第八話「父と娘」
先生が結界を解いたのは、俺の脚の震えが収まってからだった。
手を繋いだまま岩場を離れ、道で待っていた人たちに討伐が済んだことを伝える。馬車へ戻る俺たちに、礼を言う声がいくつも掛かった。
帰り道、俺は向かいの席に座る先生の手を見ていた。
外套の裾を直し、膝に置かれた手。さっきまで、その片方を俺が握っていた。もう片方から生まれた氷は、先生の背丈よりも長かった。
目を閉じても、空に並んだ三本が浮かんでくる。
(あれを、片手で)
「レイン。疲れましたか」
「……すごかった」
もっと言いたいことがあったのに、それしか出てこなかった。
陽を透かした氷の青さ。逃げようとした飛竜が、風に押し戻されたところ。その間、ずっと動かなかった先生の横顔。
「先生は、あんなことができるんだね」
「長く練習してきましたから」
「うん。……すごかったです」
また同じことを言ってしまった。先生は笑わずに頷いてくれた。
窓の外では、岩山が遠ざかっていた。もう氷は見えない。それでも、山が木々に隠れるまで、何度も振り返った。
屋敷に着くと、母様が迎えに出てきてくれた。
先生の魔法の話をしながら外套を脱ごうとしたら、袖に手が引っ掛かった。母様に直してもらう間も、話は止まらなかった。
そのあと、帰りかけた先生が足を止めた。
「明日なのですが、昼食をご一緒しませんか。父が、あなたに会ってみたいと言っていまして」
「先生のお父さんが?」
「ええ。私が、あなたの話をするものですから」
研究館で一緒に暮らしているのだという。
行きたいと答えてから母様を見上げると、母様も頷いてくれた。
「では、オスカーに送ってもらいましょう」
先生のお父さん。
あんな魔法を使う娘と、家ではどんな話をしているのだろう。
*
翌日の昼前、オスカーに連れられて研究館を訪ねた。
石造りの建物の窓が一つ開いていた。壁際には鉢植えが並び、扉に近づくと、肉を煮る匂いがした。
先生に迎えられて廊下を進む。食卓のある部屋まで来たところで、隣の台所から男の人が顔を出した。
「いらっしゃい。ちょうど、煮えたところですよ」
淡い栗色の髪に、白いものが混じっていた。痩せた身体に前掛けを掛け、手に持った布で指を拭いている。
「レイン・アストリアです。今日は、お招きいただいてありがとうございます」
「エドモン・ミレイユです。会えるのを楽しみにしていました」
エドモンさんは俺の前で少しかがみ、顔を見て笑った。
「本当に、五歳なのですね」
「はい」
「娘の話を聞いていると、ずいぶん大きなお弟子さんが来ているようで」
「五歳だとは、初めに言ったでしょう」
「聞いたよ。でも、毎日あんなに質問されると言うから、どんな子なのかと思ってね」
俺は先生を見上げた。
「僕のこと、そんなに話してるんですか」
「授業で何をしたか、話すことはあります」
「昨日は、夕食のあとも続きを聞いたよ」
「父さんが、聞いたのでしょう」
先生はそう言って、台所へ顔を向けた。
「鍋は、私が運びます。父さんは座っていてください」
「分かった。では、パンをお願いできるかな。切ったものが籠にあるから」
「それも持ってきます」
エドモンさんは俺の椅子を引いてくれた。座面には厚い座布団が載っている。
俺が上がると、食卓の皿がちょうどいい高さになった。
「食べにくくはありませんか」
「大丈夫です。お皿の中も見える」
「よかった。セレナが、もう一枚いるだろうかと迷っていたので」
鍋を運んできた先生が、俺の座っている高さを確かめた。
「それなら、そのままでいいですね」
「はい。ありがとうございます」
先生は頷き、鍋敷きの上に鍋を置いた。
オスカーが迎えの時刻を確かめて帰ると、エドモンさんは自分の椅子に腰を下ろし、蓋を取った。湯気が上がり、部屋にスープの匂いが広がる。
「お腹は空いていますか」
「空いてます」
「それなら、よかった。朝から作った甲斐があります」
大きなお玉で、俺の皿にスープをよそってくれた。小さく切った肉の間に、白い根菜がごろりと入る。
「エドモンさんが作ったんですか」
「ええ。娘から聞く話だけでは物足りなくなって、お昼に呼んでくれと頼んだのは私ですからね」
「それで、朝から張り切りすぎたんです」
先生がパンの籠を置きながら言った。
「煮込む間は座っていたよ。お前も見ただろう」
「見ていない間に、ほかのことを始めるでしょう」
「今日は、もう食べるだけだ」
エドモンさんが両手を膝に置いてみせると、先生はようやく俺の隣に座った。
「研究室まで呼びに行かずに済んだのも、久しぶりだね」
「今日は、お客様がいるでしょう」
「いつも、このくらい早く出てきてくれれば、温め直さずに済むんだけどね」
「……明日は、気をつけます」
