第三十九章: トレーシーとの同衾の結末と屯田村の視察
寝室はやや広い部屋でダブルベッドだった。
「はい、つべこべ言わないで。ここで寝るのよ。」
そういうトレーサーの顔は真っ赤である。
「あの、無理しなくてもいいのでは。」
俺がそういうとトレーシーは「バカッ」と叫ぶとそこにあった枕を投げてきた。
「何がバカなんだよ。俺がいつも必死に理性で押さえているのに。」
「何よっ、私だって、か、覚悟しているんだから。」
「だったらいいんだな。」
俺はトレーシーの背中に手を回して抱き寄せた。彼女は固くなっている。
そのままトレーシーをベッドに押し倒すとその唇に俺の唇を重ねた。
「あっ女の子のいい香りがする。」
俺は思わず理性を失いそうになる。
「こ、これ以上はダメだ。でももうちょっと唇の感触を楽しんでいたい。」
ずるずるとキスし続けていたら不意に下唇に激痛が走った。
「痛たっ」
俺が思わず唇に手をやった隙にトレーシーは俺から逃げ出した。トレーシーに唇を噛まれたようだ。
「ご、ごめんなさい。外出着のまま寝たら服に皺がよっちゃうから。着替えてくる。」
そう言って彼女は部屋から飛び出して行ってしまった。
俺はある種の安堵感、本能のままにあれ以上進まなくて良かったという気持ちで力が抜けたようにベッドの端に座り込んだ。
(トレーシーっていい匂いがしたなあ。それに唇だけじゃなくて体も柔らかかったよなあ。)
安心したら唇はまだズキズキしているけれど、そんな妄想が湧き出てきてなんだか勿体無い気分で呆然と座っていたのである。
そろそろ寒くなってきて、さすがにトレーシーも戻ってこないだろうなあと考えだした頃になってトレーシーは一揃いの服を持ってまた部屋に戻ってきた。
彼女はもう首元までバシッとボタンで止めた敵を寄せ付けない感じのパジャマで、下も乗馬服のようにきっちりとしたズボンだった。
もう難攻不落を体現した彼女は色違いのお揃いのパジャマを俺に渡して着るように言うのである。
俺がパジャマを着ている間に彼女は一生懸命にシーツを丸めてベッドを左右に仕切るようにしていた。
俺が「着替え終わったよ。」って声をかけるとトレーシーは嬉しそうに「じゃあエドはベッドの向こう側。私はこっち側に寝るね。」と言ってベッドの一方に寝転がった。
俺が反対側に寝るとトレーシーは「手」と言ってくる。手を繋いで寝て欲しいようだ。
つまり、これはさっさと寝るに限る。
俺は黙ってトレーシーの手を握って、目を瞑り、「さあ寝るぞ寝るぞ」と言っているうちに眠りに落ちたみたいだ。
うん、なんだか重い?
俺は重みで目が覚めた。
胸の辺りから寝息が聞こえる。
トレーシーである。
彼女は俺のお腹あたりにものしかかってひしっと俺に抱きついている。
俺って抱き枕か何かのつもりなんだろうかと思うとちょっと笑える。
大体、わざわざ仕切りを作っていたのにそれを超えてきているのはトレーシーの方じゃないか。
まだまだ夜明けには少しあるので俺は彼女の顔を眺めていることにした。だって、起こしちゃったらトレーシーもびっくりするだろうから。
幸せそうに眠っている彼女はやはり可愛い。いつも横にいるからそりゃ顔の作りはわかっているけれども近くで見るとやっぱり可愛すぎる。
ついキスしたくなるけれど昨晩のことを思い出して思いとどまった。けれども下半身はいうことを聞いてくれなさそうだ。そんなことを気づかれてはいけないので俺はそっと体を動かして彼女の腕を解き、ベッドから抜け出した。彼女はぐっすり眠っているようで目も開けなかった。
(俺の下半身の動きがもしトレーシーにバレたら恥ずかしすぎて死んでしまうよなあ)
まずは気づかれずに抜け出したことにホッとした。
空は白みかけており、そろそろ毎日の鍛錬の時間である。
(何も考えない何も考えない)
俺は心を無にして鍛錬に集中した。少しでも気を緩めると煩悩が頭を渦巻いてしまう。
そうして鍛錬を続けていると目の端に何か動くものが見えた。
(はっ?)
