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1話 鏡の中の訳アリ美女

――ああ、久しぶりに良く寝た。

 目をあける前に、ミナホは思う。

 

 嫌なこともすべて忘れさせてくれるようなフカフカの寝具。この極上の触り心地は、シルクかもしれない。寝ぼけ眼のまま、柔らかなデュベをポスポスと手でたたく。

 

 マットも程よく弾力があり、極上の寝心地だ。出張のときに泊まるビジネスホテルの冷たく固いベッドとは大違いだ。鼻を寄せてデュベの匂いを吸い込むと、バラの花弁からそのまま抽出したような極上のフレグランスの香りがする。

 

「あれ」

 匂いにつられて、目を覚ますと、どことなく違和感がある。


 いつも寝起きしている下落合の1LDKではない。

 3人は横になれるであろう巨大なベッドには、天蓋がついており、スモーキーな水色のベルベッドが垂れ下がっている。

 陽光がこぼれているのは、IKEAで買ったブラインド付きの質素な窓ではなく、高さ3mはあろうという巨大な窓。重厚なダマスク織のカーテンの上には、3段ものゴージャスなスワッグまで取り付けられている。

 品のあるローズピンクの壁紙には精緻なタッチのバラのブーケが描かれ、まるで昔歴史の図録で見たマリー・アントワネットの寝室のようだ。


「ちょ、ちょっ、どこ、ここ?」

 ミナホはベッドから立ち上がろうとして、長いネグリジェに足をとられて膝をつく。つややかなネグリジェはおそらくシルク製。自分がいつも寝るときに来ている高校時代のジャージでは、断じてない。


――何かがおかしい。

 ふと自分の手を見ると、ほっそりとした白魚のような手が目に入る。中高とバレー部で鍛えた、節ばった指はどこにもない。


 部屋をぐるりと見まわしたミナホは、片隅に金の額に縁どられたゴージャスな姿見があるのを見つけて、よたよたと近づいていく。


 予感はしていた。そこに映っていたのは、自らの精気をアイドルに吸い取られた、疲れ切ったアラサーの日本人女性ではない。

 ウェーブがかった淡い栗色の髪、血管が透けるほど白く陶器のように滑らかな肌、ブラウンのまつげに縁どられたグリーンアイズ。瞳が落ちくぼんで、頬が痩せているけれど、都内で歩いていればモデル事務所のスカウトがこぞって名刺を差し出すような美女だ。

 しかしよくよく見て見ると、ほっそりとした首には何か紐で縛らられたような赤いアザがある……。


「何、これ」

 姿見の中の美女の首のあたりに触れようと手を伸ばすと、当然、美女の方でもミナホの指先に触れようと手を伸ばしてくる。

 ミナホは目まいを起こし、再び姿見の前で膝をついた。うずくまる自分の視界に入るのは、手入れを怠った茶色い毛ではなく栗色の細い髪の毛だ。

 ミナホは髪の毛を手でつかむ。

「私の髪……だよね?」


 物音に気付いたのだろう、誰かがパタパタと廊下を駆けてくるのがわかる。

「ミネルヴァ様!お気づきになったのですか!?」

 重厚なオークのドアがバタンと開き、クラシカルな黒のメイド姿の女性が駆け寄ってくる。

「だ……」

 ミナホの「誰」という言葉は、自分にとりすがって泣く女性の勢いに負けて、そのまま飲み込まれる。

「良かった! 本当に良かった! 今、陛下をおよびしますね!」


 パタパタと駆け抜けていく侍女の後ろ姿を呆けた顔で見つめながら、ミナホは頭を整理する。


 ――ここは間違いなく異世界だ。確か自分は事務所から家に帰る途中だったはずだ。そう≪ロージア≫が事務所を辞めるって言いだして……。


 そこまで考えて、胸がズンと沈むのがわかる。

 ――神社の前で、車に撥ねられて。

 ――そう、私、きっと死んだんだ。

 

「死んで転生って、ライトノベルの中だけのお話かと思ってた……。ハハ……」

 渇いた笑いは涙とともに、毛足の長い絨毯に吸い込まれていく。


 故郷の家族は悲しむだろうか、友人たちは驚くだろうか、事務所の社長は気に病むだろうか、そして≪ロージア≫の5人はどう思うだろうか。ざまぁ見ろと思うだろうか、それとも自分たちが辞めるなんて言い出さなければよかったと後悔するだろうか。