先生が俺にスプーンを渡した。
「熱いですから、少しずつ食べてください」
息を吹きかけてから、一口飲んだ。肉の味のあとに、野菜の甘さが残る。
白い根菜は、スプーンで押すと簡単に割れた。口に入れると、熱い汁がじわりと出てきた。
「おいしい」
「蕪は、苦手ではなかったですか」
「はい。うちでも食べるけど、こんなに大きくないから、違う野菜かと思いました」
「これくらいに切るのが好きなんです。よく煮ると、柔らかくなりますから」
エドモンさんも一つすくい、俺の隣の皿へ目を移した。
「セレナも、今は食べられるようになりましたし」
「父さん」
先生のスプーンが止まった。
「先生は、苦手だったの?」
「小さいころの話です」
「皿の端に、きれいに並べていたんですよ。肉の下へ隠したこともありましたね」
「それは、もっと小さいころでしょう」
「レイン君くらいだったかな」
俺は自分の皿を見た。肉を全部集めても、この蕪は隠れそうにない。
「見つかっちゃいますね」
「ええ。肉だけ食べると、下から出てきますから」
笑ってしまった。
先生がこちらを向いたので、慌ててスプーンを持ち直す。
「今は、残していません」
「うん」
「レイン。分かっていますか」
「分かってます。でも、先生にも嫌いなものがあったんだと思って」
先生は何か言いかけ、いったん口を閉じた。それから蕪をすくい、ごく普通の顔で食べた。
エドモンさんが嬉しそうに頷く。
「ほら。もう、おいしく食べてくれるんです」
「父さんに、今、確かめてもらわなくても結構です」
先生は少し唇を尖らせてから、俺の視線に気づき、背筋を伸ばした。
「……授業中に、思い出して笑わないように」
「気をつけます」
「そこは、笑いませんと言ってください」
エドモンさんが声を立てて笑った。俺もこらえきれなかった。
先生は俺たちを順に見て、困ったように息をついた。その口元も、少し緩んでいた。
*
パンを半分ほど食べたところで、エドモンさんに魔法以外では何をして遊ぶのかと聞かれた。
庭を歩くこと。父様が剣を振るところを見ること。屋敷の裏にある稽古場の話をすると、エドモンさんは窓の外を見た。
「お父様と一緒に歩くのですか」
「はい。でも、父様は一歩が大きいから、僕が急がないと先に行っちゃうんです」
「それで、手を繋ぐのかな」
「うん。先生と歩くときも、そうです」
隣の先生が、パンをちぎりながら頷いた。
「あなたは、気になるものがあると、立ち止まってしまいますから」
「先生も、待ってくれます」
「ええ。見終わるまでね」
エドモンさんは、俺が話し終わるまで、次のことを聞かずに待ってくれた。
だから、昨日の飛竜の話もした。
「怖くて、脚が動かなくなったんです。でも、先生がずっと手を握ってくれてて。もう片方の手で、大きな氷を三本も作って」
「君の手を、離さずに?」
「はい。先生は、少しも慌ててませんでした」
先生の手を見た。今はパンの欠片を皿に置いている。
エドモンさんもその手を見て、それから娘の顔へ目を上げた。
「セレナからは、無事に済んだとしか聞いていませんでしたよ」
「街道も通れるようになったと、伝えました」
「そうだったね」
エドモンさんは娘を見て、笑った。
「でも、お前の仕事を見た人から聞くのは、また違うね」
先生はパンの籠を父親へ寄せた。
「心配するようなことは、ありませんでしたから」
「うん。二人とも、こうして食べに来てくれて、よかった」
エドモンさんがパンを一つ取った。
俺もスープを飲もうとして、皿がほとんど空になっていることに気づいた。
「まだ食べますか」
「少し、ほしいです」
差し出した皿に、エドモンさんがもう一度よそってくれた。
蕪が一つ入ったところで、俺は思わず先生を見た。
「レイン」
「まだ、何も言ってません」
「顔に出ています」
今度は、先生も笑った。
*
食事が終わるころ、エドモンさんが口元を布で覆った。
咳が、二度続いた。
先生の椅子が動く。すぐに父親の隣へ回り、背中に手を添えた。
「父さん。お水は飲めますか」
エドモンさんが頷いた。先生がコップを寄せると、少しずつ飲み、ゆっくり息を吐く。
俺はスプーンを置いたまま、二人を見ていた。
「……つい、話しすぎたね」
「まだ、苦しいですか」
「もう大丈夫だよ。少し休もうかな」
先生はその顔を確かめてから、背中に添えた手を離した。
エドモンさんが立つと、俺も椅子を下りた。窓際の椅子に本が載っていたので、横の小さな机へ移す。
「ありがとう。そこに置いてください」
腰を下ろしたエドモンさんが、俺に笑いかけた。
先生は窓を半分閉め、膝に掛ける布を持ってきた。布の端を直す指を見ながら、俺は食卓のそばに立っていた。
「先生。お皿、運んでもいいですか」
