第3話 弘坊、受験と人生の意味を再定義する
医者になることと、人を助けることは同じじゃなかか?
医者になるのは一つの道たい。人を助ける道は、ほかにもあるばい?
第3話 弘坊、受験と人生の意味を再定義する
朝の東京は、まだ眠そうだった。
村井清の部屋に、弘坊がやって来た。いつもの元気がない。
「おいちゃん。俺、医学部受験、もうやめようかな」
村井は湯飲みを置いた。
「ほう。とうとう言うたか」
「笑わないでよ」
「笑っとらんたい。オレは昔、学校ば辞めるたびに『人生終わった』と思うたけんね」
「俺は、落ちるのが怖いんだ。周りはどんどん先に行く。模試の判定、偏差値、順位。毎日数字ばかり見てると、自分まで数字になった気がする」
村井はしばらく黙っていた。
「弘坊、お前は何のために医者になりたい?」
「人を助けたいから」
「それなら、医者になることと、人を助けることは同じじゃなかろうもん」
「え?」
「医者になるのは一つの道たい。人を助ける道は、ほかにもある」
弘坊は黙った。
村井は古びたハーモニカを机の上に置いた。
「オレは医大に入ったばってん、放校になった。世間から見りゃ、完全な失敗たい」
「でもおいちゃん、いまだに医学の本を読んでる」
「好きやけんね。合格証書より、知りたい気持ちのほうが長生きするとたい」
弘坊は笑いかけたが、すぐに表情を戻した。
「でも、競争から降りたら負けじゃない?」
「誰に?」
「社会に」
「社会はお前のこと、そんなに見とらんばい」
「え?」
「みんな自分のことで精いっぱいたい。お前が一日十時間勉強したか、十二時間したかなんて、宇宙から見りゃ誤差たい」
「宇宙から」
「そうたい。ちょっと視点を引いてみろ」
村井は窓を開けた。
青空が広がっていた。
「地球は宇宙船たい。その中で人間が『俺の偏差値が三上がった』『あいつに負けた』って大騒ぎしとる。宇宙人から見たら、みんな同じ地球人たい」
「ずいぶん乱暴な話だね」
「人生は、だいたい乱暴な話たい」
弘坊は吹き出した。
そのとき、頭の中からジミーの声がした。
清、受験制度には競争としての合理性もある。競争そのものを悪者にするのは論理的ではない。
「分かっとるたい」
続いてミカの声。
弘坊ちゃん、競争をやめる必要はないんどす。ただ、自分の価値まで競争に預けたらあかんえ。
「だってさ」
村井が言った。
「受験は人生の一部たい。人生そのものじゃなか」
弘坊はノートを開いた。
そこには、いつものように物理の公式が並んでいる。
量子力学。分子生物学。脳科学。地学。
どれも自分が好きで始めた勉強だった。
「俺、いつから勉強すること自体が嫌いになったんだろう」
「合格するためだけに勉強し始めた頃たい」
「…」
「好きで始めたことが、いつの間にか他人との勝負になる。人生には、そういうことが多か」
弘坊はノートの余白に書いた。
「受験とは、人生の価値を決める試験ではない」
その下にもう一行。
「受験とは、自分が何を知り、何をしたい人間なのかを確かめる旅」
村井が覗き込んだ。
「おっ、偉いこと書いたな」
「おいちゃんが言わせたんじゃない」
「いや、オレは何も言っとらん。オレはただ、人生を何度も落第しただけたい」
「その経験が一番説得力あるんだよ」
二人は笑った。
その日の午後、弘坊は予備校へ向かった。
しかし、いつもとは少し違った。
模試の順位を見る。
怖い。
判定を見る。
やっぱり怖い。
それでも、以前ほど自分を責めなかった。
机に向かい、量子力学の問題を解く。
「知りたい」
久しぶりに、そんな気持ちが戻ってきた。
夜、村井の部屋へ戻ると、村井はハーモニカを吹いていた。
「どうやった?」
「まだ受かってない」
「そりゃそうたい。一日で人生は変わらん」
「でも、勉強する意味は少し変わった」
村井は演奏を止めた。
「それなら上出来たい」
弘坊は窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
高層ビルの灯りも、コンビニの明かりも、遠くの小さな家の灯りも、
みんな同じ夜の中にあった。
弘坊は思った。
人の命を救う医学部に合格したら、人生が始まるのではない。
不合格なら、人生が終わるのでもない。
自分が何を知りたいのか。
何を大切にしたいのか。
どんな人間として生きたいのか。
それを問い続けることこそ、人生なのかもしれない。
「おいちゃん」
「なんたい?」
「おいら、もう一回やってみる」
「おう」
「今度は、人生に合格するためじゃなくて、自分の人生をちゃんと生きるために」
村井はニヤリと笑った。
「それなら、合格発表は死ぬまで先たい」
「また変なこと言ってる」
「人生は長かばい。浪人期間くらい、誤差たい」
弘坊は笑った。
その夜、二人の部屋には、ハーモニカの音と参考書をめくる音が、静かに流れていた。
受験はまだ終わらない。
人生も、まだ始まったばかりだった。
人生に合格するためじゃなくて、自分の人生をちゃんと生きるために生涯勉強するとよ。
合格発表は死ぬまで先たい!
人生は長かばい。浪人期間くらい、誤差たい。




