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閑話「セレナ・ミレイユ」

今回は、セレナの視点で彼女の過去をたどる閑話です。

本編を読み進めるうえで必須ではありませんが、彼女のことをもう少し知りたいと思ってくださった方に、楽しんでいただければ嬉しいです。

 夜、父さんの寝室へ行くと、枕元のコップは空になっていた。

 寝る前に薬を飲むところは、私も見ていた。昼間はあれほどよく動いていた口も、今は閉じている。

 寝息は穏やかだった。


 私は椅子を引き、ベッドの横に座った。

 今日は、よく喋っていた。

 レインの話を聞いて、私の昔の話をして、二人で笑って。

 蕪のことまで話す必要はなかったと思う。

 あの子は、しばらく忘れないだろう。明日の授業でこちらの顔を見て笑ったら、何を思い出したのか、聞かなくても分かる。


 掛け布団から出ていた父さんの手を、中へ戻そうとした。

 指が、私の手に触れる。

 昔は、もっと大きく見えた手だった。

 本を持つ私の手の上から、ページを押さえてくれたことがある。破れかけた紙を、そんなに急いで捲ってはいけないと言って。

 私が続きを読みたがるので、父さんの方が先に笑ってしまった。


 どのページだったかも、覚えている。

 文字を読むことは、もうできた。

 けれど、そこに書かれている魔法のことは、まだ、ほとんど分からなかった頃だ。


     *


 私が生まれたのは、アストリア領近郊の貧民街だった。

 母さんは、私を産んだ時に亡くなった。

 だから、覚えている家族は、最初から父さん一人だ。


 家は狭く、雨が続くと、屋根の同じところから水が落ちた。

 父さんが直しても、次の雨には別のところが漏る。鍋を置く場所が変わるだけだと言ったら、直さないよりいいだろうと返された。

 それは、確かにそうだった。


 父さんは農作業の手伝いをしていた。

 魔法の才能はほとんどなく、身体も丈夫ではなかった。それでも、少しでも仕事を増やそうとして、得意でもない魔法を使っていた。

 帰ってきてから、しばらく椅子を離れない日があった。

 咳が出始めたのも、その頃だったと思う。


 近所の人たちは、私が魔導書を読んでいると、よく声を掛けてきた。


「お父さんも、魔法は得意じゃないだろう」

「そんなものより、ほかに覚えることがあるんじゃないか」


 嫌いだった。

 父さんのことを知っていても、私が何をできるかは知らないはずだ。

 そもそも、読んでいる途中なのだから、話しかけないでほしかった。


 そのまま言うと、可愛げのない子だと言われた。

 可愛げがあれば、この本の続きを読めるのか。

 そう聞くと、もっと怒られた。

 どうも、答えてはいけない質問というものがあるらしい。


 面倒だったので、あまり話さなくなった。

 代わりに、父さんが昔買ったという魔導書を読んだ。

 表紙は擦り切れ、何度も開かれたところだけ、綴じ目が緩くなっていた。


 文字を覚えたからといって、全部が分かるわけではない。

 知らない言葉がある。

 その言葉を説明しているところへ戻ると、また別の分からない言葉が出てくる。

 腹が立つくらい、先へ進まなかった。


 それでも、一つ分かると、さっき読んだところの意味が変わった。

 なるほど。ここは、そういうことだったのか。

 もう一度読む。

 今度は、その先まで繋がる。

 父さんに食事だと呼ばれても、あと少しだけと言っていた。


「その少しは、どこまでかな」

「このページの終わりまで」

「さっきも、そう言ったね」

「今は、違うページです」


 父さんは困った顔をしてから、私の隣へ椅子を寄せた。

 どこが面白いのかと聞かれ、説明すると、途中で首を傾げた。


「私には、少し難しいな」

「ここからなら分かりますか」


 前のページを開いた。

 父さんは、急いで捲った私の手に、自分の手を重ねた。


「破れるよ」


 そう言って、一緒に紙の端を持った。

 あのページだ。

 欄外まで文字が詰まっていて、下に小さな術式図が載っていた。


 読み終わると、試したくなった。

 書いてある通りに動かせば、本当に、魔法になるのだろうか。


 身体が育つまで、子供は魔法を使ってはいけない。

 そういう決まりがあることは知っていた。父さんにも、まだ早いと止められた。

