閑話「セレナ・ミレイユ」
今回は、セレナの視点で彼女の過去をたどる閑話です。
本編を読み進めるうえで必須ではありませんが、彼女のことをもう少し知りたいと思ってくださった方に、楽しんでいただければ嬉しいです。
夜、父さんの寝室へ行くと、枕元のコップは空になっていた。
寝る前に薬を飲むところは、私も見ていた。昼間はあれほどよく動いていた口も、今は閉じている。
寝息は穏やかだった。
私は椅子を引き、ベッドの横に座った。
今日は、よく喋っていた。
レインの話を聞いて、私の昔の話をして、二人で笑って。
蕪のことまで話す必要はなかったと思う。
あの子は、しばらく忘れないだろう。明日の授業でこちらの顔を見て笑ったら、何を思い出したのか、聞かなくても分かる。
掛け布団から出ていた父さんの手を、中へ戻そうとした。
指が、私の手に触れる。
昔は、もっと大きく見えた手だった。
本を持つ私の手の上から、ページを押さえてくれたことがある。破れかけた紙を、そんなに急いで捲ってはいけないと言って。
私が続きを読みたがるので、父さんの方が先に笑ってしまった。
どのページだったかも、覚えている。
文字を読むことは、もうできた。
けれど、そこに書かれている魔法のことは、まだ、ほとんど分からなかった頃だ。
*
私が生まれたのは、アストリア領近郊の貧民街だった。
母さんは、私を産んだ時に亡くなった。
だから、覚えている家族は、最初から父さん一人だ。
家は狭く、雨が続くと、屋根の同じところから水が落ちた。
父さんが直しても、次の雨には別のところが漏る。鍋を置く場所が変わるだけだと言ったら、直さないよりいいだろうと返された。
それは、確かにそうだった。
父さんは農作業の手伝いをしていた。
魔法の才能はほとんどなく、身体も丈夫ではなかった。それでも、少しでも仕事を増やそうとして、得意でもない魔法を使っていた。
帰ってきてから、しばらく椅子を離れない日があった。
咳が出始めたのも、その頃だったと思う。
近所の人たちは、私が魔導書を読んでいると、よく声を掛けてきた。
「お父さんも、魔法は得意じゃないだろう」
「そんなものより、ほかに覚えることがあるんじゃないか」
嫌いだった。
父さんのことを知っていても、私が何をできるかは知らないはずだ。
そもそも、読んでいる途中なのだから、話しかけないでほしかった。
そのまま言うと、可愛げのない子だと言われた。
可愛げがあれば、この本の続きを読めるのか。
そう聞くと、もっと怒られた。
どうも、答えてはいけない質問というものがあるらしい。
面倒だったので、あまり話さなくなった。
代わりに、父さんが昔買ったという魔導書を読んだ。
表紙は擦り切れ、何度も開かれたところだけ、綴じ目が緩くなっていた。
文字を覚えたからといって、全部が分かるわけではない。
知らない言葉がある。
その言葉を説明しているところへ戻ると、また別の分からない言葉が出てくる。
腹が立つくらい、先へ進まなかった。
それでも、一つ分かると、さっき読んだところの意味が変わった。
なるほど。ここは、そういうことだったのか。
もう一度読む。
今度は、その先まで繋がる。
父さんに食事だと呼ばれても、あと少しだけと言っていた。
「その少しは、どこまでかな」
「このページの終わりまで」
「さっきも、そう言ったね」
「今は、違うページです」
父さんは困った顔をしてから、私の隣へ椅子を寄せた。
どこが面白いのかと聞かれ、説明すると、途中で首を傾げた。
「私には、少し難しいな」
「ここからなら分かりますか」
前のページを開いた。
父さんは、急いで捲った私の手に、自分の手を重ねた。
「破れるよ」
そう言って、一緒に紙の端を持った。
あのページだ。
欄外まで文字が詰まっていて、下に小さな術式図が載っていた。
読み終わると、試したくなった。
書いてある通りに動かせば、本当に、魔法になるのだろうか。
身体が育つまで、子供は魔法を使ってはいけない。
そういう決まりがあることは知っていた。父さんにも、まだ早いと止められた。
