第九話「五年の先に」
食堂の椅子に腰を下ろしたところで、母様が俺の手元を見た。
「レイン。その服も、そろそろ替えどきですね」
パンの籠に伸ばした腕を戻す。袖から手首が出ていた。
昨日も、剣を振るたびに気になったところだ。
「まだ着られると思ってたんだけど」
「腕を伸ばしてみてください」
言われたとおりにすると、袖口がさらに上がった。向かいで父様が笑う。
「それでは、冬になる前に困るな」
「今日、寸法を測ってもらいましょう。オスカー、午後の予定に入れられますか」
「授業の前でしたら。裁縫係に伝えておきます」
座布団を重ねなければ皿も見えなかった俺が、今では父様と同じ高さの椅子に座っている。
十歳になった。
先生に魔法を教わり始めてから、五年。身長だけでなく、食べる量も、できることも、随分増えた。
皿に載った肉を切り分けていると、父様が尋ねた。
「今日はイアンとだったな」
「はい。前は勝てたので、今日も勝ってきます」
「向こうも、同じ負け方はせんだろう」
「だから、前とは違う攻め方を考えてきました」
「ほう。それは見たいな」
父様がオスカーを見る。オスカーは手にしていた予定表を、少し持ち上げた。
「午前のお仕事を済ませていただければ」
「……そうだったな」
父様がパンを口に運ぶ。俺は笑いそうになって、先に水を飲んだ。
「帰ってきたら、話を聞かせてくれ」
「うん。勝ちを話せるようにします」
母様は、俺の皿が空いたのを見て、もう一切れ肉を載せてくれた。
*
練習場に着くと、木剣が盾を打つ音が迎えてくれた。
その奥では、魔法兵たちが石の的を並べている。俺も荷物を置き、重そうな台車の持ち手に手を掛けた。
「そこの窪みは、右から回りましょう」
反対側を押していたイアンさんが声をかける。日に焼けた腕には、もう汗が浮かんでいた。
「おはようございます。今日は、的を増やすんですか」
「距離を変えて撃てるように。昨日、あいつと並べ方を考えたんですが――おい、今来たのか」
彼が顎を向けた先から、若い兵が走ってきた。
「悪い! 起こしてくれればよかったのに」
「三回起こした。三回とも、今行くって言ってたぞ」
「……本当に?」
「次から四回目は、水をかけるからな」
イアンさんは持ち手を渡し、台車の向きを変えるところまで手伝った。それから俺に向き直る。
「お待たせしました。今日は、俺が勝ちますよ」
「そう言われると思ってました」
「言うだけでは終わらせませんから」
イアンさんが笑みを収める。俺も上着を脱ぎ、袖をまくった。
領軍の訓練に参加するようになったのは、最近のことだ。イアンさんはまだ若いが、街道の見回りにも魔獣の討伐にも出る、れっきとした魔法兵だった。
初めて勝てた日は、帰り道まで顔が緩んでいた。負けた日は、夕食の間も、何が悪かったのか考えていた。
今日は、勝つ。
練習場の中央で向かい合うと、木剣の稽古を終えた兵たちが集まってきた。
立ち合いの兵が、俺たちを順に見る。
「降参するか、続けられなくなれば終わりだ。火は人に向けるな。危ないと判断したら、こちらで止める」
威力は訓練用に抑える。けれど、手加減してもらえるわけではない。
横手に立つ先生が、見物の兵を下がらせた。俺は足を開き、身体に魔力を巡らせる。
「始め!」
「水よ、集いて弾となれ――《水弾》!」
イアンさんの前で、水が三つに分かれた。
まず一発が胸に迫る。横に避けると、次はその行く手に。足を止めたところに、三発目が飛び込んでくる。
(そこまでは、前と同じだ)
足元の土を盛り上げた。二発の水が低い壁に砕ける。その脇を抜けながら、今度はこちらが撃った。
右手から水弾。続けて左手から、小さな火球。
火はイアンさんの横の地面で弾けた。彼が逆側に踏み出す。その胸に向けて、水をもう一発。
「魔力よ、盾となれ!」
水が散った。
イアンさんは間を置かず、次の詠唱に移った。
「風よ、集いて弾となれ――《風弾》!」
砂を巻き込んだ風が来た。
