【第16話:旅立ちの毒、あるいは姉の愛】
■ 1.黄金の檻
不穏な空気が満ちていた。アロウには公爵家嫡男として、隣国の実力者である伯爵令嬢との縁談が、もはや避けて通れぬ「国家の決定」として下されていた。
アロウはそれを「家門の義務」として淡々と受け入れる振りをしていた。だが、その裏で彼が執着していたのは、正妻となる女の顔ではなく、タルトを「誰にも奪われない位置」に固定するための卑劣なまでの法的準備だった。
(……18歳。成人した瞬間、お前は国の資産となる。ならばその前に、お前が俺の「所有物」であることを世界に知らしめねばならない。正妻が来ようとも、お前は俺の隣から一歩も動かさない。……それが、俺がお前を永遠に守り抜くための、唯一の完成図だ)
アロウは、亡き友の忘れ形見という美談を隠れ蓑にしながら、タルトを公爵邸の深淵に沈める「愛妾」という名の檻を、黄金で飾り立てていた。
■ 2. サシャの政略結婚、そして別れ
アロウの縁談と同時期、サシャの隣国への輿入れが決定する。 出発の朝、サシャの私室。旅立ちの香油が重く漂う中、サシャは荷造りの手を止め、鏡越しに背後に立つタルトを凝視した。
「……ねえ、タルト。あんた、自分がもうすぐ何になるか分かっているの?」
サシャの言葉は、かつてのいじめっ子のそれではなく、同じ「駒」として盤上に立つ女としての、鋭い警告だった。
「18歳になった瞬間、あんたはアロウの『所有物』として社交界に引きずり出されるわ。あの方はね、新しく来る正妻の目の前で、あんたを侍らせるつもりよ。『この女に触れるな、俺の唯一の愛妾だ』と世界に宣言するためにね。……傲慢で、子供じみていて、それでいて狂おしいほど純粋な、アロ兄らしいやり方だわ」
サシャは自嘲気味に笑い、タルトの元へ歩み寄った。彼女の指が、タルトの震える肩を強く、壊さんばかりに掴む。
「……正直に言うわ。私は、あんたが少し羨ましい。 私には、誰かを狂わせるほどの価値も、誰かに檻を作ってもらう贅沢も許されない。ただの『便利な通貨』として売られていくだけ。 でも、アロ兄はあんたに狂っている。あの方は本気であんたという毒を、一生飲み干すつもりなのよ」
サシャの瞳に、一瞬だけ兄への深い情愛と、タルトへの連帯感が混ざり合った。
「逃げなさいと言ったのは、あんたが『中途半端』だからよ。 もし、タルトがあの方の孤独を守りたいと願うなら、泥を啜ってでも、世界中に後ろ指を指されてでも、あの方の隣で『愛妾』として生き抜く覚悟を決めなさい。あの方の孤独を半分背負って、共に地獄へ堕ちてやるんだと、その腹を括るのよ」
サシャはタルトの耳元で、さらに声を潜めた。
「……でも。その覚悟が持てないのなら。 あの方の愛に窒息して死ぬのが嫌なら、今すぐソウを使いなさい。あの男なら、あのアロウの手を振り払って、あんたを世界の果てまで連れ去ってくれるわ。 選ぶのはあんたよ、タルト。兄の隣で毒を飲むか、騎士の手を取って空へ逃げるか。……どちらを選んでも、あんたは私の誇らしい妹よ。精一杯、足掻きなさい」
サシャは最後に、タルトの額に柔らかな口づけを落とすと、一度も振り返らずに部屋を出た。
正面玄関に横付けされた馬車。 アロウは姿を見せなかった。タルトと、五歩後ろに立つソウだけが、動き出す馬車を見送っていた。 窓から小さく振られたサシャの手。それが、タルトにとっての「守られた子供時代」の、本当の終わりを告げる合図だった。
■ 3. 閉ざされた屋敷、高まる密度
馬車が視界から消えた瞬間、屋敷の重厚な扉が閉まった。 その音は、タルトにとって、外界との繋がりが完全に断たれた断頭台の響きのようだった。
「……タルト様。中へ」
背後からかかるソウの声。 その声は、サシャが提示した「逃亡」という選択肢を、静かに、そして狂おしいほどの覚悟で咀嚼した男の響きを帯びていた。
サシャという「理性」を失った公爵邸に、今、アロウの「歪んだ独占欲」と、ソウの「命懸けの横恋慕」だけが、濃密な毒となって充満し始めていた。