俺は頭を動かさないようにしてその影を見た。
それは巨人であった。巨人は川沿いにゆっくりと歩いていたようだ。しかも3体が連れ立って歩いている。
巨人たちはゆっくりと歩いて森の中に姿を消した。
(やっぱり川向こうは危険が大きそうだ。)
トレーシーを偵察に連れてゆくかどうかはもう一度考え直したほうがいいかもしれない。
そう考えながら朝の鍛錬の仕上げをしていると「きゃっ!」というトレーシーの悲鳴が聞こえた。
何事?と考える暇もなく俺は寝室の方に走った。
「どうした、トレーシー、大丈夫か。」
見るとトレーシーはベッドの上にちょこんと座っている。
俺を見ると真っ赤な顔をしてトレーシーは言った。
「おはよう、エド。あの、私、起きたらエドの方のベッドに居たのだけれど何かご迷惑をおかけしたかしら。」
俺に抱きついて眠っていたなんて言ったらどうなるかとか見当もつかないぞ。俺は無難に「いや、何事もなかったと思うよ。」と言うしかなかった。
トレーシーは「そ、それなら良かったのです。」とやっぱり顔が赤いまま俯いていた。
もしかして何か気がついているのかな?
「そろそろ朝の準備もできているだろうから食堂に行こうか?」と言うと、トレーシーは「で、では部屋着に着替えて参ります。」と言って部屋から慌てて走って出て行った。といっても侍女達のいる部屋は隣なのだが。
俺は鍛錬の時に着替えているのでそのまま待っていた。
程なくしてトレーシーがドレスに着替えて部屋をノックしたので俺たちは二人で食堂に向かった。
♢♢♢
食堂には既に何人もの騎士達が座っていた。
ゲイリーが俺に気がついて「若様おはようございます。」と挨拶してくれた。
俺が「やあ、ゲイリーおはよう。」と返すと、ゲイリーは続けて言った。
「でも若様、急いては事を仕損ずると言いますよ。若い時には焦る気持ちもわかりますが。」
「何のことだ?」
その時、俺はゲイリーが俺の口を見ていることに気がついた。
「ああ、これのことか。」
俺はつい自分の唇を撫でてしまった。
朝に姿見で見ると、少し腫れていてよく見たらわかるほどの変化があることは知っていた。
俺が唇を触ったことでトレーシーも気が付いたらしい。ちょっと慌てている。侍女の方は満足げに頷いているけれども。
「大したことはないよ。」
トレーシーに口を出させると何を言い出すかわからないので目で制してから俺はそっけなく言った。
ここは話を変えるに限る。
「ところで、朝、川沿いを散歩していたらお前らの言う『巨人』を私も見たよ。」
「まことですか?」
ゲイリーは思わず顔を真顔にして聞き返してきた。
「ああ。3体いたよ。」
「さ、3体ですと?」
「うん、間違いなく。」
「それでは偵察隊では手に余る可能性もありますな。討伐体を編成したほうが良い。」
ゲイリーは俺だけでなくトーマスの方を向いてそう言った。
トーマスは「巨人3体ならば念のため10人くらいの討伐隊を組む必要があるでしょうね。」という。
「追加はどれくらい必要かな。」
俺がトーマスに聞くと、トーマスは「山に伝来を走らせましょう。5人ばかり追加できてもらえれば対応できると思いますよ。」と頼もしく言ってくれた。
「もちろん、こうなれば若様にも存分にお働きしていただく必要がありますぞ。」
ゲイリーは言う。
「そうなれば今日の偵察は中止ですね。若様にはもう少し下流の屯田村をご案内することにしましょう。」
トーマスは言った。
「わかりました。じゃあゲイリーは偵察隊の準備でトーマスに村を案内してもらいます。」
俺はそう言うとゲイリーも同意してくれた。
屯田村への道は細いので馬で行くしかない。
トレーシーが俺の馬に乗ることは確定である。驚いたことに侍女達は馬に乗れるらしく、乗馬服を出してきて二人で一頭の馬に乗ることになった。
多分トレーシーも乗馬服に着替えれば一人で馬に乗れるはずなのだが、もう俺と一緒に行くことは既定事項になっている。
ランディと俺たちと侍女、そしてトーマスで行くことになった。
トーマスによるとこの渡し場の所には固まっているが、その向こうにはやはりまだまだ人手は足りないのでもっと人員が必要らしい。