身を沈め、一発目を頭の上に通す。二発目には斜めに結界を張った。腕に衝撃が響いたが、風は横に流れ、足は止まらない。
そのまま踏み込み、水弾を二つ続けて放つ。
「詠唱がないと、あんなに間を詰められるのか」
「土から火、水だぞ。守る方はたまらんな」
兵の声が聞こえた。
だが、イアンさんは下がるだけではなかった。一発を結界で受けると、次は身体を沈めて避ける。水が肩をかすめたときには、もう反撃の詠唱が終わっていた。
正面に水弾。
胸の前に結界を張った。その表面で水が弾け――脇腹に、別の衝撃が食い込んだ。
「っ!」
水の一部が、結界の横から回っていた。
息が詰まる。さらに飛んできた一発を、地面を蹴ってかわした。シャツの裾が濡れ、足元にしぶきが落ちる。
(今の、分けたのか)
正面の水に目を奪われた。青い魔力が横に伸びたのは見えたのに、それが脇を狙う水になるまで、気づかなかった。
イアンさんは俺が退いた分だけ前に出た。次の水が、もう手元に生まれている。
受ける場所を、向こうに選ばせたくない。
今度は水の進路から外れ、残ったしぶきを結界で払った。空いた手から、地面に火球を撃つ。
イアンさんが横に跳んだ。その着地に合わせ、土を一段だけ盛り上げる。
靴が引っ掛かった。
(今だ!)
傾いた胸に水弾を撃ち込む。
しかし、彼の結界は下がらなかった。水が砕ける間に片手を地面につき、身体を起こしている。
「風よ、集いて――」
俺は土壁を立ち上げた。
風が壁を砕く。降りかかる土を避け、横から抜けようとした瞬間、イアンさんと目が合った。
こちらに掌を向けていた。
(待たれて――)
二発目の風が、張ったばかりの結界を叩く。
足が滑った。押し戻される。
ここで離れたら、また次を撃たれる。俺は踏ん張り、結界を支えたまま、もう片方の手に水を集めた。
胸を狙う一発。それを防いだイアンさんの足元に、もう一発。
彼が足を引く。その一歩に、俺も踏み込んだ。
「風よ、集いて――」
イアンさんの掌に、白銀の魔力が集まる。
あと一歩。
俺は腰を落とし、上がった腕の下に水弾を撃ち込んだ。
鈍い音がした。
イアンさんの膝が地面につく。だが、掌はこちらに向いたままだ。
俺も、次の水弾を留めた。
息が苦しい。動けば、まだ撃たれるかもしれない。
イアンさんが俺の手元を見て、息を吐いた。
「……参りました」
「そこまで!」
水を解くと、急に足の力が抜けそうになった。
勝った。
脇腹は痛いし、靴の中まで土が入っている。それでも、嬉しさがこみ上げてきた。
「今のは、ぎりぎりでした」
「ぎりぎりでも、負けは負けです」
イアンさんは立ち上がり、膝の土を払った。
「壁を壊したところで、もっと離れると思ったんですが」
「離れたら、イアンさんの好きな距離になるでしょう」
「……次は、近づく前に止めます」
「僕も、次は脇に当てられません」
互いの濡れた服を見て、二人で笑った。
立ち合いの兵が寄ってくる。
「イアン、最後に下がったとき、足が揃ったな」
「はい。受け直すのが遅れました」
「レイン様は、よく追いました。あそこを逃さなかったのが勝ちです」
あそこで踏み込んだことを、見てくれていた。
「お前、十のころにあれができたか?」
見物していた兵の一人が、隣の男に尋ねた。
「俺は、そのころ、まだ水を丸めるので精一杯だったよ。軍の魔法兵と渡り合うなんて、とても」
イアンさんは濡れた袖を絞りながら、苦笑した。
「俺は、忘れないとやってられません。次に勝つことだけ考えます」
どっと笑い声が上がった。俺まで笑うと、イアンさんがこちらを見て、口の端を上げた。
「レイン様も、次は覚悟しておいてください」
「はい。楽しみにしてます」
差し出された手を握った。俺の手よりずっと大きく、掌は硬かった。
この手で杖を握り、魔獣と戦っている人に勝ったのだ。
握り返す力が、自然と強くなった。
次の組に場所を譲り、水を飲んで一息ついた。
