第十話「風喰狼」
オスカーが地図を畳み、俺たちは父様に続いて階下へ下りた。
広間には、出動を知らせに来た兵が待っていた。地図が卓に広げられると、父様は伝令に顔を向けた。
「住民に近いのは、どちらだ」
「東の街道です。林から出た群れが畑に入りました。近くの家にも、風撃を受けています」
「避難は」
「見張りが誘導しています。ただ、畑に残っている者がいないか、まだ確認中です」
父様は地図の上で指を動かした。林から畑を横切り、街道へ。
「街道の守備隊に伝えろ。住民を領都へ避難させ、確認が済むまで持ち場を離れるな。救護の馬車も出す」
「はっ!」
兵が走り去る。その足音が消える前に、父様はもう一人を見た。
「北の集落には、まだ届いていないのだな」
「はい。見張りが山道に残っています」
「住民を下へ逃がせ。家に戻る者がいないかも確かめろ」
オスカーが地図の端を押さえ、父様に各隊の所在を伝えた。
兵舎にいる隊。巡回から戻る隊。領都の門を守る隊。
父様は守りに残す隊を決め、駆けつけた隊長に街道の防衛を命じた。
魔導大隊へも伝令が走る。オスカーが兵の用意を確かめる間にも、次の報告が入ってきた。
廊下を急ぐ足音がした。
「二方面と聞きました」
先生が戸口に立っていた。紺の衣の裾には、練習場の土がついている。
「北の山道と、東の街道だ。街道では、すでに家が襲われている」
先生は父様の隣で地図を覗き込んだ。山道から集落までを指でたどる。
「山道は、私が引き受けます。兵は街道へ」
部屋に残っていた兵が、顔を上げた。
「お一人で、ですか」
「はい。集落まで下ろしません」
父様は先生を見た。
「任せてよいのだな」
「ええ」
「では、頼む」
返事を聞くと、父様は伝令に向き直った。
「北へ出す予定の隊は、集落の避難を助けろ。済み次第、東の街道へ回せ。魔導大隊長には、支度のできた小隊から先行させるよう伝えろ。各隊長は街道の分かれ道に報告を寄せろ。俺はそこで指揮を執る」
伝令が指示を繰り返し、広間を出ていった。
山道に沿って並ぶ集落の印を見た。そこへ下る群れを、先生が一人で止める。
思わず、その顔を見上げた。
先生は、山が見える窓に目を向けていた。
「オスカー。お前は屋敷に残れ。警護の指揮と、領都に戻る住民への対応を頼む」
「承知いたしました。負傷者を受け入れる場所も整えます」
「レインは、第三魔導小隊に入れ。イアンに伝えろ」
俺は顔を上げた。
「イアンさんのところですか」
「ああ。攻撃を受け持ってもらう。現場ではイアンの指示に従え。離れて追うな」
「はい!」
父様が頷いた。
俺は椅子の背に置いていた手を離した。
部屋を出ると、先生が廊下の窓を開けた。風が吹き込み、紺の裾が揺れる。
「先生、気をつけて」
「ええ。行ってきます」
次の瞬間、先生の身体は窓の外へ浮き上がった。
俺も、自分の部屋へ走った。
*
上着を替え、靴の紐を結び直す。
最後の結び目を引いた手を、そのまま見つめた。
五歳のころは、この手に集める魔力さえ、止められなかった。
膨れ上がった炎。右手の痛み。目を覚ましたとき、そばにいた母様。
それから五年、先生に教わってきた。
水を丸め、形を崩しては作り直した。走りながら結界を張り、息が切れても狙いを外さないよう、何度も的に向かった。
掌を開く。
魔力が指先まで流れ、戻そうと思えば、すぐに戻った。
(まずは、ここまで来た)
自分を傷つけた力で、今度は誰かを守りに行く。
手を握り、扉を開けた。
廊下には母様がいた。
肩の留め具に手を伸ばし、ずれていた金具を直してくれる。指がそこで、少しだけ止まった。
「無事に帰ってきてください」
「うん。行ってきます」
母様の目を見て答えた。
頬に触れた手は温かかった。離れていく指を見送り、階段へ向かった。
前庭には、兵の列ができていた。
杖を手にした一団が、出発を待つ列の脇を通り抜ける。門の外からも兵が到着し、隊長に報告しては自分の列へ加わった。
「第三魔導小隊、揃ったか」
イアンさんの声が聞こえた。
「あと一人です。馬を連れてきています」
「来たらすぐ出る。替えの魔晶石は分けて持て。一人にまとめるなよ」
返事をした兵が、隣の仲間に革袋を渡す。
イアンさんは俺に気づくと、俺の馬の手綱を受け取った。
「レイン様。俺の隣へどうぞ」
「はい。よろしくお願いします」
「狙いがついたら、遠慮なく撃ってください。ただし、俺が止めたらすぐに止めること」
言いながら、俺の足が鐙に掛かるまで馬を押さえてくれる。
鞍に腰を落ち着けると、イアンさんも自分の馬に乗った。
「イアンさん」
「はい」
「今度は、同じ側ですね」
イアンさんが少し笑った。
「ええ。朝みたいに、俺を狙わないでくださいよ」
「狙いませんよ」
俺も笑うと、手綱を握り直した。
父様が玄関から出てきた。石段の上で母様と短く言葉を交わし、馬に乗る。
隊長たちが顔を向けた。
「出るぞ。街道の住民を守る」
門が開き、先頭の列が動き出した。
*
領都の出口では、荷車が道の端に寄せられていた。
兵が車輪を押し、子供を抱いた女の人を通している。袋を背負った男が、その後ろを急いだ。
「中へ入ってください! 広場で案内しています!」