ただ、私の住んでいた辺りでは、決まりの通りに暮らしている家ばかりではなかった。
大人の手伝いをしながら、見よう見まねで魔法を使う子もいた。仕事へ出た親が、一日中そばについていられるわけでもない。
私も、父さんのいない時に、家の裏で本を開いた。
小さな風を起こそうとした。
詠唱を最後まで口にしても、足元の草は動かなかった。
もう一度、読む。
魔力を外へ出せば、それでいいわけではない。どこで、何をさせるのか。書かれている順に、一つずつ確かめた。
次には、草の先が少しだけ揺れた。
風が吹いただけかもしれない。
やめると、止まる。
もう一度試すと、同じところが動く。
私が、動かしていた。
嬉しくなって、父さんに話した。
止められていたことは、その時には頭から抜けていた。
父さんは私の話を聞くと、まず手を取った。
「痛いところはないか」
「ありません」
「気分は?」
「悪くないです。父さん、それより、草が」
「それは分かった。でも、まだ一人でやってはいけないよ」
叱られた。
上手にできたのに、と不満だった。
今なら、最初に手を取った理由も分かる。
それでも、私は本を読むのをやめなかったし、やがて練習の方も続けるようになった。
うまくいかなければ、本へ戻る。
書かれた通りにできたら、なぜそれでうまくいくのか考える。
同じことを何度も試しているうちに、昨日より細かい違いが分かった。
褒める人がいなくても、面白かった。
草の先が揺れたことを、私はちゃんと知っていた。
*
六歳の魔力量測定で、測定器の上限を超えた。
係の人が器具を調べ直してから、もう一度測った。
結果は変わらなかった。
それから、周りの呼び方が変わった。
天才だという。
少し前まで、父親に才能がないのだからと言っていた人まで。
測定器一つで、ずいぶん忙しいことだと思った。
父さんは、結果を聞いて驚いていた。
それから、帰り道で、何か欲しいものはあるかと聞いた。
「本」
「どんな本だい」
「まだ読んでいないものです」
「それは、どうやって見分ければいいのかな」
私は少し考えた。
確かに、私が読んだ本を相手が知っているわけではない。
「……一緒に選んでもいいですか」
測定の記録には、上限を超えたことと、再検査が必要だということが残された。
すぐに帝都へ連れていかれたり、家いっぱいの本が届いたりはしなかった。
その測定器では、私にどこまで魔力量があるか、正確には分からなかった。進路を考える頃に、改めて調べると言われた。
私はそれまでと同じように、本を探し、読んで、試していた。
父さんの本を読み終えたら、借りられるものを探した。
役所の小さな書庫にも通った。
本棚の前で、まだ読んでいない背表紙を見つけるのが好きだった。
学院の紀要には、古い魔導書には載っていない話がある。
途中までしか分からない論文も、捨て置く気にはならなかった。
その先を理解するための本が、どこかにあるはずだった。
十歳の再検査へ来たのが、オスカー・クロイスさんだった。
当時はアストリア家の領地行政に携わっていて、帝都魔法学院で学んだ人でもあった。
測定のために用意された机へ、筆記具と器具を、順に並べていった。
「まずは、こちらから参りましょう」
言われた通りに、魔力を出す。
少しずつ量を増やす。
オスカーさんは、器具と記録を交互に見た。
「十歳で、この量ですか」
「多いんですか」
「ええ。学院で学ぶ学生と比べても、十分に多いと言えます」
それは、少し嬉しかった。
学院の学生が、毎日どんな本を読んでいるのかも気になった。
次は、机に並べられた金属輪を使った。
輪の中へ魔力を通す。
縁には触れないように。
量を半分にする。
三つに分けて、それぞれ違う速さで動かす。
注文が細かくなるにつれ、オスカーさんの筆が止まることが増えた。
待っている間も、魔力は指示された位置に留めておいた。
「次は?」
「……少々、お待ちいただけますかな」
さっきも、同じことを言われた。
「何か、間違っていますか」
「いいえ。誤差がほとんどないので、驚いているのです」
「言われた通りにしただけですが」
