第四十八章: トレーシーの決意
あのツェペシュが私に施してくれたのは魔王を押さえ込むための封印だったのだろう。魔族によってあの封印が解かれてからは次第に魔王の鼓動が感じられるようになってきた。
さらに怖いのは知らない間にエドに噛み付いていることだ。私はエドに噛み付いてなどいないのに噛み付いた歯形を見せられた時にはもう絶望感しかなかった。
もしかすると既に私の知らない間に一部分は魔王に体を乗っ取られているのかも知れない。
そう考えた私はエドとは一緒にいられないという決意をしたのである。
私は王宮に帰り、エドはトゥラニアで魔族と戦うだろう。エドがなんとかしてくれればいいのだろうけれど、魔王の種という話は私も初耳だし、魔族しか知らないことだ。もし私が魔王の種なんて言っても誰も信じてくれないだろうし、もし信じてくれたとしてもそれなら私ごと魔王の種を滅ぼそうと言い出すだろう。
本当はそれが一番いいのかも知れない。けれども私の弱い心はエドに頼ったらなんとかなるんじゃないかと考えてしまう。
本当は私は死ぬのが怖いのだ。
なんとかして生き延びたいという浅ましい心が私自身たまらなく嫌だ。
父上と兄上と王宮で面会した時に何も言わなくてもエドは私を王宮に残すと言った。もちろんエドが浮気するなんて信じられないし、そこには他意はないのだろうと思う。
私も今のままでエドの冒険に参加したら足を引っ張る未来しか見えない。
けれども、エドと離れることはエドに見捨てられるかも知れないという不安は拭い去れない。
アリシアはいい子だからもしエドがアリシアと恋仲になっても私を無視したりはしないと思う。でもそんな未来は嫌だ。エドは私だけのものであってほしい。
それでフレッドにはわがままを押し付けてしまった。
お兄様も賛同してくれてはいたけれどもあれは完全に私のわがままである。
今私は一日の大部分をベアトと一緒に過ごしている。ベアトはまだ兄上の婚約者としての王太子妃教育が残っていて、それをこなすのに大変みたいである。それで教育が終わった後に私のところに来て疲れを解消しているのかも知れない。
ベアトが好きなのは最新ファッションの話、音楽の話、お菓子の話である。他には罪のないゴシップなんかも得意である。私はそういう話には興味がなかったけれど、ベアトとそんな話をしているうちに興味のない話でも聞いているとその時だけは他のことを忘れるから救いになっている。
もうエドはトゥラニアでダンジョン探索を再開しているかも知れない。本当はエドに今すぐ会いたいんだけれど、それを口に出すことはできない。自分だ自分の心を騙し続けるしかない。
魔王の種は私がエドに会いたいというと喜んで会いに行くだろう。そしてエドを食べたがるのである。
エドを食べたら魔王の力は上がる。だから私はエドに会ってはいけない。魔王の力が増えるようなことはしてはいけないのである。それでも魔王の種は毎日着実に育っていることが感じられる。
恐らくは私の魔力と空気中の魔素を取り込んでいるのだと思う。もっと力をつけたら魔王の種は手当たり次第周りの人を取り込んで力を増大させようとするのかも知れない。私はそれが怖い。
そうなったら私は誰もいない荒野に行って魔王の種とともに死を待つしかないのかも知れないと思っている。
そりゃ私だってエドの横にいて、幸せな結婚をしてエドと幸せな生活を送りたいに決まっている。けれども、その望みはもう微かなものになっている。
おそらく私はもう二度とエドには会えないに違いない。そして孤独にこの小さな人生を終えなくてはならないんだ。私はそういう覚悟をしている。
♢♢♢
ある時、ベアトと宝石の話をした。トゥラニアのブルーサファイアの話をするのも辛いし、あの赤のルベルを思い出すルビーの話も嫌だからそんな話は避けていていつもはしていなかったのだけれど。
ベアトはゴシップが好きである。その時も多分彼女はなんの気無しにその話題を出してきたのだと思う。
それはエメラルドの原石であるベリルが盗賊団に盗まれたというのである。それがノーブル宝飾店という王都でも一二を争う有名な宝飾店に持ち込まれ、店はそれが盗品であることに気が付かずに研磨して宝石にして売ってしまったということである。
その商品をベリルを盗まれたラミレス伯爵家の当主が発見したということなのである。ラミレス領のベリルにはスターエメラルドという特別な種類があって、宝石の中に水玉が入っていてそれが星のように見えるということで珍重されているのである。
宝飾店側は盗品と知らずに購入したので賠償の責任はないと主張し、一方のラミレス伯爵側はスターエメラルドと分かった時点で非合法な取引であったことはわかったはずということで争いになっているらしいというのである。
私はそんな話には本当に興味はなかったのだが、ノーブル宝飾店という単語に引っ掛かりを感じた。どこで聞いたんだっけ。