 ただ、私の住んでいた辺りでは、決まりの通りに暮らしている家ばかりではなかった。

 大人の手伝いをしながら、見よう見まねで魔法を使う子もいた。仕事へ出た親が、一日中そばについていられるわけでもない。

 私も、父さんのいない時に、家の裏で本を開いた。


 小さな風を起こそうとした。

 詠唱を最後まで口にしても、足元の草は動かなかった。

 もう一度、読む。

 魔力を外へ出せば、それでいいわけではない。どこで、何をさせるのか。書かれている順に、一つずつ確かめた。


 次には、草の先が少しだけ揺れた。

 風が吹いただけかもしれない。

 やめると、止まる。

 もう一度試すと、同じところが動く。


 私が、動かしていた。


 嬉しくなって、父さんに話した。

 止められていたことは、その時には頭から抜けていた。

 父さんは私の話を聞くと、まず手を取った。


「痛いところはないか」

「ありません」

「気分は?」

「悪くないです。父さん、それより、草が」

「それは分かった。でも、まだ一人でやってはいけないよ」


 叱られた。

 上手にできたのに、と不満だった。

 今なら、最初に手を取った理由も分かる。


 それでも、私は本を読むのをやめなかったし、やがて練習の方も続けるようになった。

 うまくいかなければ、本へ戻る。

 書かれた通りにできたら、なぜそれでうまくいくのか考える。

 同じことを何度も試しているうちに、昨日より細かい違いが分かった。


 褒める人がいなくても、面白かった。

 草の先が揺れたことを、私はちゃんと知っていた。


     *


 六歳の魔力量測定で、測定器の上限を超えた。

 係の人が器具を調べ直してから、もう一度測った。

 結果は変わらなかった。


 それから、周りの呼び方が変わった。

 天才だという。

 少し前まで、父親に才能がないのだからと言っていた人まで。

 測定器一つで、ずいぶん忙しいことだと思った。


 父さんは、結果を聞いて驚いていた。

 それから、帰り道で、何か欲しいものはあるかと聞いた。


「本」

「どんな本だい」

「まだ読んでいないものです」

「それは、どうやって見分ければいいのかな」


 私は少し考えた。

 確かに、私が読んだ本を相手が知っているわけではない。


「……一緒に選んでもいいですか」


 測定の記録には、上限を超えたことと、再検査が必要だということが残された。

 すぐに帝都へ連れていかれたり、家いっぱいの本が届いたりはしなかった。

 その測定器では、私にどこまで魔力量があるか、正確には分からなかった。進路を考える頃に、改めて調べると言われた。

 私はそれまでと同じように、本を探し、読んで、試していた。


 父さんの本を読み終えたら、借りられるものを探した。

 役所の小さな書庫にも通った。

 本棚の前で、まだ読んでいない背表紙を見つけるのが好きだった。

 学院の紀要には、古い魔導書には載っていない話がある。

 途中までしか分からない論文も、捨て置く気にはならなかった。

 その先を理解するための本が、どこかにあるはずだった。


 十歳の再検査へ来たのが、オスカー・クロイスさんだった。

 当時はアストリア家の領地行政に携わっていて、帝都魔法学院で学んだ人でもあった。

 測定のために用意された机へ、筆記具と器具を、順に並べていった。


「まずは、こちらから参りましょう」


 言われた通りに、魔力を出す。

 少しずつ量を増やす。

 オスカーさんは、器具と記録を交互に見た。


「十歳で、この量ですか」

「多いんですか」

「ええ。学院で学ぶ学生と比べても、十分に多いと言えます」


 それは、少し嬉しかった。

 学院の学生が、毎日どんな本を読んでいるのかも気になった。


 次は、机に並べられた金属輪を使った。

 輪の中へ魔力を通す。

 縁には触れないように。

 量を半分にする。

 三つに分けて、それぞれ違う速さで動かす。


 注文が細かくなるにつれ、オスカーさんの筆が止まることが増えた。

 待っている間も、魔力は指示された位置に留めておいた。


「次は?」

「……少々、お待ちいただけますかな」


 さっきも、同じことを言われた。


「何か、間違っていますか」

「いいえ。誤差がほとんどないので、驚いているのです」

「言われた通りにしただけですが」