「それを、この精度で続けるのが難しいのですよ」
そういうものらしかった。
オスカーさんは、どこで習ったのかと聞いた。
本だと答えると、誰かに教えてもらったことはないのかと、もう一度聞かれた。
そのうち、私は別のことが気になり始めた。
この人の名前は、読んだことがある。
役所の書庫にあった、学院の紀要だ。
「あの。オスカーさんの論文を読んだことがあります」
筆先が止まった。
「私の、ですか」
「水系術式の効率化について書かれていましたよね」
「……ええ。学院にいた頃のものです」
「あれは、もう直したんですか」
今度は、こちらを見た。
「どこのことでしょう」
紙を一枚、借りた。
覚えている術式を書き、二か所に印をつける。
「ここから、二つに分けています。でも、この先まで、同じ処理をしていますよね」
「その後に、別の制御を行うためです」
「それは分かります。だから、分けるところを、こっちへ移せばいいと思うんです」
線を引き直した。
先に枝分かれさせて、それぞれ同じことをしている。
共通のところを一度で済ませ、必要になってから分けた方が、短くなる。
オスカーさんは紙を引き寄せた。
すぐには頷かなかった。
私の書いた箇所から順に辿り、元の術式へ戻り、また見比べる。
「この部分を共有すると、後の出力を変えた時に、もう一方へ影響しませんか」
「分けた後の、この制御は残します。削るのは、その前だけです」
指で示した。
もう一度、術式を辿る。
今度は二人とも黙っていた。
やがて、オスカーさんが、ほう、と息を漏らした。
その声を聞いて、私は少し身を乗り出した。
「こっちの方が、いいと思いませんか」
「……試してみる価値は、十分にありますな」
いい人だと思った。
子供が口を挟むなとも、そんなことよりほかに覚えることがあるだろうとも言わなかった。
私の書いたものを、最後まで見てくれた。
オスカーさんは鞄から、別の紙を取り出した。
今も、自分で研究を続けているのだという。
既存の術式を改良しようとしているが、思うほど効率が上がらないらしかった。
「こちらも、見ていただけますか」
紙には、何度も書き直した跡があった。
端に小さな字で、試した時の条件が並んでいる。
順番に読んでいく。
これは、さっきより面白かった。
「ここの制御、前にもありませんか」
「安定させるために、もう一度入れてあります」
「その前の処理で、同じ範囲を保っています。これだと、二つが同じところを直そうとするので」
紙の上に指を置いた。
削ってよい箇所と、残す必要のある箇所を分ける。
魔力を増やして押さえつけても、ここの手間は減らない。
先に、役割の重なりを解いた方がいい。
「似た形を、本で読みました」
「どの本ですかな」
書名を答えた。
二百七十三ページ。
右下にある術式図の、その一つ前の段落だ。
オスカーさんは、少し考えた。
「その本なら、ここにもあったはずです」
書庫から持ってきた本を、机に置く。
私が手を伸ばす前に、オスカーさんは本を持ち上げ、自分の方に向けてページを開いた。
「二百七十三、でしたな」
「はい。説明は、下から四行目です。図の左側に、同じ制御があります」
ページを見なくても、分かった。
図の位置も、文字の並びも、そのまま頭の中にあった。
説明を口にすると、オスカーさんの指が、開いたページをなぞった。
途中で止まり、私を見る。
「今、この本は見えていませんね」
「裏表紙なら見えています」
「そうではなく……。読んだページを、そのまま覚えているのですか」
「はい」
そこで驚かれるとは、思わなかった。
「一度読んだものでも?」
「覚えています。意味が分からなかったところも」
分からない言葉があるのと、その言葉を忘れるのとは、別のことだ。
あとで意味を知れば、前に読んだページへ戻って考えられる。
本を返してからも、それはできる。
「普通は、そうではありませんよ」
私は、オスカーさんを見た。
「そうなんですか」
「ええ」
「では、借りた本を返したら、どうするんですか」
「必要なら、また借りるのです」
それは不便だ。
