第七話「空を貫く氷」
馬車を下りると、街道の先まで荷馬車が並んでいた。
御者台から身を乗り出す人がいる。道端で馬に水を飲ませていた人も、セレナ先生の姿を見ると手を止めた。その向こうに、灰色の岩山が迫っている。
あの山のどこかに、飛竜がいる。
首を伸ばした俺の前で、帽子を取った男の人が先生に頭を下げた。
「今朝も、同じ岩場にいました。道を通ろうとすると、こっちへ首を向けるんで……」
「分かりました。皆さんは、ここで待っていてください。終わったら知らせます」
先生が俺に手を差し出した。
俺はその手を取り、馬車の列に背を向けた。
*
道の先から、低い音が聞こえていた。
しばらく途切れ、また、地面の下を転がるように響いてくる。
「先生。飛竜は、いつもこの辺りにいるの?」
「普段は、人里から離れた山岳地帯にいます。ただ、この辺りでは人の通るところまで出てくることも珍しくありません」
先生は道を外れ、まばらな木々の間に入った。俺も小石を避けて歩く。
木立が途切れると、その先は緩い下り坂だった。斜面の下に、草のまばらな岩場が広がっている。
先生は木立の端で足を止めた。
「ここから見ましょう。私のそばを離れないでください」
「はい」
返事をして、岩場を見下ろした。
初めは、何もいないと思った。
岩場の反対側にある岩に掛かっていた太いものが、ゆっくり動くまでは。
(あれが、尻尾?)
岩の縁を擦り、その先が持ち上がる。付け根をたどると、岩肌だと思っていたものが、幾重にも重なる鱗だと分かった。
背中が膨らみ、低い音が響いた。
ここまで聞こえていたのは、あれの息だった。
「……いた」
口元が緩んだ。
(本当に、竜がいるんだ)
長い首。頭の後ろに突き出た角。畳まれた翼の端には、曲がった爪が付いている。
飛竜が首をもたげた。
翼が開く。薄い膜が陽に透け、細い筋が浮かんだ。広がっていく翼は、隣の岩を隠しても、まだ止まらない。
俺は身を乗り出しかけた。
その頭が、こちらを向いた。
黄色い目。
岩場を見渡していた瞳が、俺たちのところで止まる。
「先生。気づかれ……」
「ええ」
飛竜の爪が岩を削った。白い破片が斜面を転がる。足を置き直しただけで、あんなに。
牙の並ぶ口が開いた。
「ギィィィアアアアッ!」
胸の奥を、殴られた。
肩が跳ねる。耳を塞ごうとした左手が外套の襟に引っ掛かり、うまく上がらない。
翼が地面を叩くほどに振り下ろされた。
砂が噴き上がる。岩を掴んでいた両脚が離れ、重そうな腹が浮いた。
もう一度、羽ばたく。
次の瞬間には、岩場の半分を越えていた。
(速い)
あんなに大きいのに。
首が伸び、爪が前へ出る。俺は一歩下がった。足が滑り、繋いだ手にすがった。
逃げなければ。
けれど、馬車まで走ったところで、あの翼なら――。
目を逸らせない。迫ってくる牙からも、突き出された爪からも。
視界いっぱいに、飛竜が広がる。
「――先生!」
ようやく顔を向けた。
先生は、飛竜を見つめていた。
何食わぬ顔で。冷然と。
眉一つ動いていない。その横顔だけが、俺の見ているものとは別の景色を見ているようだった。
繋いだ手が、俺を確かめるように、そっと握り返される。
巨大な翼が、頭上を覆った。
牙の奥が、赤く光った。
「我が魔力よ、壁となり、この身を包め」
静かな声がした。
先生の指先から魔力が広がる。その向こうで、炎があふれた。
俺は先生の腕にしがみついた。
赤い奔流が、目の前で裂けた。
頭上へ。左右へ。
轟く炎が透明な曲面に沿って流れ、俺たちの後ろへ抜けていく。
熱は来なかった。
外套の裾さえ、揺れていない。
(結界……!)
それでも、顔を上げられなかった。すぐそこに、炎がある。あの向こうに、口を開いた飛竜がいる。
「風よ、巻き上がれ。その翼を押し返せ」
隣で、先生が言った。
俺の目には、空いた手から白銀の魔力が立ち上るのが見えた。結界を包む流れは、そのまま残っている。
炎が、横へ折れた。
赤い幕の向こうから、腹が現れる。飛竜の身体が大きく傾き、広げた翼が裏返りそうなほど反った。
風が唸った。
あの巨体が、押し戻されていく。
飛竜は首を振り、炎を吐くのをやめた。
翼を畳む。
急に、身体が小さくなったように見えた。
落ちてくる。
風を抜け、鋭い爪を突き出して、真っ直ぐに。
先生の指先が、横へ動いた。
爪が、俺たちの前を通り過ぎた。
飛竜の身体ごと。
横殴りの風にさらわれ、長い尾が空を打つ。片翼の先が斜面を掠め、草と土がごっそり剥がれた。
結界に土の塊が当たり、潰れた。
先生は、半歩も動いていなかった。
(今のも……先生が?)
