39話 ヴァイオリンがやってきた!
楽器が届いたとの知らせが入ったのは、それから1週間後である。
バートラムがトラネス国と行っている布製品の輸入に乗じて、楽器も一緒に輸送してもらった。かつては夫をめぐってやりあった仲だ。どんなひどい楽器が来ているともわからない。
フィナンスの街のはずれにある、バートラムの家の私設倉庫にダグラスと向かう。
「こちらになります」
バートラムがうやうやしく倉庫の扉を開けると、ダグラスの喉がごくりと鳴る。目の前には、レザーのケースが置かれている。たったひとつだけだ。
どんなに高級な楽器だとしても、あのどでかいサファイアの価値に相当するとは思えない。
――あの女、足元を見たわね。
「ヴァイオリン……」
苦々しく思うミネルヴァを横目に、ダグラスがケースをなでながら、うっとりとメロディーのようにつぶやく。
「開けてみたら?」
ミネルヴァが薦めると、ダグラスはゆっくりとヴァイオリンのケースに手をかける。まるで長年探し求めていた宝箱を開ける探検家のような手つきだ。
「ああ」
艶やかな赤茶色の木肌が目に入る。ミネルヴァ自身、久しぶりに目にした楽器だが、改めて見てみるとこんなにも美しいものだったかとほれぼれする。自分の権威を見せつけるためだろう。どうやらトラネスの王太子妃は約束通り、一応、いい品を送ってくれたらしい。
「ヴァイオリンも弾けるの?」
ミネルヴァが問うと、ダグラスは「楽器はひととおり学びました」と答える。
「この倉庫は工場として使っていたものですので、防音設備も整っておりますよ」
うずうずとしているダグラスの様子を見て、バートラムが口を出す。ダグラスは、待ってましたとばかりにヴァイオリンを構えると、素早い手つきでメロディを一節。喜び伝わるような晴れやかな音色だ。
思わず、バートラムも「ほう。美しいですね」とつぶやいた。
「バートラム、あなたは楽器を弾くことはないの?」
「ええ。楽器を弾くことが許されていたのは10年ほど前までですから。グリーン家にはまだそんな余裕はありませんでした」
そう、10年。ミネルヴァの秘密のピアノを除けば、この国には10年間楽器はなかったのだ。今度はダグラスが、ヴァイオリンで美しいアルペジオを奏でる。
まるで復活のファンファーレだ。ミネルヴァは胸が熱くなるのを感じた。
楽器が入ってからの練習は、そのままバートラムの倉庫を使わせてもらうことにした。
「そこのセリフ、もっと切ない表情で!」
簡単なショートプレイだとしても、劇は劇だ。観ている者に感情移入してもらわなければ。ミネルヴァの指導にも熱が入る。
「レイ、セリフを忘れているようじゃお話しにならないわ!」
セリフを忘れて棒立ちになっているレイに声をかける。
と、幾分練習場の雰囲気がピリっとした。
「ミネルヴァ」
アレックスが近づいてくる。
「みんな少ない時間でよくやっている。力が入るのは仕方がないが、言い方に気を付けて」
そう言われてレイの方を見ると、唇をかみしめたままうつむいている。
「……っと、ごめんなさい。つい力が入ってしまって」
ふと脳裏に、現世での≪ロージア≫の5人のメンバーが浮かぶ。あのときは気づくことができなかった過ちだ。
現世と同じ過ちは繰り返さない。そう思っているのに、ときにミナホが顔を出してしまう。
「……ありがとう。アレックス」
ミネルヴァは、大きくうなずくと、レイに向かって声をかける。
「レイ!ごめんなさい!力が入りすぎたわ」
「いいんです!もう一度お願いします」
……がしかし、レイはなかなか身が入っていないようだ。なんどもセリフをつっかえてしまう。
ミネルヴァはレイを呼び出そうかと思案していると、ふと出番の少ないバートラムが耳打ちしてきた。
「レイの御父上が、今朝、出征されたそうです」
出征。もちろん聞いたことはあるけれど、現代の日本では使われない言葉だ。
「北部の内乱が激化しており、帝国騎士団が派遣されたのです。シュゼット興は騎士団長であらせられますから」
「そんな……」
シュタイナー伯爵が言っていた、北部の不穏な動き、とはこのことだったのか。それから先日、ニコライと話したときの幾分疲れた顔や、ミネルヴァが言った「財政難」という言葉への反応を思い出す。
今考えて観ると、ニコライはあのときすでに、内乱の件で心を痛めていたのだろう。ルーブル公が執務室にいたのも、その関連だったのかもしれない。
「私はもともと商家であり、リアムやダグラスは文官の家系です。しかしながら、レイの家系は代々騎士。おそらく内乱が収まらない限り、御父上が帰ることはないでしょう」
レイの方を見やると、子どものような小さな肩で、必死に声を張り上げている。
レイは、リスボン家の長男である。もし御父上に何かがあれば、家族の運命はすべてあの小さな肩にかかってくるのだ。
「それから」
バートラムが、譜面を見つめるアレックスの方に視線を送る。
「もし正規軍が出るのであれば、おそらく陣頭に立たれるのはアレックスでしょう」
「アレックスが? お兄様ではなくて?」
「ええ。アステル国の皇帝は、王城にあって国を守るもの。外部で戦がおきたときには、ご兄弟が近しい身分の方が大将に立たれることが多いのです」
それで、サマール族との戦いのときも、グスタフ王ではなくミネルヴァの父親であるルイス卿が戦争に行ったのか。
ミネルヴァは自分の顔からさっと血の気が引くのがわかった。
「もしかして、アレックスはそのために、いるの?」
アレックスは、ニコライに何かあったときのスペアのような存在として生かされているのかもしれない。王位継承者の少ない国だ。ふと、そんな推測に思い当たる。そしてそれは、おそらくアレックスが皇太子のときは、ニコライの役割だったのだろう。
「さあ。ニコライ様がそこまでお考えかどうかは。ただ、皇太后様がそうしたお考えを持っていたとしても、不思議ではないですね」
「そう」と答えながら、ミネルヴァはますますアレックスの不遇な立場に胸の奥が重くなるのを感じる。見た目だけは優し気な兄の顔、威厳のある聖人然とした祖母の顔。
どこまで信じていいのかわからなくなっていた――。