「それを、この精度で続けるのが難しいのですよ」


 そういうものらしかった。

 オスカーさんは、どこで習ったのかと聞いた。

 本だと答えると、誰かに教えてもらったことはないのかと、もう一度聞かれた。


 そのうち、私は別のことが気になり始めた。

 この人の名前は、読んだことがある。

 役所の書庫にあった、学院の紀要だ。


「あの。オスカーさんの論文を読んだことがあります」


 筆先が止まった。


「私の、ですか」

「水系術式の効率化について書かれていましたよね」

「……ええ。学院にいた頃のものです」

「あれは、もう直したんですか」


 今度は、こちらを見た。


「どこのことでしょう」


 紙を一枚、借りた。

 覚えている術式を書き、二か所に印をつける。


「ここから、二つに分けています。でも、この先まで、同じ処理をしていますよね」

「その後に、別の制御を行うためです」

「それは分かります。だから、分けるところを、こっちへ移せばいいと思うんです」


 線を引き直した。

 先に枝分かれさせて、それぞれ同じことをしている。

 共通のところを一度で済ませ、必要になってから分けた方が、短くなる。


 オスカーさんは紙を引き寄せた。

 すぐには頷かなかった。

 私の書いた箇所から順に辿り、元の術式へ戻り、また見比べる。


「この部分を共有すると、後の出力を変えた時に、もう一方へ影響しませんか」

「分けた後の、この制御は残します。削るのは、その前だけです」


 指で示した。

 もう一度、術式を辿る。

 今度は二人とも黙っていた。


 やがて、オスカーさんが、ほう、と息を漏らした。

 その声を聞いて、私は少し身を乗り出した。


「こっちの方が、いいと思いませんか」

「……試してみる価値は、十分にありますな」


 いい人だと思った。

 子供が口を挟むなとも、そんなことよりほかに覚えることがあるだろうとも言わなかった。

 私の書いたものを、最後まで見てくれた。


 オスカーさんは鞄から、別の紙を取り出した。

 今も、自分で研究を続けているのだという。

 既存の術式を改良しようとしているが、思うほど効率が上がらないらしかった。


「こちらも、見ていただけますか」


 紙には、何度も書き直した跡があった。

 端に小さな字で、試した時の条件が並んでいる。

 順番に読んでいく。

 これは、さっきより面白かった。


「ここの制御、前にもありませんか」

「安定させるために、もう一度入れてあります」

「その前の処理で、同じ範囲を保っています。これだと、二つが同じところを直そうとするので」


 紙の上に指を置いた。

 削ってよい箇所と、残す必要のある箇所を分ける。

 魔力を増やして押さえつけても、ここの手間は減らない。

 先に、役割の重なりを解いた方がいい。


「似た形を、本で読みました」

「どの本ですかな」


 書名を答えた。

 二百七十三ページ。

 右下にある術式図の、その一つ前の段落だ。


 オスカーさんは、少し考えた。


「その本なら、ここにもあったはずです」


 書庫から持ってきた本を、机に置く。

 私が手を伸ばす前に、オスカーさんは本を持ち上げ、自分の方に向けてページを開いた。


「二百七十三、でしたな」

「はい。説明は、下から四行目です。図の左側に、同じ制御があります」


 ページを見なくても、分かった。

 図の位置も、文字の並びも、そのまま頭の中にあった。

 説明を口にすると、オスカーさんの指が、開いたページをなぞった。

 途中で止まり、私を見る。


「今、この本は見えていませんね」

「裏表紙なら見えています」

「そうではなく……。読んだページを、そのまま覚えているのですか」

「はい」


 そこで驚かれるとは、思わなかった。


「一度読んだものでも?」

「覚えています。意味が分からなかったところも」


 分からない言葉があるのと、その言葉を忘れるのとは、別のことだ。

 あとで意味を知れば、前に読んだページへ戻って考えられる。

 本を返してからも、それはできる。


「普通は、そうではありませんよ」


 私は、オスカーさんを見た。


「そうなんですか」

「ええ」

「では、借りた本を返したら、どうするんですか」

「必要なら、また借りるのです」


 それは不便だ。

