第五十一章: 孤独
王都ではトレーシーが孤独と戦っていた。
もちろん王宮である。人はたくさんいる。王太子のウィルやベアトリス、弟のマチアス王子は頻繁に部屋を訪ねてきてくれる。けれども、彼女の真実を知る者はいないのである。
彼らも侍女たちも決して言わないけれど、私の顔色の悪い顔は次第に目が落ち窪んできているし顎も尖ってきている。
下手に外出すると魔王との因縁の深い場所に行ってしまうと魔王の種が大喜びすることになる。
エドのことを考えていると無理やり「食べたい」という考えを押し込んでくるのである。
それでもう外出は控えることにした。学園もエドがいないのでは行く意味もない。
エドのことをぼんやり考えるだけで「食べたい食べたい」と魔王の種が言ってくるのである。そんなのたまらない。
なので、私は手芸をすることにした。トゥラニアの冬は寒い。今からセーターやマフラーを編んでおくっていい考えじゃないだろうか。
しかも、私が編んでいる間はたとえ魔王の種が私に何かの考えを吹き込んできても無視していられるのである。まだその考えを受け入れるほど私は弱くはない。
私がひたすら編み物をしているのを見てベアトは最初は驚いていた。
「そ、そうね。今からは夏だけれど、冬を見越してセーターを編んでおくというのは悪くはない考えだわ。セーターを編むには時間がかかるからね。」
「セーターだけではないわ。マフラーも手袋もどんどん編んでおくつもりなの。だから時間はかかるでしょうね。」
本当のことを言っても信じてはくれない。もっとも、たとえ本当のことを言ったときでどちらがより頭がおかしいと言われるかはよく分からない。
それよりも私は魔王の種の言葉により長く抵抗する必要があるのだ。魔王の種に耳を貸さないために考えたのがセーターを編むこと。刺繍をすることでも構わない。とにかくなんでもいいから手を動かし続けるのだ。
私に編み物を教えてくれた侍女も私があまりにも編み物に熱中するのを心配して「姫様、そんなに根を詰めなくてもよろしいのでは?」と言う。
「ありがとう。でも、何か手を動かしていなければ私はエドを好きだと言う気持ちに押しつぶされそうな気分になるのよ。」
もちろん嘘である。けれども、侍女はこの言葉に納得するだろうと思う。
そうするとウィル兄様が現れた。彼は「もしトレスが望むならばトゥラニアのエドのところに行ったって構わないんだよ。」と言う。
兄様は優しい。
「ごめんなさい。それはできないわ。魔族をエドが全員やっつけてもらわないと私は怖くてとてもいけないの。今だって怖いから夜も眠れないもの。」
私はスラスラと嘘を言う。
「エド」というウィルお兄様を聞いたからだろう、その言葉に私の心とも心臓とも違う部分が身を躍らせる。
エドガホシイ、エドガホシイ、エドヲタベテシマイタイ。
魔王の種はそんなことを言い続けている。
私は頑としてそれを許さないことにしている。
魔王の種を止める術はないとあのツェペシュが言ったのだから多分、何かの器具や魔法でこの魔王の種を取り去ったり無効化することはできないのだろう。
だからこそ私が全力でこの魔王の種を抑え続けるしかない。
私が全力で魔王の声を無視しているともう魔王の声はほとんどわ聞こえないくらいになる。だからこそ私は魔王の種を徹底的に無視してやるのだ。
そうして私はそれでも少しづつ大きくなる魔王の声を無視して抗い続けた。編み物をして魔王の声を聞かないふりをし続けていた。
あるとき、魔王の種の声に飢えが混じってきたことに気がついた。
魔王の種は「オナカガスイタ、エドヲタベタイ、オナカガスイタ」と繰り返すようになっていたのである。
もしかするとこのまま魔王の種が飢え死にするかもしれない。
私は一縷の望みを持って魔王の種の叫びに耐えていた。
けれども、その願いは虚しく潰えてしまった。
いつの頃からか王宮には変な猫が住み着いている。その猫は背中から二本の触手を生やしていて優雅に王宮の廊下を歩いている。