飛竜が翼を開いた。
地面すれすれで持ち直し、岩場へ向き直る。凄まじい羽ばたきに、下の砂が渦を巻いた。二度、三度。巨体がみるみる高くなる。
今度は、上から来る。
そう思ったのに、上がらなくなった。
翼は動いている。
首も、尾も、激しく振れている。
それなのに、岩場の上から進めない。
先生の指から伸びた白銀の流れが、飛竜の上へ回り込んでいた。
風に押さえつけられた翼が軋む。飛竜は片翼を低くし、横へ抜けようとした。途端に身体が押し返され、首が大きく振られる。
吠える。羽ばたく。空を蹴る。
先生は指先でその動きを押さえながら、口を開いた。
「澄める水よ、その流れを静め、透き通る氷となれ」
白銀の魔力に、青い流れが重なる。
俺たちの頭上、結界の外で、白い霧が三つに分かれた。その中から、透明な穂先が伸びてくる。
一本ではない。
三本。
どれも俺の背丈を越え、先生より長くなっても、まだ伸びた。
飛竜が再び口を開いた。
吐き出された炎が、岩場の上を走る。
けれど、こちらへは向かなかった。首が風に押され、炎は何もない空を焼いていた。
先生は詠唱を続ける。
声を張ることもなく。急ぐこともなく。
「三つの穂先を空に結べ。凍てつく刃よ、我が指す先へ」
三本の氷槍が、空に並んだ。
陽を受けた縁が、白く輝く。
その穂先が、一斉に飛竜へ向いた。
飛竜の叫びが変わった。
翼を縮め、岩山の方へ身を翻す。俺たちに背を向けた。
逃げる。
そう分かった途端、また風が吹いた。
山へ伸ばした首が引き戻され、巨体が空中で半回転した。
胸が、またこちらを向く。
待っていた三本の穂先が、それぞれわずかに傾いた。
胸へ。両翼の付け根へ。
「貫け――氷槍陣」
空を、三条の白い筋が貫いた。
飛竜の胸が跳ねた。
両翼が大きく開き、巨体が岩場へ叩き落とされる。
轟音。
足の裏まで突き上げる衝撃とともに、灰色の砂が噴き上がった。白い氷の欠片が、その中で光る。
石が一つ、目の前へ飛んできた。
結界に弾かれ、横へ跳ねた。
砂の向こうで、長い尾が地面を打った。
一度だけ。
それきり、動かなくなった。
先生が、手を下ろした。
砂が薄れていく。三本の氷に貫かれた巨体が、岩場に横たわっていた。
翼も、首も、動かない。
低い息の音も、もう聞こえなかった。
(……終わった?)
さっきまで、あれが俺に向かって飛んできた。
岩を削る爪で。炎を吐く口で。
その全部を、先生は――。
俺は、隣を見上げた。
先生は岩場を見ていた。乱れた息も、汗もない。俺の手を握っている指にも、力がこもった様子はなかった。
あれだけのことをして、まだ、こんな顔をしている。
(この人、どこまでできるんだろう)
*
岩場の端に、小さな火が残っていた。
「水よ、降り注ぎ、火を鎮めよ」
先生がそちらへ手を向けると、草の上に雨が落ちた。細い煙が上がり、赤いものが消えていく。
結界は、まだ俺たちを包んでいた。
「レイン」
手の甲を、先生の親指が撫でた。
顔を向けようとして、膝が折れた。
先生がすぐに腕を支えてくれる。倒れはしなかったのに、脚に力が入らない。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいんです。少し、ここにいましょう」
先生は俺の前にしゃがんだ。
手を離しても大丈夫だと言いたかった。けれど、指は先生の手に巻きついたままだった。
「怖かったです」
「ええ」
「先生がいるって、分かってたのに」
「怖いものは、怖いでしょう。無理に平気な顔をしなくていいんです」
先生は、俺が手を緩めるまで待ってくれた。
少しずつ、肩の力が抜けていく。
目を落とすと、先生の手に、俺の指の跡が薄く残っていた。
「……ずっと、手を繋いでたね」
「ええ」
岩場を見た。
倒れた飛竜は、それでも大きかった。広がった片翼だけで、俺たちの馬車が隠れそうだった。
あれが本気で襲ってきても、この人には、俺の手を握っている余裕があった。
「先生は、平気だったの?」
「ええ。あなたを守ると、約束したでしょう」
先生は、いつもの調子で言った。
稽古場で聞いた言葉を思い出す。
『あなたを守りながら魔獣を倒すくらいなら、朝飯前です』
俺が思っていたより、ずっと、その言葉どおりだった。
「……最後の氷が、上級魔法?」
「ええ。氷槍陣です」
空に並んだ三本を思い出した。
あれほど暴れていた飛竜が、逃げることさえできなかった。
膝は、まだ震えている。
怖かったことは、なくならない。
それでも、先生の手を見ていると、さっきまでとは違う言葉が出てきた。
「僕も、使えるようになりたい」
先生が、少しだけ目を細めた。
「では、そこを目指しましょう。まずは、あの小さな光を保つところから」
「うん」
頷いて、繋いだ手に少し力を借りた。
両脚に体重を戻す。まだ、すぐには歩けそうになかった。先生も、立ち上がろうとはしなかった。
俺はその隣で、もう一度、空を見た。
あそこに浮いていた、三本の氷槍。
いつか、自分の手で。
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