 そう言うと、オスカーさんは笑った。


 結局、再検査が終わる頃には、机の上が紙で埋まっていた。

 オスカーさんが持ってきた術式と、私が書き直した術式。

 試すなら、何を比べればよいかという話までした。

 途中から、魔力量の話は、ほとんどしていなかった。


     *


 その後、私のところへ、メルヴィン公爵家の使者が来た。

 オスカーさんの報告をきっかけに、進学の支援を受けられることになったのだ。


 学費。

 教材と魔導書。

 帝都までの旅費。

 学院の特例選抜を受けるための手続き。


 使者が一つずつ説明する横で、父さんは何度も頭を下げていた。

 私は、用意してもらえる本について聞いた。

 父さんが、私の袖を引いた。


「まずは、お礼を」

「ありがとうございます。それで、本は」


 使者は、そこで少し笑った。


 メルヴィン家は、行政に強い公爵家だった。

 地方で見つかった才能を、必要な場所へ送り出す。進学する金のない子供へ手を貸すことも、その一つだった。

 今なら、それが家の実績にも、人との繋がりにもなると分かる。

 支援した相手が、将来どこで何をするのか。そういうことを考えずに出している金ではなかったのだろう。


 でも、それで本が読めなくなるわけではない。

 私一人では用意できなかったものを、彼らが用意してくれた。

 そのことまで、なかったことにはできない。


 届いた本は、まだ背が硬かった。

 開くと、紙の端が揃っていた。

 借り物ではない。読み終える日を気にしなくてもいい。

 父さんに、そんなに一度に開くなと言われながら、机の上へ並べた。


 学院には、もっとあるという。

 読んだ論文を書いた本人もいる。

 どうしてこうしたのかと聞けば、答えが返ってくるかもしれない。

 行きたかった。


 だからこそ、父さんの顔を見ると、何も言えなくなった。


 十二歳で受ける選抜が近づいた頃、ある晩、父さんの咳が長く続いた。

 水を持っていくと、もう大丈夫だと言われた。

 その言葉を、私はあまり信用していなかった。


「学院は、まだ行かなくてもいいと思うんです」


 父さんはコップを持ったまま、私を見た。


「どうして」

「本は、ここでも読めます」

「うん」

「帝都でなければ、勉強できないわけではありません」

「そうだね」


 頷かれると、かえって続けづらかった。


「父さんを、一人にするでしょう」


 ようやく言うと、父さんはコップを置いた。


「それを、心配していたのか」

「ほかに、何がありますか」


 少し笑って、私の頭に手を置く。


「行きなさい」

「でも」

「お前は、行きたいんだろう」


 それは、そうだった。

 だから困っているのに。


「私がいなくても、大丈夫なんですか」

「何もかも平気だ、と言ったら、怒るだろうね」

「怒ります」


 父さんは、私の頭を一度撫でた。


「寂しくなるよ。食事に呼んでも来ない子がいなくなったら、私も困る」

「それは、困らないでしょう」

「そうかな」


 困る、と父さんはもう一度言った。

 私は、うまく返せなかった。


「でも、セレナ。お前が本を読んで、面白かったことを話してくれるのが、私は好きなんだ」


 父さんは机の方を見た。

 読みかけの本が、開いたままになっていた。


「向こうで、もっと色々なものを見ておいで。帰ってきたら、また聞かせてくれればいい」

「父さんには、難しい話もありますよ」

「その時は、分かるところから頼もうかな」


 いつもの答えだった。

 私の魔力量が多いからでも、試験でいい点を取ったからでもない。

 父さんは、私が魔法の話をしていると、ずっとそうやって聞いていた。


 出発までに、父さんの薬と暮らしのことを、一つずつ確かめた。

 父さんにも、何を頼めて、何を自分でできるのか聞いた。

 全部に納得したわけではなかったけれど、何も聞かずに残ると決めるのも、違う気がした。


 私は学院へ行った。

 もっと知りたいと思ったまま、ここで待っていることは、やはりできなかった。


     *


 十二歳で、帝都魔法学院へ特例入学した。

 試験は難しくなかった。

 魔力量だけなら私より上の人もいたけれど、操作の正確さと、術式を読み解く速さで、負ける気はしなかった。


 図書室は、素晴らしかった。