そう言うと、オスカーさんは笑った。
結局、再検査が終わる頃には、机の上が紙で埋まっていた。
オスカーさんが持ってきた術式と、私が書き直した術式。
試すなら、何を比べればよいかという話までした。
途中から、魔力量の話は、ほとんどしていなかった。
*
その後、私のところへ、メルヴィン公爵家の使者が来た。
オスカーさんの報告をきっかけに、進学の支援を受けられることになったのだ。
学費。
教材と魔導書。
帝都までの旅費。
学院の特例選抜を受けるための手続き。
使者が一つずつ説明する横で、父さんは何度も頭を下げていた。
私は、用意してもらえる本について聞いた。
父さんが、私の袖を引いた。
「まずは、お礼を」
「ありがとうございます。それで、本は」
使者は、そこで少し笑った。
メルヴィン家は、行政に強い公爵家だった。
地方で見つかった才能を、必要な場所へ送り出す。進学する金のない子供へ手を貸すことも、その一つだった。
今なら、それが家の実績にも、人との繋がりにもなると分かる。
支援した相手が、将来どこで何をするのか。そういうことを考えずに出している金ではなかったのだろう。
でも、それで本が読めなくなるわけではない。
私一人では用意できなかったものを、彼らが用意してくれた。
そのことまで、なかったことにはできない。
届いた本は、まだ背が硬かった。
開くと、紙の端が揃っていた。
借り物ではない。読み終える日を気にしなくてもいい。
父さんに、そんなに一度に開くなと言われながら、机の上へ並べた。
学院には、もっとあるという。
読んだ論文を書いた本人もいる。
どうしてこうしたのかと聞けば、答えが返ってくるかもしれない。
行きたかった。
だからこそ、父さんの顔を見ると、何も言えなくなった。
十二歳で受ける選抜が近づいた頃、ある晩、父さんの咳が長く続いた。
水を持っていくと、もう大丈夫だと言われた。
その言葉を、私はあまり信用していなかった。
「学院は、まだ行かなくてもいいと思うんです」
父さんはコップを持ったまま、私を見た。
「どうして」
「本は、ここでも読めます」
「うん」
「帝都でなければ、勉強できないわけではありません」
「そうだね」
頷かれると、かえって続けづらかった。
「父さんを、一人にするでしょう」
ようやく言うと、父さんはコップを置いた。
「それを、心配していたのか」
「ほかに、何がありますか」
少し笑って、私の頭に手を置く。
「行きなさい」
「でも」
「お前は、行きたいんだろう」
それは、そうだった。
だから困っているのに。
「私がいなくても、大丈夫なんですか」
「何もかも平気だ、と言ったら、怒るだろうね」
「怒ります」
父さんは、私の頭を一度撫でた。
「寂しくなるよ。食事に呼んでも来ない子がいなくなったら、私も困る」
「それは、困らないでしょう」
「そうかな」
困る、と父さんはもう一度言った。
私は、うまく返せなかった。
「でも、セレナ。お前が本を読んで、面白かったことを話してくれるのが、私は好きなんだ」
父さんは机の方を見た。
読みかけの本が、開いたままになっていた。
「向こうで、もっと色々なものを見ておいで。帰ってきたら、また聞かせてくれればいい」
「父さんには、難しい話もありますよ」
「その時は、分かるところから頼もうかな」
いつもの答えだった。
私の魔力量が多いからでも、試験でいい点を取ったからでもない。
父さんは、私が魔法の話をしていると、ずっとそうやって聞いていた。
出発までに、父さんの薬と暮らしのことを、一つずつ確かめた。
父さんにも、何を頼めて、何を自分でできるのか聞いた。
全部に納得したわけではなかったけれど、何も聞かずに残ると決めるのも、違う気がした。
私は学院へ行った。
もっと知りたいと思ったまま、ここで待っていることは、やはりできなかった。
*
十二歳で、帝都魔法学院へ特例入学した。
試験は難しくなかった。
魔力量だけなら私より上の人もいたけれど、操作の正確さと、術式を読み解く速さで、負ける気はしなかった。
図書室は、素晴らしかった。