そうだ。ツェペシュだ。ツェペシュがその部屋と地上を繋げている地下道がそのノーブル宝飾店の裏手にあったのではなかったか。
私はウィル兄様に無理を言ってノーブル宝飾店を訪れることにした。
特に宝石に興味があるわけではない。
私の興味のある唯一の宝石はトゥラニアのブルーサファイア、エドの瞳と同じ色をしたあの宝石だけである。
店内はあのスターエメラルドの話題もあってなのか、結構混み合っていた。混雑に紛れてウィルお兄様と離れた瞬間、私は急いで店の外に出て、裏手に回り、見覚えのあるドア、なんの変哲もなさそうな古ぼけたドアをみつけた。
私は躊躇せずにドアを開けて中に入って行った。中は薄暗いが全く見えないほどではない。何か魔法の仕掛けがあるのかも知れなかった。
階段は次第に下りの通路に変わり、私はその道をひたすらに降って行ったのである。
もうどれほど降りたのか、時間の感覚も失いつつあったその時に不意にそのドアは現れた。前回はそこから出てきた扉である。
私は扉をノックした。
「どうぞ」
聞き覚えのある声が聞こえた。
私は急いで扉を開けて中に入った。
中には見覚えのあるバンパイアがソファに座ってパイプを燻らせている。
私は急いでカーテシーをして淑女の礼をした。
「お久しぶりです、パンパイアさん。少しご相談があるのですが。」
バンパイアは少し興味を持った顔で「お聞きしましょう。」と言った。
彼は身振りでバンパイアの向かいのソファに座るように促した。
私はバンパイアのツェペシュの向かいのソファに座ると切り出した。
「あの、ツェペシュさん。以前あなたにかけていただいた呪いが解けてしまったようなのです。もう一度かけていただくわけにはまいりませんでしょうか。」
ツェペシュはパイプを手に持ったまま、私の方をじっと睨むように見つめていた。
少なからぬ時間、ツェペシュは私を眺めていたので私も落ち着かない気分になってもう一度「あの、失礼な物言いで申し訳ありませんが、以前かけていただいた呪いをかけていただけませんでしょうか。」と繰り返してみた。
するとツェペシュはハッと我に返ったようにもう一度私を見て、それから言った。
「確かにあの呪いは解けていますね。誰が解いたのでしょうか。」
「恐らくは魔族の『赤のルベル』ですわ。」
「そうでしたか。確かにあの魔族にはそれだけの力があるでしょうね。」
「それで……」
「ああ、あの呪いは一時的に魔王の種の発育を抑える力がありましたが、もう随分と魔王の種が成長していますから今から同じ呪いをかけても残念ながら効果はないでしょうな。」
「えっ、そんな。」
「恐らく、もう魔王の力はあなたにリンクしてしまっていますから押さえ込むのは無理ですし、仮に崖の上から飛び降りるような無謀をしても魔王の力であなたは死ぬことはないでしょう。」
「えっ、ではたとえ心の臓を短剣で突いたとしても命を失うことすらできなくなったということでしょうか。」
「そう言わざるを得ません。魔王の種の自己保存本能で宿主の命を奪う行為は回避される段階に来ていると言えますね。」
「ではどうすれば………」
「残念ながら通常通りであればもう手の施しようはないのです。」
「ではもう魔王が目覚めるのを待つしかないのですか?」
「そこは難しいですね。通常ならもうあなたは伴侶であるエドワード・スペンサーを食い殺していてもおかしくないのです。この段階ですでに正気を失う人も多いのです。」
「本当に私も絶望のあまり、正気を失ってしまいそうです。」
「けれどもあなたは未だに正気を保ち続けている。これは稀有なことですね。」
「ではどうすれば良いのでしょう。」
「これ以上魔王の種が成長するならばもう見境なしに周囲の人や生き物を取り込んでしまうかも知れませんね。恐らくあなたは今は死なない体になっていますから周りに人のいない環境に向かう方がいいかも知れません。」
「どこにそんな場所があるのでしょう。」
「一つはあの赤のルベルが封印されていた場所ですね。あれは王宮の地下にあるのです。そこには生命の影はありませんから魔王の種を成長させずに済むかも知れません。」
「もうエドと会うことはできないのですね。」
「いや、先ほど私はあなたの運命を見ていたのです。それは混沌としていて全くわからないと言っても差し支えなかったのです。けれどもあなたの伴侶との別離という象は出ていなかったのです。」
「エドを信じろということですか?」
「そうですね。私は千年くらいはあの魔族たちの下で仕えていたことがあります。その時に魔王の種を植えられた人はもうこの頃には運命が決まっていました。あなたはまだ運命が決まっていない。」
「はい。」
「もっともその運命は細い糸のような儚いものですから本当にどうなるかはわからないのです。ここにメダリオンがあります。このメダリオンを使うとルベルの封印された場所に辿り着くことができるでしょう。」
そう言ってツェペシュは一枚の少し大きめのメダリオンをトレーシーに渡した。