 最初に入った日は、書棚を一列見ただけで、なかなか次へ進めなくなった。

 前に読んだ本の続巻がある。

 名前しか知らなかった論文がある。

 それぞれを、ここで読める。


 この学院へ来てよかったと、思った。

 講義の予定を確かめたのは、そのあとだった。


 授業では、困ることもあった。

 内容ではない。


「今回の試験、難しくなかった?」


 同級生にそう聞かれ、私は少し考えた。


「どこがですか?」


 どの問題か分かれば、説明できると思ったのだ。

 その子は、もういいと言って、別の子のところへ行った。

 翌日から、あまり話しかけてこなくなった。


 教授が黒板に書いた術式に、抜けている条件があった時も、すぐに手を挙げた。

 そのままでは、説明の通りに動かない。

 指摘すると、教授は、次に説明するつもりだったと言った。


「では、先に書いた方がいいと思います。今のままだと、間違えた形で覚える人がいますから」


 教室が静かになった。

 なぜだろうと思った。


 あとで、マルティナ先生に呼ばれた。


「正しいことを言えば、それでいいというものではありませんよ」

「でも、条件が抜けていました」

「その指摘は、正しいです」

「では、何がいけなかったんですか」


 先生は私を見て、眼鏡に指を添えた。


「そこから、話しましょうか」


 長い話になった。

 術式の条件の説明なら、もっと早く済んだはずだ。


 実技でも、私は目立った。

 入学して半年ほどの演習で、二つ年上の男子学生と組んだことがある。

 実技成績のいい人だと聞いていたので、少し楽しみにしていた。


 相手は合図とともに詠唱へ入り、私の移動先へ火球を放った。

 正面を避ければいい、という撃ち方ではなかった。

 私は足を止め、結界で受ける。

 炎が散ったところへ、次が来た。


 なるほど。

 相手は、自分の得意な距離を保とうとしている。

 それなら、こちらは足場を変えればいい。


 風で進路を狭め、水を足元へ走らせる。

 相手が防御へ切り替える間に、次の魔法を用意した。

 結界を探ると、正面には十分な魔力が保たれていた。

 だが、右端の構築は、わずかに遅れていると感じた。

 そこへ狙いを移すと、相手は慌てず、身体を引いて受け流した。


 その動きは、よかった。

 でも、一度引けば、次に動ける場所は減る。

 私はその場所を塞ぎ、さらに一つ、逃げ道を潰した。


「そこまで!」


 教官の声で、構築しかけた魔法を解いた。

 相手は演習場の端で膝をつき、肩で息をしていた。


「まだ、降参していませんが」

「もう十分だ」


 相手の顔を見るようにと言われた。

 見た。

 悔しそうだった。

 私だって、まだやれるのに止められたら悔しいと思う。

 そう答えたら、教官は額を押さえた。


 当時の私には、うまく分からなかった。

 勝ち方を教わりに来たのだから、勝つまで続けるものだと思っていた。

 実力を確かめることと、相手が立てなくなるまで追い詰めることの区別を、私はほとんど考えていなかった。


 話しにくい。

 生意気だ。

 可愛げがない。

 貧民街から来たくせに。


 聞こえるように言われたこともある。

 最初の三つには、今なら、多少思い当たることがある。

 最後の一つは、今でも関係ないと思っている。


 話す相手が減ると、図書室にいる時間が増えた。

 研究室にも通うようになった。

 そこでなら、話の続きを聞いてもらえることがあった。


「ここを削れます」

「削ってもよい条件は?」

「この範囲なら」

「では、範囲を外れた時は、どうなるでしょう」


 マルティナ先生は、簡単には頷かなかった。

 私も、言われたことをそのまま飲み込むつもりはなかった。

 計算し、試し、結果を持っていく。

 足りなければ、もう一度やる。


 前の術式では、余分に流していた魔力がある。

 役割の重なる制御がある。

 直したものが、狙った通りに動く。

 使う魔力は減ったのに、同じ働きを保っている。


「……できました」


 そう言った時、先生は記録を覗き込み、もう一度、条件を変えて試してみましょうと言った。

 私は、すぐに器具へ向き直った。

 まだ先があるのが、嬉しかった。


     *


 十五歳で学院を卒業し、それまでの研究を評価されて、助教になった。