果たして、渡し場の村を出ると人の気配はなくなった。
馬をだく足で進めているのでそれほどスピードは出していない。もう渡し場が見えなくなって随分してやっと向こうに次の見張り櫓が見えてきた。近づくと少し大きな小屋が3つほど建てられている。
トーマスによるとあの小屋一つで3人の団員が暮らしているそうだ。
川からは灌漑のための水路が引き込まれており、南の方に続いている。
水路をよく見ると水路からの侵入を防ぐために網のようなものが取り付けられている。
トーマスが呼ぶとわらわらと5〜6人の団員が出てきた。王都の道場で見たことのある面々も混ざっている。
今の所、半分は山の砦に詰めていて、交代でここの畑を耕しているらしい。
「それでも自分がここで畑を持って耕せるなんて夢みたいですよ。」と若い団員は語ってくれた。今は冬なので春になれば小麦を蒔きたいらしい。
やや年嵩の団員は「武術の訓練も怠っておりません。川向こうの監視もこの櫓でずっと行っています。」と言う。
俺も櫓に登らせてもらった。二人入ると一杯になる監視台は地上から10mくらいの高さがあり、川向こうはよく見える。
ここに日の出から日没までは一人の団員が監視を続けているそうだ。
その集落を出てまたどんどん行くと水路を作った所に小屋が建っている。そうして次の集落に向かっているとトレーシーが「あら、ここはあのゴルゴーンがいた所じゃない?」と気がついたように言った。
ゴルゴーンがいた時には毒の霧でおどろおどろしかった場所も今では爽やかな岸辺でしかない。
トレーシーは「あのサファイアの原石は取れないのかしら」とトーマスに聞いているが、トーマスも「やはりまだ人手不足なのでそこには手が回っていなくて。」と汗を拭きながら説明している。
もう少し人が集まれば宝石の原石を取るものも出てくるかもしれないのであらかじめ規則を作っておいた方がいいかもしれないなあ。これはナッシュビルのヘンリーさんと相談しよう。
そこから少し行くと見張り櫓のある集落があった。
トーマスさんは「もう少し行くと最後の集落があるんですよ。」と言うのでもうお昼を少し過ぎてしまったが、更に先を目指した。
トレーシーも「お腹空いたわね。」とか言うわけである。けれども、もう少しいけばもしかしてナッシュビル近郊まで行ってしまうのではないかという予感もあって黙って馬を前に進ませた。
午後になってしまったが、最後の集落であるナッシュビル近郊の屯所にたどり着いた。
ここはドワイトさんの部下達が作っている屯所であり、すぐそこにはナッシュビルの農民達が耕している畑がある。
見張り台の機能はこの屯所の見張り櫓に受け継いでいるとのことである。なぜかドワイトさんがいて色々と説明してくれた。
この屯所はあの渡し場よりも大規模で、より大きな騎士団員の詰め所の建物が出来ていた。
ドワイトさんは「ここはナッシュビルの守りですから。」と誇らしげに語ってくれた。
ここから少し行くともうナッシュビルの村である。人が増えているので町と言ってもいいかもしれない。
「こんなに早くあの渡し場からナッシュビルに帰ってこられるとは思わなかったよ。」
俺がトーマスに言うと、トーマスも「ええ。魔獣の危険がなければこのトゥラン川を使った交通を発展させれば領内はもっと発展すると思います。」と言う。きっとヘンリーさんもオルジさんもそれを狙っているのだろう。
結局お昼はヘンリーさんが特に予約してくれていた最近王都から新しく開店したレストランで食べることになった。
ヘンリーさん夫妻とパトラも一緒である。
ヘンリーさんは「エドワードくんとテレジア王女殿下には王都の味はむしろ慣れておられるでしょうが。」なんて恐縮していたが、空腹もあって美味しくいただくことができた。トレーシーもヘンリーさんの気遣いに感激していた。
昼食後はトレーシーの言っていた川での宝石採取の規制についてヘンリーさんと話をした。彼も既にそれを考えていて原案はできていたようである。
俺とトレーサーがそれを修正して実際の規制として必要時に公表することにした。