最初に入った日は、書棚を一列見ただけで、なかなか次へ進めなくなった。
前に読んだ本の続巻がある。
名前しか知らなかった論文がある。
それぞれを、ここで読める。
この学院へ来てよかったと、思った。
講義の予定を確かめたのは、そのあとだった。
授業では、困ることもあった。
内容ではない。
「今回の試験、難しくなかった?」
同級生にそう聞かれ、私は少し考えた。
「どこがですか?」
どの問題か分かれば、説明できると思ったのだ。
その子は、もういいと言って、別の子のところへ行った。
翌日から、あまり話しかけてこなくなった。
教授が黒板に書いた術式に、抜けている条件があった時も、すぐに手を挙げた。
そのままでは、説明の通りに動かない。
指摘すると、教授は、次に説明するつもりだったと言った。
「では、先に書いた方がいいと思います。今のままだと、間違えた形で覚える人がいますから」
教室が静かになった。
なぜだろうと思った。
あとで、マルティナ先生に呼ばれた。
「正しいことを言えば、それでいいというものではありませんよ」
「でも、条件が抜けていました」
「その指摘は、正しいです」
「では、何がいけなかったんですか」
先生は私を見て、眼鏡に指を添えた。
「そこから、話しましょうか」
長い話になった。
術式の条件の説明なら、もっと早く済んだはずだ。
実技でも、私は目立った。
入学して半年ほどの演習で、二つ年上の男子学生と組んだことがある。
実技成績のいい人だと聞いていたので、少し楽しみにしていた。
相手は合図とともに詠唱へ入り、私の移動先へ火球を放った。
正面を避ければいい、という撃ち方ではなかった。
私は足を止め、結界で受ける。
炎が散ったところへ、次が来た。
なるほど。
相手は、自分の得意な距離を保とうとしている。
それなら、こちらは足場を変えればいい。
風で進路を狭め、水を足元へ走らせる。
相手が防御へ切り替える間に、次の魔法を用意した。
結界を探ると、正面には十分な魔力が保たれていた。
だが、右端の構築は、わずかに遅れていると感じた。
そこへ狙いを移すと、相手は慌てず、身体を引いて受け流した。
その動きは、よかった。
でも、一度引けば、次に動ける場所は減る。
私はその場所を塞ぎ、さらに一つ、逃げ道を潰した。
「そこまで!」
教官の声で、構築しかけた魔法を解いた。
相手は演習場の端で膝をつき、肩で息をしていた。
「まだ、降参していませんが」
「もう十分だ」
相手の顔を見るようにと言われた。
見た。
悔しそうだった。
私だって、まだやれるのに止められたら悔しいと思う。
そう答えたら、教官は額を押さえた。
当時の私には、うまく分からなかった。
勝ち方を教わりに来たのだから、勝つまで続けるものだと思っていた。
実力を確かめることと、相手が立てなくなるまで追い詰めることの区別を、私はほとんど考えていなかった。
話しにくい。
生意気だ。
可愛げがない。
貧民街から来たくせに。
聞こえるように言われたこともある。
最初の三つには、今なら、多少思い当たることがある。
最後の一つは、今でも関係ないと思っている。
話す相手が減ると、図書室にいる時間が増えた。
研究室にも通うようになった。
そこでなら、話の続きを聞いてもらえることがあった。
「ここを削れます」
「削ってもよい条件は?」
「この範囲なら」
「では、範囲を外れた時は、どうなるでしょう」
マルティナ先生は、簡単には頷かなかった。
私も、言われたことをそのまま飲み込むつもりはなかった。
計算し、試し、結果を持っていく。
足りなければ、もう一度やる。
前の術式では、余分に流していた魔力がある。
役割の重なる制御がある。
直したものが、狙った通りに動く。
使う魔力は減ったのに、同じ働きを保っている。
「……できました」
そう言った時、先生は記録を覗き込み、もう一度、条件を変えて試してみましょうと言った。
私は、すぐに器具へ向き直った。
まだ先があるのが、嬉しかった。
*
十五歳で学院を卒業し、それまでの研究を評価されて、助教になった。