 学生でなくなっても、研究室へ行くことは変わらなかった。

 論文を読み、術式を直し、実験する。

 変わったのは、私が教える側にも立つようになったことだ。


 その頃、術式の最適化について、マルティナ先生と話したことがある。

 誰が使っても削れる無駄と、使う人に合わせて変えるべきところを、分けて考えていた。

 魔力量が多い人と少ない人。

 細かな調整を得意とする人と、大きく動かす方が安定する人。

 同じ魔法でも、全員に同じ形がいちばんいいとは限らない。


 どこまでを共通にできるか。

 残りを、どう調整するか。

 説明しているうちに、机の紙が足りなくなった。


「つまり、より多くの人が、魔法を扱いやすくなるわけですね」


 先生が言った。


「そうなると思います」

「そのために、この研究を?」

「いえ。ここを分けて考えた方が、きれいに整理できるからです」


 先生は、少し黙った。


「……あなたは、そうでしょうね」

「駄目ですか」

「駄目とは言っていません。その先で使う人も、いるという話です」


 その時は、使いたい人が使えばいいと思った。

 私が面白いから調べていることと、誰かの役に立つことは、別に喧嘩しない。

 なぜ先生が念を押したのか、よく分かったのは、その後だ。


 実習で、学生に魔力の圧縮を教えた。


「ここへ集めて、この大きさに保ってください」


 手本を見せる。

 やってもらう。

 できなかった。


 もう一度説明した。

 同じところで、崩れた。


「だから、集めた魔力を……」

「集めようとしているんです」


 学生は、困り切った顔をしていた。

 私も困っていた。

 集めるだけなのに、どうして外へ広がるのか。


 最初から、ゆっくりやってもらった。

 魔力を動かすところまではできている。

 量も、途中までは一定だった。

 だが、狭くまとめようとすると、余計に外へ出してしまう。

 足りないと思って、増やしているのだ。


「今の量のままでいいです。増やさないでください」

「それで、足りますか」

「足ります。まず、広いまま止めましょう」


 そこまでは、できた。

 次に、少しだけ狭める。

 崩れそうになる前に止める。

 何度か繰り返すと、さっきより小さな範囲に、魔力が留まった。


「できました」


 学生が言った。

 私も頷いた。


「ええ。今の感じです」


 その人に必要だったのは、同じ手本を速く繰り返すことではなかった。


 次の学生は、また違った。

 魔力を集める場所が定まらない。

 その次は、量を保とうとするだけで、ほかへ注意を向けられなくなる。

 同じ課題ができなくても、同じところで困っているわけではなかった。


 自分ならできる。

 それは、教える時には、説明にならないらしい。


 翌日の実習で、私は初めに言った。


「昨日は、説明が足りませんでした。一人ずつ、どこまでできるか確かめます」


 言う前は、少し嫌だった。

 言ってしまえば、実習は前より進んだ。

 間違えた説明を守り続ける方が、よほど無駄だった。


 人付き合いが上手になったかといえば、そうでもない。

 今でも、なぜそこで怒るのか分からないことがある。

 分からないまま、怒らせたことだけは分かる場合もある。

 つい先日も、テレシア様に、配慮のない言い方をしてしまった。


 ただ、そうだと分かったら、謝れるようにはなった。

 十二歳の私よりは、多少ましだろう。

 魔法の方は、あの頃から優秀だった。

 そこまで謙遜する必要はないと思う。


     *


 助教になった頃、メルヴィン家から、望む支援はあるかと聞かれた。

 私は、その時には、もう決めていた。


「特任教授になれたら、研究館が欲しいです」

「帝都に、ですか」

「アストリア領の近くに。父と暮らせるところがいいです」


 研究を続けたい。

 父さんとも暮らしたい。

 どちらかを諦めるつもりはなかった。


 そのためには、学院に籍を置いたまま、自分で研究を進められる立場になればいい。

 必要な業績を積む。

 できると思っていたし、実際、それを目指して研究した。


 十八歳で、特任教授になった。

 研究拠点を選べるようになり、メルヴィン家は、父さんと暮らせる研究館を用意してくれた。


 初めて父さんを連れて入った日、私はまず研究室を見せた。