それでも誰も猫に気づかないように歩いている。あるいは本当にその猫の存在に気がついていないのかもしれないけれど。
私は小さな頃、猫に手を出してみたが猫はツンと気位が高そうに私の手を無視して行ってしまった。
それからは私は王宮でその猫を見ても見ていないふりをすることにしたのである。
みんながその猫を見ても知らないふりをするのは何か理由があると考えたのだ。
私が少し用があって珍しく部屋を出て王宮の廊下を歩いていた時、珍しくその猫が向こうからやってくるのが見えた。
私はいつものように猫を知らないふりをして通り過ぎようとした時、いきなり私の口からもう一つの口が現れて、さらにその中から腕まで現れてその猫を引っ掴むや否や私の口の中の口は猫をパクりと飲み込んでしまったのである。
それから魔王の種の「オナカガスイタ」は聞こえなくなってしまった。
私はむしろ猫を食べた口に恐慌を覚えて走って自分の部屋に戻り、シーツにくるまってガタガタ震えていた。
いくらガタガタ震えていたってあの猫を食べたのは他人ではなくて自分であるということに気がついた私は物入れからナイフを取り出した。
そのナイフで私の腕を切り裂こうとしてみた。けれども、私の腕には傷一つつかず、当然ながら血の一滴も出なかったのである。
私は次に首筋を切ってみた。首筋も腕と同じように傷一つつかない。
(ああ、もう私は人間ですらなくなっていた。)
そのことに気がついた私はもう半狂乱になっていたと思う。我に返った時には部屋中におそらく私がめちゃめちゃにしたのであろうベッドのマットやソファのクッションが散乱していた。
(ああ、もう私は人間ではないのだわ。エドが討伐している魔獣と同じ側に行ってしまった。エドの横に立つ資格なんて無くなった。)
ふと見ると、錯乱していた時に投げ捨てたのかもしれない、ツェペシュから貰ったメダリオンが鈍い輝きを放っていた。私はほとんど無意識のうちにそのメダリオンを懐に入れてお兄様の部屋に行った。
お兄様はベアトリスとともに自室にいらっしゃった。
「お兄様。私を殺してください。」
私がそう言うと、ウィルお兄様は「どうしたんだ。滅多なことを言うんじゃないよ。」と言う。
「私はどうやら死ねなくなったのです。お兄様の宝剣でも傷つけられるかどうかわかりません。」
「何を戯言を言っている。おい、トレス、待て、落ち着け!」
私はウィルお兄様の制止を無視して窓に走り寄ってそこから身を躍らせたのである。ここは5階である。地面までには何十メートルあるのだろう。
その時私はそれで死ねたらそれでいいとまで思っていた。
けれども、私は傷ひとつついていない私の体を立ち上がらせ、服についた埃を払っただけだった。
私に向かって叫び続けているお兄様とベアトリスに手を振って「私はもう人間の世界からはみ出してしまいました。ごきげんよう。さようなら。」と言い、メダリオンの導きにより王宮の地下に下って行った。メダリオンは空中に浮かんで私が行く先を淡く照らしてくれたので迷うことはない。
おそらくここは王宮の地下でも禁制とされて立ち入り禁止になっていた場所だろう。けれども今の私に怖いものはない。そのまま降りてゆくだけである。
(もう、私は二度とエドには会えないのかもしれない)
そう思うと後から後から涙がどんどんとあふれてくる。
私はそのまま泣き続けながら地下に向かって行ったのだった。
どれだけ歩いたんだろう。もう時間も距離も方角もわからなくなった私はついに小部屋に辿り着いた。
そこには奇妙なポッドがあり、一人が座れるようになっていた。
疲れ果てた私がその座席に腰掛けると音もなくポッドのカバーが降りてきて閉じてしまい、中にはエーテルのような液体が満たされてきた。
もう逃げようという気もなくなった私はされるがままになっていた。
エーテルのような液体が私の全身を包んだ時、私は静かに意識を手放していた。
♢♢♢
ウィル王太子は翌朝、ドゥーリットル魔法師団長と王宮の地下にいた。