学生でなくなっても、研究室へ行くことは変わらなかった。
論文を読み、術式を直し、実験する。
変わったのは、私が教える側にも立つようになったことだ。
その頃、術式の最適化について、マルティナ先生と話したことがある。
誰が使っても削れる無駄と、使う人に合わせて変えるべきところを、分けて考えていた。
魔力量が多い人と少ない人。
細かな調整を得意とする人と、大きく動かす方が安定する人。
同じ魔法でも、全員に同じ形がいちばんいいとは限らない。
どこまでを共通にできるか。
残りを、どう調整するか。
説明しているうちに、机の紙が足りなくなった。
「つまり、より多くの人が、魔法を扱いやすくなるわけですね」
先生が言った。
「そうなると思います」
「そのために、この研究を?」
「いえ。ここを分けて考えた方が、きれいに整理できるからです」
先生は、少し黙った。
「……あなたは、そうでしょうね」
「駄目ですか」
「駄目とは言っていません。その先で使う人も、いるという話です」
その時は、使いたい人が使えばいいと思った。
私が面白いから調べていることと、誰かの役に立つことは、別に喧嘩しない。
なぜ先生が念を押したのか、よく分かったのは、その後だ。
実習で、学生に魔力の圧縮を教えた。
「ここへ集めて、この大きさに保ってください」
手本を見せる。
やってもらう。
できなかった。
もう一度説明した。
同じところで、崩れた。
「だから、集めた魔力を……」
「集めようとしているんです」
学生は、困り切った顔をしていた。
私も困っていた。
集めるだけなのに、どうして外へ広がるのか。
最初から、ゆっくりやってもらった。
魔力を動かすところまではできている。
量も、途中までは一定だった。
だが、狭くまとめようとすると、余計に外へ出してしまう。
足りないと思って、増やしているのだ。
「今の量のままでいいです。増やさないでください」
「それで、足りますか」
「足ります。まず、広いまま止めましょう」
そこまでは、できた。
次に、少しだけ狭める。
崩れそうになる前に止める。
何度か繰り返すと、さっきより小さな範囲に、魔力が留まった。
「できました」
学生が言った。
私も頷いた。
「ええ。今の感じです」
その人に必要だったのは、同じ手本を速く繰り返すことではなかった。
次の学生は、また違った。
魔力を集める場所が定まらない。
その次は、量を保とうとするだけで、ほかへ注意を向けられなくなる。
同じ課題ができなくても、同じところで困っているわけではなかった。
自分ならできる。
それは、教える時には、説明にならないらしい。
翌日の実習で、私は初めに言った。
「昨日は、説明が足りませんでした。一人ずつ、どこまでできるか確かめます」
言う前は、少し嫌だった。
言ってしまえば、実習は前より進んだ。
間違えた説明を守り続ける方が、よほど無駄だった。
人付き合いが上手になったかといえば、そうでもない。
今でも、なぜそこで怒るのか分からないことがある。
分からないまま、怒らせたことだけは分かる場合もある。
つい先日も、テレシア様に、配慮のない言い方をしてしまった。
ただ、そうだと分かったら、謝れるようにはなった。
十二歳の私よりは、多少ましだろう。
魔法の方は、あの頃から優秀だった。
そこまで謙遜する必要はないと思う。
*
助教になった頃、メルヴィン家から、望む支援はあるかと聞かれた。
私は、その時には、もう決めていた。
「特任教授になれたら、研究館が欲しいです」
「帝都に、ですか」
「アストリア領の近くに。父と暮らせるところがいいです」
研究を続けたい。
父さんとも暮らしたい。
どちらかを諦めるつもりはなかった。
そのためには、学院に籍を置いたまま、自分で研究を進められる立場になればいい。
必要な業績を積む。
できると思っていたし、実際、それを目指して研究した。
十八歳で、特任教授になった。
研究拠点を選べるようになり、メルヴィン家は、父さんと暮らせる研究館を用意してくれた。
初めて父さんを連れて入った日、私はまず研究室を見せた。
机がある。