 机がある。

 器具を置く場所がある。

 本を並べる棚もある。

 今まで、場所を空けるために片づけていたものを、そのまま広げておける。


「窓の近くは、記録を書く机にします。大きな器具は、こちらへ」

「うん」

「本棚は、まだ余裕があります。あとで増えても」

「セレナ」


 父さんに呼ばれて、振り返った。


「私の部屋は、どこかな」


 まだ案内していなかった。


 寝室と食卓のある部屋を見せると、父さんは、台所も見たいと言った。

 そこで、どの棚へ何を置くか考え始めたので、今日は休むように言った。


「お前も、さっき同じことをしていたよ」

「私は、疲れていません」

「私も、座りながら見ているだけだ」


 椅子まで持ち込んでいた。

 こういう時の父さんは、あまり私の言うことを聞かない。


 メルヴィン家を、家族だと思ったことはない。

 でも、ここへ来られたことは、本当に感謝している。

 新しい本を開いた時と同じように、言葉だけで済ませるには大きなものを、受け取っていた。


 学院へ行く時、私は父さんを置いていくことばかり考えていた。

 今度は、研究室の隣に父さんがいる。

 食事の時間になると呼ばれる。

 出ていかないと、扉が開く。

 小さい頃から、あまり変わっていないと言われた。


 変わったところもある。

 私は、特任教授になった。

 それを言うと、教授でもスープは冷めるよと返された。

 反論できなかった。


     *


 研究館へ移ってから、私は、自分で新しい魔法を作ろうとしていた。

 誰かの術式を直すのではなく、最初の着想から、自分で。


 できると思っていた。

 複雑な術式を渡されれば、構造が分かる。

 どこで破綻しているか、何を変えれば成立するか、考えられる。

 他人が持ち込んだ構想でも、形にするための道筋を探せる。

 なら、自分のものも作れるはずだった。


 ところが、机へ向かうと、知っている術式ばかりが浮かんだ。

 ここを変えれば、少ない魔力で使える。

 ここの負担を減らせば、もっと安定する。

 そういうことなら、いくらでも考えられる。


 それで紙を埋めてから、気づく。

 また、あるものを直している。


 何もしていなかったわけではない。

 改良は進んだ。

 試した結果も残った。

 それだけでも、研究としては意味がある。

 分かっているから、なおさら腹が立った。

 欲しかったのは、そこではなかった。


 読み返せば、どの本の、どの箇所に似ているかまで分かる。

 覚えているものが、勝手に照らし合わされていく。

 何を直したのかは説明できるのに、今までなかった魔法を、自分で思いつくところへは進めなかった。


 父さんには、研究は楽しいかと聞かれた。


「楽しいです」


 それは、嘘ではなかった。

 できないことが腹立たしいのも、続きをやりたいからだ。


 そんな時、魔法省から依頼が来た。

 アストリア領で起きた魔法事故の確認と、再発を防ぐための監視。

 五歳の子供が、詠唱せずに魔法を使ったという。


 最初に思ったのは、面倒だ、だった。

 ようやく、父さんと暮らせるようになった。

 自分の研究も、進めたい。

 そんな時に、どうして子供の相手までしなければならないのか。


 報告も疑っていた。

 無詠唱を使う者がいることは、知っている。

 私自身も、幼い頃から繰り返し練習し、使い慣れた魔法を、声の助けなしで扱えるようになった。

 けれど、五歳だ。

 何度も同じ魔法を使い、制御を身体に覚え込ませる時間を、その子がどこで積んだのか。

 周囲が何か見誤ったのではないかと思った。


 確かめる。

 危険なら止める。

 必要なことを報告して、帰る。

 そのつもりで、屋敷へ行った。


 レイン・アストリアは、私が抑えていた魔力を見た。

 外へ漏れる気配のことではない。

 私の中を、どう動いているかを話した。


 私には、見えないものを。


 正直に言えば、悔しかった。

 何冊の本を読み、何度、術式を組み直してきたと思っている。

 分からないところを、一つずつ調べてきた。

 その私が、感知から推し量るしかないものを、この子は、そこにあるものとして見ている。


 私にも、その目があれば。

 どれだけのことを確かめられるだろう。


 ずるい、と思った。

 五歳の子供に向かって。