兵の一人が水弾を横にかわす。後ろの土の斜面で、水が砕けた。
「レイン様、次は俺とも一戦お願いします」
見物していた兵に呼ばれた。
「あの速さ、一度相手にしておきたいんです」
「はい。お願いします!」
思ったより、大きな声が出た。
ここに来るまでは、混ぜてもらえるだけで嬉しかった。それが今は、向こうから次の相手にと誘ってもらえる。
誰かを守るときにも、この人たちに頼りにしてもらえたら。
そんな自分を、少しだけ想像できた。
*
模擬戦のあとには、的撃ちがあった。
土の斜面を背に並んだ石に、兵たちが順番に魔法を撃つ。俺は水と風を試したあと、最後に雷を選んだ。
手の先に紫の魔力が寄る。
細い雷なら無詠唱でも操れるが、厚い石を貫く一撃は、まだ詠唱に合わせる方が安定した。
「雷よ、迸りて穿て――《雷撃》!」
紫電が走り、石の中央が砕けた。
穴の向こうに、斜面の土が見える。狙いは外れていない。
「では、次は細い雷で。遠い的から順に」
先生の言葉に頷き、今度は三つの小さな的に手を向けた。
息を整える。
一つ、二つ、三つ。
雷が順に白い円を貫いた。手を下ろすと、先生も頷いてくれた。
片づけが始まるころには、服もほとんど乾いていた。
イアンさんと的を運んでいると、朝寝坊してきた兵が、今度は桶を抱えて走ってきた。
「イアン、悪い。こっちも頼んでいいか。炊事当番なんだ」
「先に行け。鍋まで焦がすなよ」
「助かる!」
走り去る背中に、年かさの兵が声を飛ばした。
「明日の片づけは、お前がやれよ!」
「分かってます!」
返事を聞いてから、その兵がイアンさんを見た。
「お前も、何でも引き受けるな。裏の的がまだだろう」
「でも、あいつを待ってたら、飯も遅くなるでしょう」
「それはそうだが」
俺は、足元の桶を持ち上げた。
「これは僕が戻します。イアンさんは、裏の的を」
「ありがとうございます。そっちは取っ手が緩いので、底も持ってください」
「前に誰か、落としたんですか」
「俺です」
年かさの兵が笑い、俺もつられた。
イアンさんは空いた台車を引いていく。俺は桶を一つずつ道具置き場に戻した。
先生は午後も練習場に残り、兵たちの射撃を見ていくという。
次の的を並べ始めた兵たちに挨拶をして、俺は屋敷に戻った。
*
昼食と採寸を済ませ、オスカーの部屋へ向かった。
向かいの椅子に座ると、今日の授業は一つの問いから始まった。
「不作で領民の食料が足りなくなったとします。他家から、無償で援助するという申し出があれば、レイン様ならお受けになりますか」
「受けます。借金と違って、返す必要はないんですよね。領民も助かるし、こちらに損がないなら、もらっていいと思います」
「本当に、損はありませんか」
すぐに頷きかけて、考え直した。
食料をもらって、何も返さなくていい。確かに、こちらに都合がよすぎる気もする。
助けてもらった相手に、何かを頼まれたら。
「……『恩』、ですか?」
「ええ。では、他家に恩ができると、どのような不都合がありそうですか」
「そうですね……。援助を受けた家の『政治的な独立性』が、揺らぐかもしれません」
「もう少し詳しく聞かせてください」
俺は、父様が出席する会議を思い浮かべた。
「例えば、国の方針を決める会議で、助けてくれた家と意見が割れたとします。そのときに、こちらに協力してほしいと言われたら、断りづらいでしょう。恩があるからと、本来の考えを曲げるかもしれません」
「なるほど。それを踏まえて、援助を受けることをどう考えますか」
「それでも……受けていいと思います」
オスカーは急かさずに、続きを待っている。
「領民が困っているのは、変わりませんから。何か頼まれたら必ず従うという約束でもないし、断りづらくなることより、今、食料をもらえる方が大きいと思います」
「私も、概ねそのとおりだと思います。ただ、援助を受け続けることで、もっと危険な状態になる場合もあります」
「もっと危険な状態?」