ヘンリーさんは「まあ、現状であのトゥラン川で宝石取りをするような人があればそれは命を捨てても惜しくないという蛮勇の持ち主というしかないでしょうから。」と苦笑いしていた。
その後、トレーシーはシルクについてライラと話をするために教会に行くようである。
トレーシーがいなくなったので俺はトーマスと少し話をすることにした。
「ゲイリーの朝の俺へのからかいようはちょっと度を越していなかったかい?」
「ああ、そうとも言えますね。」
「確かに私は昨日の晩、トレーシーとキスしてたらいきなり唇を噛まれたけれど、それは単に彼女が着替えをしたかっただけで。それをあんなふうに言われると。」
「ああ、そうだったんですね。」
トーマスの目は生暖かい。
「大体ゲイリーだってずっと一人じゃないか。そりゃあ私だって経験が少ないから色々うまくいかないことはある。けれども彼は言うべきことをわかっていっているんだろうか。」
「そうですねえ。彼は確かに王都でも女に言い寄られても相手にしないですからねえ。」
「そりゃあ、女嫌いじゃないのってゲイリーってそんなにモテているの?」
「まあ、騎士ですからそれなりには。でも全部断っているのは彼の心なはまだ彼女が住んでいると言うことなのでしょう。」
「彼女って?」
俺はなんだか聞いてはいけないようなことかもしれないと思ったが好奇心に負けてつい聞いてしまった。
「ああ、ゲイリーにはクララって許嫁の女の子がいたんですよ。」
「もしかしてあのスタンピードで。」
「ええ。彼は若様に会うまでは自分だけ生き残ったことを悔やんでいましたからね。」
「私に会ってから。」
「ええ。彼は若様と旧領都に行くことをそれは楽しみにしているんですよ。」
「それはクララが眠っているから。」
「ええ。」
「ゲイリーの気持ちは想像するしかありませんが、きっと、若様と王女殿下が仲違いしてほしくなかったのでしょう。」
「どういうことだ?」
「もし、若様が王女殿下に負の感情を持っているならばそれをゲイリーが引き受けようとしたのではないかと思うのです。」
「はあ。ここまでの馬の上でトレーシーがどうだったか、トーマスにもわかるだろう?」
「まあ、ゲイリーの取り越し苦労ですね。」
「奴も苦労が絶えなさそうだ。」
「あ、それとゲイリーにはこの話をしたことは内密にしてくださいよ。バレたら俺が半殺しにされかねない。」
「ああ。それは言わないから心配しなくてもいい。」
そうか。ゲイリーにもそんな過去があったんだなあ。それならば旧領都にはできるだけ早く帰還したいよなあ。
俺は自室としてあてがわれている部屋でお茶を飲みながら取り止めもなく考えていたのだった。
程なくしてトレーシーはライラを連れて戻ってきた。
ヘンリーさんと話がしたいという。
ライラは桑の木をあちこちに植えたいのでその資金を伯爵家に援助して欲しいのだという。
ヘンリーさんは俺にどうですかねえと聞いてくる。
俺は「桑の木を植えることについては私も賛成だから資金援助してもいいと思う。けれども取れたシルクの糸や布については税金をかけるけれどいいかな?」とヘンリーさんに答えた。
ヘンリーさんはニッコリして「良いお考えです。税額はこちらで調整しましょう。」と言ってくれた。
ライラにそのことを伝えるとライラさんもニッコリして「シルクに税金がかかっても王都には高く売れるでしょう。そうすれば領民の収入が増えます。」という。
トレーシーは「ああ、これで憧れのシルクのドレスが着られるようになるかも」と違うことを考えているようだ。
頑張ってこの冬のうちに桑の木を増やせばこの次の年の王都の夜会ではトゥラン領のシルクでできたドレスを着てダンスを踊る令嬢が増えるのかもしれない。
話し合いが終わったところでトーマスがもう午後も遅くなりました。我々は馬ですから早足で行けば夕刻までには渡し場に帰り着けるでしょうと言った。
帰りにはドワイトさんもついてきた。どうやら偵察や巨人退治に参加するつもりのようだ。仲間が増えるのは正直ありがたい。
帰りは馬を早足にした。
トレーシーは「きゃあ怖い。」とまったく怖くなさそうな顔で言いながら俺にしがみついてくる。
夕刻、日が沈む頃にはやっと渡し場に辿り着いた。




