【第15話:潮騒のテラス、剥がれ落ちた仮面】
あの重苦しい夜から数日後。休日の朝、アロウは「身支度を整えろ」とだけ言い、タルトを馬車に乗せた。 行き先は、公爵家の領地の端にある、古びたが手入れの行き届いた小さな別邸。目の前には、春の柔らかな陽光を弾く、穏やかな海が広がっていた。
■アロウ:【海風にさらされた、不器用な情愛】
テラスのベンチに座るタルトの隣で、アロウはいつもの重厚な正装ではなく、柔らかなカシミアのコートを羽織っていた。 彼は無言で、持参したバスケットから、まだ温かいティーポットと、タルトがかつて「美味しい」と笑っていた街の小さな店の焼き菓子を取り出した。
「……あんな夜の後だ。無理に食べろとは言わないが、ここの潮風はお前の身体に良いと思ってな」
アロウの手が、タルトの膝に掛けられたブランケットの端を、丁寧に整える。その手つきには、あの夜の強引さは微塵もなく、ただ冷えを案じる優しさだけが宿っていた。
「タルト。……俺は、お前に嫌われることが、この世で一番恐ろしい。だから、お前を縛る。お前が俺の目から消えることが怖くて、宝石で飾り立て、檻に閉じ込める。……だが、今日だけは忘れていい」
アロウは海を見つめたまま、独り言のように、けれど深く魂を削るような声で囁いた。
「この風も、この波の音も、誰のものでもない。……そして、今お前の隣にいる俺も、公爵閣下ではなく、ただお前の笑顔を守りたいと願う一人の男だ。……怖がらせて、すまなかった」
アロウは、タルトの手の甲に、羽が触れるような軽やかさで一度だけ口づけをした。それは支配の印ではなく、彼なりの精一杯の「謝罪」と、根っこにある「純粋な恋慕」の現れだった。
■ タルトの言葉:【氷解する心】
タルトは、海風に吹かれながら、アロウの横顔をじっと見つめていた。 自分を追い詰め、支配する恐ろしい人。けれど、その横顔は、広い海を前にして、ひどく小さく、今にも消えてしまいそうなほど孤独に見えた。
「アロ兄……。私、海が見たかった。……覚通りの、真っ青な海。 ありがとう。私、あなたがこうして穏やかに笑ってくれるだけで、それだけでいいの。……宝石も、ドレスも、本当はいらないわ。謝らないで…私はちゃんといるから……」
タルトの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。それは恐怖ではなく、アロウの心の奥にある寂しさや不安を感じとった今 タルトの中にアロウを守ってあげたくなるようなそんな気持ちが芽生えはじめた。
■ ソウ:【五歩後ろ、波の音に消える絶望】
ソウはその光景を、潮風に打たれながらいつもの定位置で見守っていた。 アロウの謝罪。そして何より、タルトがアロウに向ける、慈しみに満ちたあの眼差し。
(……ああ。タルト様。 あなたは今、あの方の毒を、飲み干そうとしているのですか?あの方は、あんな醜い支配でしかあなたを繋ぎ止められない人なのですよ。 あの方があなたを傷つけたからこそ、あなたはあの方の痛みに気づいてしまったですか? ……あなたは閣下を哀れだと言う不憫さで見つめていらっしゃるだけですよね?あなたは守られる存在であって 守る側の存在ではないのですよ。)とソウは少し暗い敗北感にさいなまれていた。
海辺の休日、アロウが見せた「一人の男」としての涙と弱さは、タルトの心に「彼を守りたい」という危うい火を灯した。しかし、屋敷に戻れば運命の歯車は無慈悲に回転を速める。