「例えば、助けてくれた家がたいへん裕福で、他家への援助も惜しまないと評判だったら、どうでしょう」
また困ったら、頼れそうだ。
そう思ってから、オスカーの続きを聞いた。
「援助を受けた領地には、ほかにも直したい道路や診療所があります。限られた予算を何に使うか。次の不作でも助けてもらえるだろうと考え、備蓄に回すはずのお金を、そちらに使ったとします」
「道路も診療所も、必要ですものね」
「ええ。直す理由は十分にあります。そして、再び不作が起きたときも、援助を受けられました。この先も、同じつもりで領政を続けたら、何が問題になるでしょうか」
道を直した次には、また別の使い道が見つかるだろう。助けてもらえるなら、今困っているところに使いたくなる。
だが、それを繰り返していたら。
「……『依存』してしまう、ということですか?」
「はい。援助が来ることを前提にして、ほかの備えや食料を調達する手段を持たなくなれば、その家の支援なしでは領政が立ち行かなくなります。そこまで頼るようになると、恩は、断りづらいという気持ちだけでは済みません」
「断って援助が途絶えたら、領民が困るから……」
さっきは、嫌なら断ればいいと思っていた。
けれど、断ったあとの食料がなければ、そう簡単には決められない。
「法律上は独立していても、実際には、相手に従うしかなくなるかもしれませんね」
「ええ。援助を受けられなかった場合に、どうするか。恩ができることに加えて、依存せずに済む方法も考えておかなければなりません」
「なるほど……」
頷いてから、少し引っ掛かった。
では、道や診療所はどうなるのだろう。助けてもらわずに済むだけの備えを持つには、その分のお金がいる。
「でも、領を治める家にとって大事なのは、政治的な独立性を守ることより、領民が豊かに、幸せに暮らせることではありませんか? 援助してくれる家に従うことになっても、そのおかげで道が直って、診療所が使えるなら。領民にとっては、その方がいい場合もあると思います」
「そのような見方もできますね」
否定されなかった。
だからといって、さっき聞いた、援助が途絶えたときの危うさが消えたわけでもない。
「……難しいですね。どれが正解なのか、分からない」
魔法なら、試して、狙ったとおりにできたかを確かめられる。
けれど、今の領民の暮らしをよくする選択が、先々までよい結果になるとは限らない。どうすればよかったのか、すぐに答えが出るわけでもないのだ。
「ええ。だからこそ、領主は常に考えなければなりません。自分の選択が、どのような影響を及ぼすのかを」
*
授業を終えたところで、父様がオスカーを訪ねてきた。
俺が席を立とうとすると、外で馬の蹄が鳴った。
駆けてくる音。門前で止まり、すぐに人の声が上がった。
父様が廊下を向く。
「レオン様!」
階段を駆け上がってきた伝令を、父様は開けた扉の前で迎えた。
「風喰狼の群れです! 北の山道を、集落に向かって下っています!」
「場所を示せ」
オスカーが領内の地図を取り出し、机に広げた。
伝令は息を切らしながら、山道の曲がり角を指す。父様がその先の集落を確かめたとき、二人目の兵が戸口に現れた。
「東の街道にも出ています! 畑にいた者を領都に戻していますが、まだ全員は――」
「どこだ」
「こちらの林からです」
地図に、もう一つの指が置かれた。
山道と街道。離れた二か所だった。
「セレナ殿を呼べ。練習場にいるはずだ。領軍には出動を伝えろ」
「はっ!」
戸口の兵が駆け出した。
父様は俺に向き直る。朝とは、目が違った。
「レイン。訓練の疲れは残っているか」
「いえ。魔法も使えます」
椅子の下で、右手を開く。
魔力は指先まで、滞りなく流れた。午前中、石を貫いた雷も、今なら撃てる。
父様はそれを聞くと、オスカーに目を移した。
「お前たちも、俺と来い」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