器具を置く場所がある。
本を並べる棚もある。
今まで、場所を空けるために片づけていたものを、そのまま広げておける。
「窓の近くは、記録を書く机にします。大きな器具は、こちらへ」
「うん」
「本棚は、まだ余裕があります。あとで増えても」
「セレナ」
父さんに呼ばれて、振り返った。
「私の部屋は、どこかな」
まだ案内していなかった。
寝室と食卓のある部屋を見せると、父さんは、台所も見たいと言った。
そこで、どの棚へ何を置くか考え始めたので、今日は休むように言った。
「お前も、さっき同じことをしていたよ」
「私は、疲れていません」
「私も、座りながら見ているだけだ」
椅子まで持ち込んでいた。
こういう時の父さんは、あまり私の言うことを聞かない。
メルヴィン家を、家族だと思ったことはない。
でも、ここへ来られたことは、本当に感謝している。
新しい本を開いた時と同じように、言葉だけで済ませるには大きなものを、受け取っていた。
学院へ行く時、私は父さんを置いていくことばかり考えていた。
今度は、研究室の隣に父さんがいる。
食事の時間になると呼ばれる。
出ていかないと、扉が開く。
小さい頃から、あまり変わっていないと言われた。
変わったところもある。
私は、特任教授になった。
それを言うと、教授でもスープは冷めるよと返された。
反論できなかった。
*
研究館へ移ってから、私は、自分で新しい魔法を作ろうとしていた。
誰かの術式を直すのではなく、最初の着想から、自分で。
できると思っていた。
複雑な術式を渡されれば、構造が分かる。
どこで破綻しているか、何を変えれば成立するか、考えられる。
他人が持ち込んだ構想でも、形にするための道筋を探せる。
なら、自分のものも作れるはずだった。
ところが、机へ向かうと、知っている術式ばかりが浮かんだ。
ここを変えれば、少ない魔力で使える。
ここの負担を減らせば、もっと安定する。
そういうことなら、いくらでも考えられる。
それで紙を埋めてから、気づく。
また、あるものを直している。
何もしていなかったわけではない。
改良は進んだ。
試した結果も残った。
それだけでも、研究としては意味がある。
分かっているから、なおさら腹が立った。
欲しかったのは、そこではなかった。
読み返せば、どの本の、どの箇所に似ているかまで分かる。
覚えているものが、勝手に照らし合わされていく。
何を直したのかは説明できるのに、今までなかった魔法を、自分で思いつくところへは進めなかった。
父さんには、研究は楽しいかと聞かれた。
「楽しいです」
それは、嘘ではなかった。
できないことが腹立たしいのも、続きをやりたいからだ。
そんな時、魔法省から依頼が来た。
アストリア領で起きた魔法事故の確認と、再発を防ぐための監視。
五歳の子供が、詠唱せずに魔法を使ったという。
最初に思ったのは、面倒だ、だった。
ようやく、父さんと暮らせるようになった。
自分の研究も、進めたい。
そんな時に、どうして子供の相手までしなければならないのか。
報告も疑っていた。
無詠唱を使う者がいることは、知っている。
私自身も、幼い頃から繰り返し練習し、使い慣れた魔法を、声の助けなしで扱えるようになった。
けれど、五歳だ。
何度も同じ魔法を使い、制御を身体に覚え込ませる時間を、その子がどこで積んだのか。
周囲が何か見誤ったのではないかと思った。
確かめる。
危険なら止める。
必要なことを報告して、帰る。
そのつもりで、屋敷へ行った。
レイン・アストリアは、私が抑えていた魔力を見た。
外へ漏れる気配のことではない。
私の中を、どう動いているかを話した。
私には、見えないものを。
正直に言えば、悔しかった。
何冊の本を読み、何度、術式を組み直してきたと思っている。
分からないところを、一つずつ調べてきた。
その私が、感知から推し量るしかないものを、この子は、そこにあるものとして見ている。
私にも、その目があれば。
どれだけのことを確かめられるだろう。
ずるい、と思った。
五歳の子供に向かって。
我ながら、大人げがない。