「では、あなたの皿をお願いします。台所の台に置いてください」
両手で持ち上げると、まだ少し温かかった。
台所まで運び、台の縁に置く。後ろから来た先生が、落ちない位置へ寄せてくれた。
「ありがとうございます」
先生は俺の顔を見て、小さく笑った。
俺は頷いて、部屋に戻った。
*
窓際へ行くと、エドモンさんが外の鉢植えを指した。
「スープに入れた葉は、あそこで育てているんですよ」
「あの、細い葉っぱ?」
「その隣です。丸い方」
窓枠に手を置いて覗き込むと、丸い葉の先がこちらへ伸びていた。
「前は畑で育てていたんですが、身体を悪くしてからは、このくらいにしています」
「ここなら、すぐ取れますね」
「ええ。食べる分だけ、少しずつね」
台所から、食器の触れ合う音がした。
振り返ってから、エドモンさんのそばへ戻った。
「また来てもいいですか」
「もちろんです。次は、お父様との散歩の話も、聞かせてください」
「はい」
食卓には、先生の使ったコップが一つ残っていた。俺の椅子には、厚い座布団もそのまま載っている。
「先生、今日はいっぱい笑ってましたね」
「少し、昔の話をしすぎましたかね」
「あとで、怒られますか」
「たぶん。でも、君も笑ってくれたので、私は楽しかったですよ」
俺も笑った。
エドモンさんはしばらく食卓を眺め、それから台所へ目を向けた。
「あの子は、好きなことを始めると、食事に呼んでも気づかないことがあるんです。話しかけても、頭の中では、まだ続きを考えているのでしょうね」
「魔法のこと?」
「ええ。今日も、君が帰ったら研究室へ行くのでしょう。でも、またこんなふうに食べに出てきてくれたら、嬉しいですね」
台所では、まだ食器の触れ合う音がしていた。
エドモンさんが俺を見て、少し声を落とした。
「あの子を魔法だけにしないでください」
俺は、返事ができなかった。
エドモンさんの声は優しかった。けれど、さっきまでの話と同じようには、頷けなかった。
(先生のことを、俺が?)
「……また、一緒に食べてやってください。今日みたいに」
そう言われて、ようやく食卓へ目を戻した。
蕪を食べてみせた先生。顔に出ていますと、笑った先生。
また来たら、あそこに座れる。
「お昼、また食べたいです」
エドモンさんが頷きかけたところで、俺は付け足した。
「エドモンさんも、一緒に」
エドモンさんの目元が緩んだ。
「ええ。私も、ご一緒します」
先生がコップを取りに戻ってきた。
「何の話ですか」
「次も、三人でお昼を食べたいって」
俺が答えると、先生はエドモンさんを見た。
「父さん。次は、朝から一人で用意しないでくださいね」
「では、野菜を切るところから手伝ってもらおうかな」
「そうしてください」
「研究室まで、呼びに行っても?」
「……先に、出てきます」
先生がコップを持ち上げた。
「レインも、好きなものがあれば教えてください。父がまた、張り切りますから」
「今日のスープがいいです」
「それなら、作り慣れています」
エドモンさんが嬉しそうに言った。
先生も頷く。
「では、また、あれにしましょう」
*
オスカーが迎えに来ると、先生が玄関まで送ってくれた。
エドモンさんには部屋で挨拶をした。窓際の椅子から上げてくれた手に、俺も大きく手を振ってきた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。父も、あなたと話せて楽しかったと思います」
「先生も?」
先生は少し目を丸くした。
「ええ。私も」
それから、顔を寄せてきた。
「ただし、蕪の話は、今日だけです」
頷いたのに、口元が緩んでしまった。
先生もそれを見て笑い、扉を開けてくれた。
帰りの馬車で、オスカーに昼食の話をした。
蕪の話はしなかった。代わりに、スープをおかわりしたことと、次も三人で食べることを話した。
「楽しかったご様子ですね」
「うん。また行くんだ」
昨日の帰りには、空に並んだ氷が何度も浮かんできた。
今も、思い出せる。あの飛竜を前に、少しも慌てなかった先生。
今日はその隣に、父親へ少し拗ねた顔を向ける先生もいる。
次の授業で顔を見たら、思い出してしまうかもしれない。
笑わないように気をつけようと思ったが、馬車の中では、まだ少し難しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて幼年期編は一区切りとなります。
次からは、五年後のレインを描く少年期編へ。セレナのもとで学び、成長した彼が、どんな魔法を使い、何に出会うのか。引き続き見守っていただければ嬉しいです。
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