14話 兄である皇帝の腹の内は
それから数日たったある日、ようやく皇帝への謁見の申し入れが通り、ミネルヴァは夏の宮殿を訪れた。
兄とはもう何日も会ってない。たった2人の家族のはずだが、寂しいと思うことはないのだろうか。
ミネルヴァは謁見の間ではなく、皇帝専用のプライベートサロンでニコライを待ちながら、ぼんやりと考えた。
「お待たせ。ミネルヴァ」
ドアのノックとともに颯爽と現れたのは、いつも通り柔和な顔を浮かべたニコライだ。
「お兄様。ご無沙汰しております」
「どう? 最近は。何か思い出したことはある?」
ミネルヴァがこの世界で目を覚まして約半年ほどたつが、思い出したことなど何もない。もしかしたらミナホの入り込む前の以前のミネルヴァの魂は、すでにこの世からいないのではないだろうか。
そう考えるといたたまれなくて、心配そうなこちらをのぞき込むニコライの顔を真正面から見ることができなくなる。
「何も」
「そう……。まあ、焦ることはないよ」
皇帝おつきの侍女たちが、静かに皿を運んでくる。
「でしたら、お兄様から私の昔のことを教えてくださいませんか? どんな人物で、何が好きだったのか」
ミネルヴァは水の入ったグラスに口をつけ、なるべく世間話をするような口調で切り出した。
「……そうだね」
ニコライはゆっくりと瞬きをして、窓の外へと目を向ける。おそらく何から話そうか考えあぐねているのだろう。
「……君は、いつも優しくて、心配性な少女だったよ。小さい頃は私の立場も違っていたからね、私は悪さばっかりしていたんだ。番犬の顔に落書きをしたり、厨房の食べ物をつまみぐいしたり…..。皇太子だったアレックスまで私の真似をするものだから、君はいつもそれをいさめていた」
ニコライが遠い目をしながら、しかし楽しそうに話す。
「アレックスが小さい頃は、まだリリアンヌ様はいらっしゃった?」
「うん。リリアンヌ様は庭で遊ぶ子ども達をいつもニコニコ見ていた。歌がとても上手な人で……」
と、そこでニコライが話すのを止めたので、「サマール族のことは聞いております」と先を促す。
「今日は教えてください。お兄様から見たリリアンヌ様のことを」
「……リリアンヌは私たちの音楽の先生でもあったんだ」
ニコライは、観念したかのように話し出す。
「とても素敵な女性だったよ。真夏の太陽みたいにエネルギーに溢れていて。
いろんな才能のある方で、君にはピアノ、アレックスには歌。それからリアムにはヴァイオリンを教えていたっけ。私にもチェロを教えてくれたのだけど、実は私には音楽の才能がなくてね。いつも足を引っ張っていた」
「ピアノは私の宝物だったそうですね」
ミネルヴァが言うと、ニコライが食事をする手を止めて、こちらを見る。
「……図書室の奥で、ピアノ室を見つけてしまいました」
「そう」
「ピアノが壊されるのを止めてくれたのは、お兄様だとアンナに聞きました」
残念ながら、今のミネルヴァにそのピアノを弾くことはできないけれど。
「うん」
「音楽は、歌は、きっと私には必要なものだったんですよね?」
「うん」
「そしておそらく、それを必要としている人はたくさんいるはずですよね」
「……そうだね」
「ではなぜ!」
思いのほか大きな声が出て、ピリっと空気が張り詰める。
しかし激高するミネルヴァに比べて、ニコライはいつもの穏やかな調子だ。
「私たちのおばあ様、皇太后様はね。リリアンヌ様のことを憎んでいらっしゃる。愛しい息子の心を奪い、命を奪った」
「伯父様、それから御父上が亡くなったのは、リリアンヌ様の死後のことです」
「関係ないさ。サマール族のせいで命を落とされたのだから」
「でも! それは音楽のせいではありません! この世界に音楽は必要です!」
歌うアレックスの寂しそうな表情や、上機嫌で鼻歌を歌うダグラスの笑顔が自然と思い出されて、声に力がこもる。
体が触れてしまったのだろう、瀟洒な一輪挿しの花器がガチャリと音を立てた。
「ミネルヴァ」