 我ながら、大人げがない。


 でも、その子は、私の魔力を綺麗だと言った。

 積み重ねてきた制御を、自分の目で見て、そう言ったのだ。


 どんなふうに見えているのか、知りたくなった。

 私が毎日動かしているものは、どんな形をしているのだろう。

 魔法になる前に、何が起きているのだろう。

 同じ操作を少し変えれば、その違いまで見分けられるのだろうか。


 悔しがって黙っている時間が、惜しくなった。


 私が知らない。

 それなら、聞けばいい。

 私に見えないなら、見えているものを教えてもらえばいい。

 そこから確かめられることは、きっとある。


 あの子は、何でも分かっているわけではない。

 見えたことを話せても、なぜそうなったかは、まだ分からない。

 私にも、すぐには答えられないことがある。

 だから面白い。


 自分で新しい魔法を思いつけないことが、あの子に会っただけで解決したわけではない。

 それでも、机で知っている術式を眺めていた時とは、違う問いができた。

 まず、何を動かし、何を見てもらおうか。

 どこまでが同じで、どこからが違うのか。


 今は、次の授業を考えると、そんなことが浮かぶ。

 もちろん、基礎はやってもらう。

 見えるからといって、何をしても安全な身体になったわけではない。

 私にも、そこを忘れないだけの分別はある。

 研究を始めると食事を忘れる件は、今は関係ない。


     *


 父さんの指が、少し動いた。


「……セレナ?」


 私は顔を上げた。

 眠っていた父さんが、薄く目を開けていた。


「起こしましたか」

「いや。まだ、ここにいたんだね」

「薬を飲んだか、見に来ただけです」

「ちゃんと飲んだよ」

「知っています」


 空のコップを見ると、父さんは小さく笑った。


「今日は、楽しかったね」

「そうですね。少し、話しすぎだと思いますが」

「私が?」

「ほかに誰がいるんですか」


 蕪のことだと分かったらしく、父さんは、今度は声を立てずに笑った。

 私は布団を直した。


「レインが、授業中に思い出したらどうするんです」

「お前も、笑えばいいんじゃないかな」

「授業です」

「ずっと笑っているわけではないだろう」


 そういう問題ではない。

 けれど、昼のあの子の顔を思い出すと、私も少し笑ってしまった。

 笑いをこらえようとして、余計に顔に出ていた。


「また、同じスープがいいと言っていましたね」

「うん。嬉しかったよ」

「次は、私も手伝います」

「そうしてくれると、助かる」


 父さんは、そこで目を閉じかけた。

 私は椅子から腰を浮かせたが、呼び止められた。


「お前も、今日はもう休みなさい」

「少しだけ、書いておきたいことが」

「一ページかな」


 私は黙った。

 父さんは目を閉じたまま、笑っていた。


「昔も、そのくらいと言っていたね」

「……書いたら、寝ます」

「うん。おやすみ」


 おやすみなさいと返し、もう少しだけ座った。

 父さんの手は、布団の中に戻っていた。


 私は、ここで父さんと暮らしたかった。

 食事に呼ばれて、薬を飲んだか聞いて、ときどき昔のことを持ち出される。

 研究室から出ると、父さんがいる。

 そういう毎日が欲しかった。


 そこへ、レインが来るようになった。

 次に何を尋ねるのか、何が見えたと話すのか。

 それを考えるのも楽しい。

 今日みたいに、一緒に食べて、魔法ではないことで笑うのも、悪くない。


 次の昼食には、先に研究室を出ていよう。

 野菜を切るところから手伝うと、自分で言ったのだから。

 レインが座った椅子の座布団も、あのままでいい。


 父さんの寝息を聞きながら、私は椅子の背に、軽く身体を預けた。

 書いておきたいことはある。

 でも、今すぐ立たなくてもいい気がした。


 明日もきっと、悪くない一日になる。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


魔法への情熱や自負、不器用さ、そして父への思い。レインの目からは見えなかったセレナの一面を、楽しんでいただけたでしょうか。


次話からは、五年後のレインを描く少年期編が始まります。

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