「ここまでは王女殿下の痕跡を追いかけることができます。」
ドゥーリットルはそう言って古ぼけた扉の前を指差した。
「その向こうは?」
「そこから先は禁断の領域です。」
「そうか。」
「王の名で禁制が敷かれておりますが、ここは長老たちの許可がないと入ることはできません。」
「色の魔人を封印するためだったっけ。」
「それ以外にも当時の英雄たちが対処できなかった化け物たちが封印されていると言いますよ。」
「くわばらくわばら。触らぬ神に祟りなしということか。」
「色の魔人は目覚めてしまいましたが、だからと言って他の化け物を目覚めさせることが得策とは言えません。」
「手が出せないということか。」
「エドワード君なら、その覚醒が完全になったらあるいは。」
「トレスはエドの婚約者だしな。エドに任せるしかないか。まあ、彼が帰ってきたら、の話だが。」
「今の所、エドワード君もテレジア王女殿下もその生命反応は消えておりません。希望は持ち続けるべきですね。」
「希望か。いい言葉だなあ。」
ウィル王太子は踵を返して上に戻り始めた。
ドゥーリットルは黙って王太子の後についてゆくのだった。
♢♢♢
領都には「青の閃光」のメンバーも同行することになった。クローヴィスのダンジョンやゾンダーたちのダンジョンを検分するためだという。
「早く領都の冒険者ギルドを開きたいものですなあ。」
みんなそんなことを言って笑っている。
ヘンリエッタのところからは一人の薬師が派遣されてきていた。俺も彼女の店で見たことがある。エイミーという赤毛の女性だ。
どうやら領都の店は彼女がメインで切り回すらしい。
「ヘンリエッタ様はとりあえずは育児に御専念なさりたいというご意向ですので。」
そう言ってエイミーは笑った。
俺たちは彼らを引き連れて領都まで辿り着いた。
街道は順調に伸びてきている。
領都ではオルジさんが出迎えてくれた。
どうやら仮の宿舎ができたらしい。
「冒険者ギルドの予定地と薬屋の予定地はもうガラクタを取り去って整地していますよ。見にきてください。」
案内されてみると、その区画だけは綺麗に整地された二つの区画があった。青の閃光のメンバーは「ここも私たちに設計をお任せいただけますよね。」と、俺に頼んでくる。俺は頷くしかない。エイミーさんの方はすでに青写真を作っていたみたいで設計について建設担当の監督と打ち合わせを始めている。
「青の閃光」はとにかくまずはダンジョンを見たいというので俺たちが案内することになった。
「ほうほう、ここはいい初級ダンジョンですね。」
俺が突入した時とは違って初級モンスターが適度に配置されたクローヴィスのダンジョンは初心者の冒険者に適切なものだった。
「一応封印はしてあるけれど、馬鹿どもが荒らすのを防ぐためにも警備はしたほうがいい。」
「そうですね。警備員を配置して入場料を取りましょう。」
「結構ぼったくりだなあ。」
「必要経費は受益者に負担していただきませんと。もちろんうちのギルドメンバーなら無料で使用していただきますよ。」
「当然そうすべきだろうね。」
俺はそう言ってちょっと顔を顰めた。
ゾンダー谷のダンジョンも同じように視察を行ったので終わった頃にはその日はもう夕方になった。
領都に戻ってくると、オルジさんが「宿舎をお使いになりますか?」と勧めてきた。
「そうさせてもらうよ。」ということで俺たちは新しく完成したという宿舎に向かうことになった。
宿舎は簡素だがしっかりした作りになっていた。
「やっと宿舎ができたのでリチャード様のお屋敷にご厄介にならずに済むようになりました。」
オルジはそんなことを言う。
オルジは社交辞令のつもりだろうが、実際には父上であるリチャードは亡霊となってあの邸跡を彷徨い歩いていたのである。父上は彼らがガヤガヤと邸跡を使っていた方が嬉しかっただろうか。それとも誰もいない静かな屋敷の方が好きだったのだろうか。
恐らくは前者なんだろうと思う。この領都も早く人が増えて騒がしくなって欲しいものである。