でも、その子は、私の魔力を綺麗だと言った。
積み重ねてきた制御を、自分の目で見て、そう言ったのだ。
どんなふうに見えているのか、知りたくなった。
私が毎日動かしているものは、どんな形をしているのだろう。
魔法になる前に、何が起きているのだろう。
同じ操作を少し変えれば、その違いまで見分けられるのだろうか。
悔しがって黙っている時間が、惜しくなった。
私が知らない。
それなら、聞けばいい。
私に見えないなら、見えているものを教えてもらえばいい。
そこから確かめられることは、きっとある。
あの子は、何でも分かっているわけではない。
見えたことを話せても、なぜそうなったかは、まだ分からない。
私にも、すぐには答えられないことがある。
だから面白い。
自分で新しい魔法を思いつけないことが、あの子に会っただけで解決したわけではない。
それでも、机で知っている術式を眺めていた時とは、違う問いができた。
まず、何を動かし、何を見てもらおうか。
どこまでが同じで、どこからが違うのか。
今は、次の授業を考えると、そんなことが浮かぶ。
もちろん、基礎はやってもらう。
見えるからといって、何をしても安全な身体になったわけではない。
私にも、そこを忘れないだけの分別はある。
研究を始めると食事を忘れる件は、今は関係ない。
*
父さんの指が、少し動いた。
「……セレナ?」
私は顔を上げた。
眠っていた父さんが、薄く目を開けていた。
「起こしましたか」
「いや。まだ、ここにいたんだね」
「薬を飲んだか、見に来ただけです」
「ちゃんと飲んだよ」
「知っています」
空のコップを見ると、父さんは小さく笑った。
「今日は、楽しかったね」
「そうですね。少し、話しすぎだと思いますが」
「私が?」
「ほかに誰がいるんですか」
蕪のことだと分かったらしく、父さんは、今度は声を立てずに笑った。
私は布団を直した。
「レインが、授業中に思い出したらどうするんです」
「お前も、笑えばいいんじゃないかな」
「授業です」
「ずっと笑っているわけではないだろう」
そういう問題ではない。
けれど、昼のあの子の顔を思い出すと、私も少し笑ってしまった。
笑いをこらえようとして、余計に顔に出ていた。
「また、同じスープがいいと言っていましたね」
「うん。嬉しかったよ」
「次は、私も手伝います」
「そうしてくれると、助かる」
父さんは、そこで目を閉じかけた。
私は椅子から腰を浮かせたが、呼び止められた。
「お前も、今日はもう休みなさい」
「少しだけ、書いておきたいことが」
「一ページかな」
私は黙った。
父さんは目を閉じたまま、笑っていた。
「昔も、そのくらいと言っていたね」
「……書いたら、寝ます」
「うん。おやすみ」
おやすみなさいと返し、もう少しだけ座った。
父さんの手は、布団の中に戻っていた。
私は、ここで父さんと暮らしたかった。
食事に呼ばれて、薬を飲んだか聞いて、ときどき昔のことを持ち出される。
研究室から出ると、父さんがいる。
そういう毎日が欲しかった。
そこへ、レインが来るようになった。
次に何を尋ねるのか、何が見えたと話すのか。
それを考えるのも楽しい。
今日みたいに、一緒に食べて、魔法ではないことで笑うのも、悪くない。
次の昼食には、先に研究室を出ていよう。
野菜を切るところから手伝うと、自分で言ったのだから。
レインが座った椅子の座布団も、あのままでいい。
父さんの寝息を聞きながら、私は椅子の背に、軽く身体を預けた。
書いておきたいことはある。
でも、今すぐ立たなくてもいい気がした。
明日もきっと、悪くない一日になる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
魔法への情熱や自負、不器用さ、そして父への思い。レインの目からは見えなかったセレナの一面を、楽しんでいただけたでしょうか。
次話からは、五年後のレインを描く少年期編が始まります。
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