ニコライは生まれて初めてミネルヴァの大きな声を聴いたかのように目を見開き、そしてまた柔らかな笑みを浮かべた。
「不思議だね。記憶をなくしたはずなのに、君の音楽への想いは消えていないままだ」
「お兄様だって音楽をお嫌いじゃないはずです。どうしてお兄様まで音楽を禁止されているのですか?」
「約束したんだ」
「誰と? 皇太后様ですか?」
「……」
ミネルヴァが聞かないと答えてくれない。歯に物がはさまったようなニコライの言い方に、いい加減イライラとしてくる。
「何を約束されたのですか?」
「音楽と、それからリリアンヌ様を思い出すようなものをこの世から排除してくれと。そうすれば」
「そうすれば?」
「アレックスの命までは奪わないと」
――ひどい。
ミネルヴァは、その言葉にショックを受けて、思わず手に取ろうとしていたグラスを倒してしまう。
ガシャン。水の入ったグラスは、音を立ててテーブルを転がった。
「血を分けた、実の孫でしょう?! しかも年端もいかない、何の罪もない少年を処刑しようとしていたというの? 母親のことが気に入らないという理由だけで!?」
今度はニコライも何も言わない。おもてだって皇太后を非難することはしないのだろう。
ミネルヴァの手は、まだ見ぬ皇太后への怒りで震えてくる。
「アンナ、替えのグラスを持ってきてくれる?」
話を変えるために、ニコライはアンナに声をかけ、そして落ち着けと言うように「ミネルヴァ」と静かに呼ぶ。
「皇太后はリリアンヌ様を、再び音楽を許すことはないと思う。……それで君はどうするの?」
ニコライは口元に笑みを浮かべ、しかしその奥では笑っていない翡翠の瞳でじっと見つめてくる。
「音楽を取り戻したいと言うの?」
――これはどっち? ニコライの言葉の意味は?
もしYESと言ったら、どうするのだろう。この皇帝たる兄が敵となることはありうるのだろうか。だいたい、音楽を取り戻すと言ったって、まだ、自分でも何をしたらいいかもわかっていないのに。
ミネルヴァの頭の中では、ぐるぐると質問だけがかけめぐる。
「なぜ、お兄様が取り戻すとおっしゃってくださらないのですか?」
「私には、その権利がないから」
ニコライが眉をひそめて、苦しそうな表情で、しかしきっぱりと言う。
「でも、君になら戦う権利はあるだろう」
「もし、私がそうするつもりだと言ったら、どうしますか?」
ずるい答えだ。自分でもそう思う。しかし、ニコライはこれにも何も答えない。
しばらく、兄妹ふたりで見つめ合うが、ミネルヴァに兄の腹はまったく読めない。
「……皇太后様に会うことはできますか?」
ミネルヴァが言うと、ニコライは首を振る。
「皇太后様は、足が悪くて、めったに人前には姿を現さない。私でさえひと月に一度、ご報告に訪問するぐらいだよ」
きっとこの世界に来たばかりの自分には、大きな権力に太刀打ちすることはできないだろう。しかし、当の皇太后が表舞台に出てくることがないならば……。
――いっそ、秘密に事を進めることができるかも……?
ミネルヴァが何かを企んでいるのが見て取れたのだろう。ニコライがフッと息を軽くもらした。
「君は、自ら命を絶とうとして助かったんだよ。もう、これ以上、みすみす危険に飛び込むようなことはしないでほしい」
そういうニコライは、真剣な表情だ。おそらく心から妹を心配しているし、しかし止められないことを知っている。
「……わかっています」
口から出る言葉は、YES。でも本心では違う。
「ただ、ピアノ室は、そのままにしていただけますか? これ以上、私から何も奪わないで」
罪悪感を植え付けるために、あえて強い言葉を使う。ニコライは少し黙った後で、「いいだろう」とだけ小さく返した。
ニコライは、味方にはなってくれない。しかし、やはり敵とも言えなそうだ。
――きっと、この地で私ができることがあるはずだわ。
ミネルヴァは熱くなった頭を冷やすべく、アンナが持ってきた水を一気に飲み干した。