「…それで、計画通り建物の復興を済ませますので、優先順位では少しゆっくりになりますが、領主館は壮麗なものを全力で再現させていただきたく思っております。」
オルジさんは滔々と喋り続けていたようである。
「う、うん。みんなが不便をなるべく感じないで済むようによろしく頼む。」
「ははっ。我が家族も復興した領都に戻れることを待ち遠しいと言っておりますのでそんな人々にも恥ずかしくない仕事をしたいと思っております。」
オルジさんは最敬礼して下がった。
ゲイリーが「若様、若様」と言っていたのにはそれほど違和感はなかったが、急に領主扱いされるのにはいまでもあまり慣れていない。
そこでポリポリと頭をかいてしまえば領主の面目は丸潰れだし、かと言って胸を張って踏ん反り返ってもなんだかバカみたいである。
こういう時にはトレーシーならうまくやってくれるだろうと思う。ふとトレーシーとの距離が遠くなったように感じてしまった。こんなことをしているよりもトレーシーに早く会いたい。
宿舎は完全に男女分離で、女性の部屋と男性の部屋は分かれている。ケビンが勇者パーティのメンバーに会いにくくなったとぶつぶつ呟いていた。
夕食時にはヘンリエッタの薬屋のエイミーに会ったので聞いてみたら「なんだか精神的に安心できるので、この方がいいです。」なんて言っている。
ケビンは「僕がパーティメンバーに不埒なことを考えるなんてあり得ないのに。」と文句を言っている。
可哀想にフリーダ。
ケビンがこういう朴念仁だからこそ神殿も安心してフリーダを預けているということはあるんだろうけれども。同じパーティのヒルダやグゥエンダリンすら知っていて公然の秘密になっているようなことをご本人のケビンが気がついていないのは可哀想を通り越して滑稽とも言える。
夕食時にはこの宿舎の主人が料理を出してくれた。全体としては王都風だが、肉をふんだんに使っているので俺たちには嬉しい限りである。
食後にケビンは主人に向かってファミリー部屋とか男女混合部屋を作ってもらわないと打ち合わせに困ると色々と文句を言っている。
主人は夕食がお気に召したことは嬉しく思いますとお礼を言ったのち「今は町の再建なので利用客のほとんどが男性なのです。」と言う。
今は殆どが男性客なので少数の女性客が不安や不便を感じないように分離しているのだと言う。
今後、再建が完了して宿舎が旅館として経営されるようになった時には家族客も増えてくるだろうから制限を外して家族客も安心して泊まれるようにしてゆくつもりだと言うのである。
女性たちがちゃんと男女分離してくれるのは安心だよね、とか食事の時などにはここにきて話できるのだからそんなに問題にならないよねと主人の援護射撃をするものだからケビンは返事に詰まってしまった。
宿の主人は話題を変えようとしたのか、俺に向かって「御領主様がドラゴン退治をしたのであのトゥラン川の渡し場の宿の名前が『白龍亭』になったと聞いています。うちもできたらそういう強い魔物を倒してその名前をいただきたいんでございます。」と言ってきた。
「ええっ?そんなに都合よくドラゴン狩りとかできないんですけど。」
俺が慌てて答えたがケビンは「いや、こいつなら大丈夫だ。」なんて冷たくいう。
フレッドまでが同調して「そうだな。ご主人、エドには期待してくれていいぞ。こいつはそういう点では化け物と言っていい。」なんて言い出した。
アランは「まだまだこれからダンジョン探索が残っていますからね。そこで戦った魔物については私がお伝えしましょう。」と一人だけ優等生的なことを言うが、本質は変わっていない。
「君たち、私を化け物なんて言うが、そんなことはない。私はこちら側の人間だ。断じてバケモノではない。」
「いや、エド、君はもう向こう側の人間だよ。普通ではない。」
みんなが声を揃えて言う。
「はあ、君たちを友人だと思っていたのは私の見込み違いだったのかもしれない。」
俺がそう言うとみんなが笑い転げていたのである。




