死んじゃうまで。
人間が死ぬとはなんだろうか。
一説には、細胞分裂の限界値であり、物理的な腐敗。
また、ファンタジー的に言えば、人に忘れられたときであったり、
精神的な浄化、存在の希薄化……旅立ち。
私にとって『死』とは、もっと身近なものであるべきだ。
別に大して恐ろしくもないし、至極当たり前の事象。
ただ、あまりにも強制的な部分に、
私たちは恐怖してしまうのではないだろうか。
逆説的に考えるならば、『生』とはなんだろうか。
例えばなぜ、私はこの文章を書き、あなたはそれを読んでいるのだろうか。
この時間は『生きる上で必要』なのか、
それとも、『死ぬ上で必要』なのか。
苦しみこそが『生』ならば、『死』とはまさに罪からの解放。
愉しみこそが『生』ならば、『死』とはまさに罰の執行。
哲学だとか宗教だとか、そんな大層なものではない。
ただ私は、理由が欲しいだけなのだ。
この『生』が在る意味や、『死』に向かい続ける根拠を。
現時点で分かっていることといえば、
この疑問に答えがないであろうということ。
人間の寿命を延ばす研究を知っているだろうか。
肉体を修復し、脳を保存し、
『死』そのものを遠ざけようとする試みだ。
それはどこか崇高で、人間らしく、
しかし同時に、無様な足掻きなのだと思う。
人生を薄く引き伸ばしたところで、
果たしてそれを幸せと呼べるのであろうか?
とある金持ちは言った。
人類の延命とは、飽和と停滞を意味する、と。
私もこの意見に賛同である。
事実、仮に自分の寿命があと五百年あるのなら、
私はきっと、なにもしない。
毎日をただぐうたらと過ごすに決まっている。
そして、四百五十歳を迎えたあたりで焦るのだ。
寿命が延びたところで、『生』と『死』の本質は何も変わらないのだ、と。
それでは、私たちはこの人生という名の狭間でなにが出来るのか。
そもそもに、必ずしも意味がなくてはいけないのだろうか?
人として、何かを成さねばならないと……
『何者かであらねばならない』と決めつけたのは、
自分自身の中から出てきた言葉なのだろうか?
違うはずだ。
私は、ただしぶとく呼吸を続け、
死ぬべくして死ねれば満足だ。
いつの間にかズレてしまっているだけなんです……
自分の価値に対する視点が。
多くの人は気づかぬ間に、社会に埋もれてしまう。
いや、そう勘違いしてしまうのだと思う……
他人からの評価こそが、自分の価値であると。
私が思うに、この命の価値を決めるのは、
自分自身以外にあり得ない。
たとえ、誰かのために命を捧げたとしても、
それは己が決めた己の価値なのだ。
私たちは案外、同じようなもので、
泣いて、笑って、失って、また何かを欲しがる。
優越感も、劣等感も、ほんの僅かな揺らぎでしかない。
死んじゃうまで、私は生きる——
死した後の評価などに興味は無い。
自分の居ない世界などにも興味が無い。
私の心臓の鼓動こそが『生』であり、
『死』とは世界の終わりなのだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
誤字・脱字に関すること、細やかな評価や感想をいただけますと、励みになります。
【※この先は、作者による作品解説です。
自己解析・自己考察を含みます。
読後の余韻を大切にされたい方は、ここで読むのをお止めください】
——————————
あーでもない、こーでもないと書き直していたら、二週間が過ぎようとしていました。
この作品のせいでスランプに陥っていたのでしょうが、なんだか一旦書き切ってしまわなければいけない気がしまして。
作中でも述べているように、別に、哲学や宗教思想を語りたいわけではなく、皆様にもあったりしないでしょうか?
……突如として襲ってくる虚無感。
悩みとか、心配だとかではなく、ただただ虚しくなる瞬間。
私は時に、これに襲われ、その度に理由を求めるのです。
でもね、結局は毎回、答えなんて見つからないし、『まぁ、好きなことして生きているんだから、ラッキーか』と、結論づくのです。
だから、今日も、明日からも、生きます。
この世界を守るために。