道の向こうからも、人が戻ってくる。
荷車の端で、小さな子供が根菜を抱えていた。
土のついた葉が、車輪の揺れに合わせて震える。
俺たちの列を見ると、子供は根菜を抱え直した。声は出さなかった。
俺は手綱を引き、荷車に道を譲った。
門を抜けたところで、胸の鼓動がまた速くなった。
何度も練習した。朝はイアンさんにも勝てた。魔法を撃つ手順も、結界の張り方も、身体に染み込んでいる。
それでも、馬の歩みに合わせて近づく林を見ると、指が落ち着かなかった。
「手綱、少し緩めてください。馬まで力が入ります」
隣でイアンさんが言った。
握っていた手を緩める。息を吐くと、思っていたより長く続いた。
「……分かりますか」
「俺も最初は、ずっと握り締めていましたから」
「イアンさんも?」
「ええ。着いてから、指が開きにくくて困りました」
杖を握る右手を、彼が一度開いてみせた。
「狼が来たら、まず俺たちの場所を確かめてください。一頭見つけたからと、先へ出ないこと。足を止め、狙いを定めて撃ってください。撃つ間は、俺たちが守ります」
「はい」
「背中は任せてください」
俺は指を一本ずつ動かした。
掌に集めた魔力は、いつもと同じように収まった。
手綱を持ち直す。今度は、指に余計な力を入れずに済んだ。
道を上りきったとき、北の山肌に白い筋が走った。
木立を横切り、山道を塞いでいく。
まだ伸びる。
梢を越え、さらに上へ。
「……あれ」
氷の壁だった。
青く透けた面に陽が当たり、白い霞が縁から吹き上がる。山道の曲がりに沿って折れた壁は、斜面の向こうへ続いていた。
家をいくつ重ねれば、あの高さになるのだろう。
壁の上に、小さな光があった。
目を凝らす。
人影だ。
足場もない空に浮かび、紺の衣を風になびかせている。その周りを巡る魔力が、遠くからでも眩しかった。
「先生……」
教えてもらった氷の形を、一つ大きくしただけでは、あんなものにならない。どれだけの魔力を、どれほど広く操っているのか。見上げても、端まで追い切れなかった。
イアンさんも、口を閉じたまま山を見ていた。
父様が一度、北を振り返った。
すぐに前を向き、馬を進める。
俺たちも続いた。山へ向かって列を離れる兵は、一人もいない。
あそこには、先生がいる。
(いつか、俺も)
氷を目に焼きつけた。
今は、イアンさんたちと街道を守る。
*
分かれ道には、すでに伝令が待っていた。
父様が馬を止めると、別の道からも兵が駆け寄ってくる。
「東の家々は避難が済みました。林沿いに、まだ群れが残っています」
「奥の畑は」
「確認中です。守備隊が水路沿いを押さえています」
父様は隊長を呼び、畑へ兵を向かわせた。
別の隊長には、街道の守備隊との交代を命じる。
報告を聞き、指示を返すたび、兵が違う道へ走っていった。
「第三魔導小隊は、畑から街道へ出る群れを止めろ。避難を終えるまで、そこを支えるんだ。後続も回す」
「はっ!」
イアンさんが答え、俺を見る。
「行きましょう」
「はい」
父様と目が合った。頷きを返し、俺は第三魔導小隊の列についていった。
街道沿いの家は、壁が裂けていた。
石積みの上に残った板が、ささくれた端を外へ突き出している。その先の石垣も、一部が崩れていた。
馬を下り、手綱を馬の世話に残る小隊の兵に預けた。イアンさんと、街道を背にして土手に上がる。
前には畑が広がり、その向こうに林があった。第三魔導小隊の兵たちが土手の縁に並び、林へ杖を向けた。
幹の間から、灰色の肩が現れた。
太い前脚が草を踏み分け、長い鼻先がこちらを向く。背中に引っ掛かっていた枝が落ちても、狼の目は動かなかった。
こちらを見ている。
「グルルル……」
唇がめくれ、牙が覗いた。
低い唸りが腹に響く。図鑑で見た狼より、ずっと胸が厚い。
その後ろにも、一頭。さらに、枝葉の向こうで灰色の背が動いた。
「喉が膨らんだら、風撃に備えてください」
イアンさんが杖を構えた。
「風嚢ですね」
「ええ。膨らんでから撃つまでの間は、個体によって違います。――止まったやつから目を離さないように」
兵たちが間隔を空けて立ち、イアンさんの両脇に結界を張った。俺も狼を捉え、掌に魔力を集めた。
先頭の狼が、喉を膨らませた。
毛の隙間から薄い皮膚が覗く。
「来るぞ!」
正面に結界が張られた。
「バンッ!」
空気が破裂した。
結界の表面が白く光り、弾かれた風撃が土手を削る。砂と小石が顔のそばを飛んだ。
結界を支える兵が一歩押し戻された。隣の兵も杖を向け、結界を重ねる。
もう一発が外れ、背後で木の割れる音がした。
(あれが生身の人に当たったら――)
割れた家の壁が、頭をよぎった。
前を見直す。結界は破られていない。兵が息を吐き、杖を構え直している。
イアンさんも、下がっていない。
「レイン様、撃てますか」
「撃てます」
狼に掌を向けた。
紫の魔力が指先に集まる。撃った雷が、その胸を捉えた。
灰色の身体が倒れ、土を滑る。
「その調子です。次、来ますよ!」
イアンさんの声に、俺は次の狼へ手を向けた。
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