 もし後悔するようなことがあれば、きっと≪ロージア≫の今後のアイドル活動に影を落とすことになるだろう。


「それは嫌だな」

 ミナホの目からは、再び涙があふれ、絨毯に濃い水玉のシミを作っていった。


「……ミネルヴァ」

 ふと頭上から優しい声を掛けられ、顔をあげる。

「目を覚ましたんだね」

 当然ながら、誰かはわからない。テレビや絵画でしか見たことがないような、豪華絢爛な衣装。

 アイボリーのジャケットには金糸で刺しゅうがほどこされており、袖口からは豪華絢爛なレースの縁飾りがのぞいている。


「……お金のかかってそうな衣装」

 思った言葉はそのまま口をついて出てしまう。

「ミネルヴァ?」

 再び不安そうな声をかけられて、目線を声の主に向ける。


 膝をついて、心配そうにこちらを見るグリーンアイズ。自分よりは幾分か色の薄い栗色の髪に、透き通るような肌。優し気だけれど理知的な目元が印象的で、自分がこれまで見てきたどのアイドルよりも気品があふれている。

 しかし、ミネルヴァと呼ばれる女性の血がそうさせているのだろう、胸が高鳴るということはない。

きっと、この美青年はミネルヴァと呼ばれる女性の血縁なのだ。


「……ごめんなさい、どなたでしょうか?」

 ミナホはやっとのことで声を出す。

「……私、何も覚えていなくて」

「ミネルヴァ」

 相手の翡翠の目に困惑の色が浮かぶ。

「本当に?」

「……ええ」

 真意を確かめるかのように、じっと目を見つめてくる。

どこか儚げな印象を与えるその顔は、よくよく見ると、先ほど鏡で見た美女の顔によく似ている。

「そうか。君にとっては、その方がいいのかもしれないね」

 美青年は、ミナホ、いやミネルヴァの髪をそっと優しくなでつけ、頭にひとつ口づけを落とす。

「医者をよこそう。アンナ、ミネルヴァへの説明を頼む」

 侍女の女性に一言だけ伝えて、悲しそうにこちらをチラっと見ると、踵を返して部屋を出て行ってしまった。

 

 爽やかな風が一筋吹いたかのような美青年のあっという間の退場に、ミナホはあっけに取られてしまう。

 あの身なりに、忙しそうな気配。おそらく相当位の高い人物なのだろう。ということは、その親族たる自分もおそらく……。

「ええと、アンナ?」

 先ほどそう呼ばれていた侍女に声をかけると、職業柄なのか、侍女は急にきりっと引き締まった顔つきになる。

「はい、ミネルヴァ様」

「さっきも言った通り、私、本当に何も覚えていないの。すべて教えてくれる?」

  

……


 とまどいながらもアンナが語った話はこうだった。


 この国は北方に領土を構える大国アステル国。ミネルヴァは、想像通り、先ほど現れた陛下と呼ばれる美青年――皇帝ニコライの実の妹である。


 ミネルヴァは10年ほど前、15歳のときに政情不安だった国の守りを固めるために政略結婚。隣国トラネスの王太子アーノルトのもとへと嫁いだ。しかしアーノルトとの関係は冷たく、とうとう王太子が別の女性との間に子どもを作ったことにより離縁。一方的な離縁にもかかわらず、身ひとつで帰還させられたのだという。


 自分に非はないと言えども、アステル国では腫物扱い。おまけに、妬だの、役立たずの出戻り皇女だの、ひどい噂が流れたらしい。そしてそれを気に病んで……。


「自ら命を絶とうとしたわけね」

 言い淀んだアンナの後を続けて、ミナホ、いやミネルヴァは口に出す。首元の赤い紐のような跡。これは首を吊ろうとした跡だったのだ。

「……可哀そうな人」

 10年連れ添った夫に裏切られた皇女。5年サポートしつづけたアイドルに裏切られたマネージャー。どちらが不幸だろうか。


 ミネルヴァは、そっと首元に手を触れる。きっと紐がこすれて傷になったのだろう、かすかにザラっとした質感が指にあたる。

「ミネルヴァ様は、何も悪くありません」

 アンナが、黒いスカートを握りしめてきっぱりと言う。

「騙しうちのように愛人と子どもを連れてきて、ミネルヴァ様を城から追い出すなんて……! 」

「アンナ……」


 自分は、そこまで悪い人間ではなかったのだろう。そうでなければ兄であるニコライも、侍女であるアンナも、こんなに心配することはないはずだ。

 その事実に思い至って、ミネルヴァは少しだけ安心する。この世界では、自分はまったく必要とされていないわけではないのだ。 

「今、温かい飲み物をご用意します」

 鼻を少しすすって、アンナが部屋を出て行った。


 ひとり残されたミネルヴァは、ゆっくり考える。

 大国の若き皇帝の美しい妹。最初の結婚が15歳というのだから、おそらくこの世界での女性の結婚適齢期は15~18歳。今は25歳だという出戻りの皇女には、幸せな再婚は望めなかったのかもしれない。他の国に嫁ぐにしては10年もの婚姻歴は長すぎるし、愛人や妾になるには位が高すぎる。きっとこの国では、扱いの困る存在だったに違いない。

 ミネルヴァは、枕元に用意されていた豪華な手鏡をのぞき込む。

「あなたは、そこまで絶望していたの?」

 鏡に映った美女は、悲しそうに首をかしげるだけだった。


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