背中の星
ボクは、小さく細い腕を懸命に伸ばして、
あの葉先へと登る。
きっと世界はあの場所から始まるのだと願って——
頂点に辿り着けば、視界を遮るものはなく、
ボクが生きるこの世界が見渡せるはず。
端っこを目に焼き付けて、飛び立つんだ。
遠く、まだ知らぬ別の世界へ。
そんな妄想を何度繰り返したことか。
現実との乖離は大きく、上に登れば上るほど、
嘴に啄まれる危険は増すばかり。
葉の影に身を隠せども、物騒な鎌の逆三角形や、
八つ目の糸に絡み取られる。
結論、ボクは弱いのだ。
あるとき、小さな緑の半透明たちが、
こんなボクのことを大層羨んだ。
「キミは飛べるのだから素晴らしい」
「我々の知らない景色をたくさん知っているはずさ」
勝手気ままなご意見だこと。
目に見えたところで、掴めなければ意味がないと言うのに。
続けざまに、
「背中の星なんて、キミがキミたる象徴だ」
「我々なんてみんな同じ、葉や茎の緑色に隠れるだけの無個性な集団さ」と。
なにも分かっちゃいない。
ボクが、この背中の星を剥がしたいと、何度願ったことか。
(皆、世間に上手く紛れられて羨ましい)
(背中の星を剥がしても良いのなら、ボクも、真緑の人生を送りたい)と。
個性を持って生きるということは、否が応でも目立ってしまうのと同じ。
崇拝、願望、妬みや僻み、
断ることの出来ない感情をぶつけられるのさ。
無個性の集団に溶け込めた方が、生きるにおいて賢い気がする。
ましてや、武器にも毒にもならない飾りなど、
ただのハッタリでしかないのだ。
主観で見るに、ボクには、登るより他にすることも無い。
単純に、誰にも気を遣わずに、羽を広げたい。
関係性も、信頼も捨てて、
この場所から飛び立ってしまいたい。
そうやって、ボクはまた葉先を目指す。
この羽の限界も、背中の星の無価値も分かっている。
世界の大きさも、無慈悲な高さも痛感している。
それでも、目線の先に在る頂点を目指す。
先にも言った、登るより他にすることも無いのだ。
これは決して、目標ではない。
やりがいでも、きっと使命でもない。
ただ、陰気に湿った土の養分になるくらいなら、
いっそ太陽に焼かれて小さな黒炭になる方がマシだ。
そんな微細な反骨心が、ボクに腕を伸ばさせるのだと思う。
時折人間は、ボクを不躾に摘まんでは、
どこか知らない頂点へと解き放つ。
そうしてボクが羽ばたくと、
小さな幸福を手に入れたように微笑む。
あたかも神の一手の如く。
それが、共感の限界線なのだと思う。
背中の星が、また疼く。
自分という存在を証明したくて、かき鳴らすように。
本物の星々を睨みつけながら、それでも、
腕を伸ばした先で、この生に意味があることを願って——
お読みいただき、ありがとうございました。
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【※この先は、作者による作品解説です。
自己解析・自己考察を含みます。
読後の余韻を大切にされたい方は、ここで読むのをお止めください】
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作家も然り、あらゆる場面で、個性とはすばらしいものだとの意見が溢れている。
本当にそうなのでしょうか?
人間という〝イチ〟生物にとって見れば、アイデンティティといったものは、そのほとんどが『欠点』であるはず。
人間が『社会』という概念を創り出した結果、『個性』という概念もまた、本来とは違うものになっていったのでしょう。
実際にはどうなのか。
一部、時代に名を遺した変わり者を除き、今の世ですら、無個性こそが完璧に近しい〝人間〟なのだと作者は思うのです。
事実、ごく最近の社会問題の中にも、多様性、性的自由、宗教的自由など、アイデンティティが故の不幸が溢れている。
最終的に、それぞれの背中の星の価値を決めるのは、それぞれ自身でしかない。
他者から褒められても、たとえ貶されても、生物的価値は上下しない。
もしも、他動的に価値が変わると言うのなら、それこそが〝世界という偶像〟の正体である。




