている手を掴んだ。
柔らかい手のひらが、アキラの手をしっかりと握った。
「ちゃんと握っててね!」
ユーリはそう言うと、ぐいっ、とアキラの手を引っ張った。肩が抜けそうな感じがして、必死に力を入れる。
ユーリはそのまま、アキラの手を屋根の上へと載っけた。アキラは屋根の縁を掴む。力を込めて、そのまま体を屋根の上へと引っ張り上げた。ごつごつした瓦の感触を足の下で確かめていると、にょきっ、とユーリの姿も屋根の上に現れた。
「さ、行こうか」
ユーリの目がアキラの目を確かめている。怯えてもいない。油断している分けでもない。逃げ果せる、という自信だけが満ちている瞳だった。
「ああ、行こう」
アキラは小さくうなずき、答えた。
ユーリの膝が沈み、二人は瓦を蹴った。
屋根伝いに逃げれば、簡単には追いつかれないだろう。