「さて、王女殿下、あなたを心配した人がもう近くまで来ているようですね。実はあなたの位置は魔族には知られています。私は魔族からすれば裏切り者ですからもう場所を移す必要があるのです。」
そう言ってツェペシュは微笑んだ。
「運命が許せばもう一度会うことがあるかも知れませんが、もうお別れの時です。後から来たものには『ここには誰もいなかった』と言いなさい。ではごきげんよう。」
その時、私の入ってきた扉がノックされる音を聞いた。思わずそこに走り寄って扉を開けるとそこにはウィルお兄様がいた。
「なかなか深くまで続いていたんだね。で、こんながらんどうの部屋で何をしていたんだい?」
ウィルは聞いた。
「えっ?」
私が振り返るとすでにそこは最初から誰もいなかったように空っぽの空間が広がっているだけだった。
「そ、その、お兄様。ここはあのツェペシュの棲家だったのです。私はツェペシュに相談したいと思ってここにきたのですが、残念ながらもういなくなっていたようです。」
「そうか。そういえばあのツェペシュの棲家をトレスはエドと踏破したものなあ。」
「ええ。」
「私はトレスの秘密を無理に聞き出そうとは思わない。家族だから。だけれども、必要があれば可能な限りの支援はするよ。遠慮なく言ってくれ。」
「ありがとう、お兄様。その時には遠慮なくお願いするわ。」
もう抜け殻になってしまったツェペシュの棲家には用がない。私は兄上と地上に帰らざるを得なかった。
まだ私は魔王の種を押さえつけるだけの力がある。けれどもこのままだといつかは魔王に飲み込まれてしまうだろう。その時に私はうまくやれるのだろうか。
王宮に戻り、部屋で一人になった私はこっそりとあの真祖のバンパイアに貰ったメダリオンを眺めるのだった。メダリオンは暗闇の中で薄ぼんやりと輝いていた。
もう今日はエドたちと勇者パーティが旅立つ日である。王都の門のところで彼らは集まる手筈だった。そこにエドを見送りに来た私はまだ他の同行者が来るのを待っていたエドの胸に顔を埋めた。
エドと離れたくない。エドと一緒にいたい。エドを食べてしまいたい。
この最後の気持ちは明らかに外から挿入されたものである。魔王の意思に戦慄を覚えながら私はエドに言った。
「怪我しないようにしっかりやってきてね。私を助けて。」
エドは私の言葉に違和感を感じたようで頭を振った。
「大丈夫だよ。安心して待っておいで。」
私は彼がいう本当の意味はわからないけれど彼の胸の中に顔を埋めているしかなかった。まだ魔王の種のことをエドにも言うわけにはいかない。彼はもう気がついているのかも知れないけれど、私から言ってしまうことは別なのである。
エドには言わない、そのためにも彼に噛みつきたいという魔王の意思は全力で抑え続けるのである。
(まだ魔王を抑制できている。)
私は微かな安堵感と共にエドと離れる。
次に会う時にはもう魔王を抑えられないかも知れない。
それからフレッドに会い「エドに悪い虫をつけないように気をつけてね。あなた自身もよ。キャシーを泣かせる真似をしたら許さないんだから。」と釘を刺しておく。
フレッドはヘラヘラしているように見せかけているが、根は真面目な子である。
「大丈夫ですよ。安心してください。」
彼は存外真面目に返事してくれた。やはり彼なりにこの討伐作戦を重大なものに感じているのかも知れない。
アランには手を振る。彼は繊細な心の持ち主なのであまり圧迫しては可哀想である。
幸いなことに神殿はフリーダを出すのだからと言ってアリシアの同行は認めなかったようである。とにかく不安要素の一つは神殿が取り除いてくれた。フリーダがケビンにラブラブなのは見てたらわかるからね。
そしてケビンとフリーダ、その他のメンバーに向いて「討伐をしっかりお願いします。エドはいい人なので仲違いしないでやってください。」と私は言った。
ケビンは「ああ、ジャン、えとエドワードは私の古い友人なので大丈夫ですよ。同じイアン・マッカラム先生のもとで扱かれた身ですから。」と笑っている。
フリーダも「そうです。私も風紀委員としてエドの不純異性交遊は見逃さずに摘発しますから大丈夫です。」と言う。
いつも思うのだが、フリーダが大真面目に言うことには私はつい笑ってしまう。これは私を安心させるためのフリーダの心遣いなのだろうか。
多分、これがフリーダの素顔なのよね。
私は微笑んで勇者パーティに手を振り「ご武運を!」と叫んだ。
ケビンたちも手を振りかえしてくれる。
エドは「じゃあトレーシー、そろそろ行くよ。」と言うのでエドにも思い切り手を振ってあげた。
勇者パーティの乗った馬車はゆっくりと動き出し、エドたち三人の騎馬もそれを守るように動き出した。
私は彼らの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
彼らがもう視界から消えてしまった
さあ、私は私の戦いを始めなきゃいけない。
そうして私は王宮に戻ることにしたのである。




