その名は、ダディ(2)
決して多くない客の視線の殆どが、好奇と共にカウンターの端に座る一人の中年男に注がれていた。脇に置かれた何枚もの空の大皿。男は眼の前の一皿に残っていた最後の一塊を口に入れると、
「おかわり」
の声と共に脇に積み重ねる。
「――はい。これが最後の一皿よぉ」
カウンター内の女が、片手で男の前に巨大な肉塊が乗った大皿を置く。その迫力たるや、とてつもなく分厚くうず高い肉の山脈が、突然眼の前にそびえ立ったようだった――というのは、この時たまたま店に居合わせた客の証言である。
「……最後?」
男は皿を持ち上げようとした手を一瞬止める。
「そ。もう一片たりとも在庫なァしっ! ……そろそろ働かなきゃね。アンタここ一ヶ月、ロクに仕事してないでしょう?」
「仕方ネェじゃん。俺だって仕事したいんだぜ。けど、仕事の方から断ってくるんだから……」
男は軽く鼻息を鳴らすと、両手で皿を持ち上げて自分の前に置き、ナイフを片手に次々と削ぎ落とした肉塊を口に放り込んでいった。その間にも、「大事に喰えよな」とか、「しばらく喰えねぇかもしれないんだから」とか、「うっるせぇ、黙って喰え!」などという呟きがぶつぶつと聞こえてくる。
「ファ、ファンデルホルスさん、ちょっと訊いてもいい?」
それにしても相変わらずのつぶやきっぷりねぇ、と肩をすくめた女に、2人の様子を呆気にとられた様子で見ていた若い冒険者が、声をかけてきた。
「ファーファって呼んで。なァに? お店がハケた後なら、アタシ空いてるわよ?」
「いや、そうじゃなくて——」
その瞬間、女——ファーファの表情と口調が一変した。
「なんじゃい、新しい世界の扉、開けてみようと思わないんかい! なっさけないのぅ、冒険者やろうがワレェッ!」
突然の豹変っぷりに目を白黒させる若者に対し、ファーファは何事も無かったかのように、
「で、なぁに?」
としなりをつくりながら煙草に火を付ける。
「え、えと、その——あ、あれって、ドラゴンの肉……ですよね」
急に丁寧な言葉になった若者が震える指で指したのは、男に既に半分以上咀嚼されてしまった哀れな肉塊。
「だとしたら、相当高価いんじゃあ……」
「そうね」
ファーファは煙を吹き出し、「グラム、2万ヴァールはするわね」
「まじか……」
若者の顎ががくんと下がる。彼の泊まっている安宿が、一泊3千ヴァール。あの肉はどう見ても2、いや3キロはある。もし3キロなら——60万ヴァール!? しかもあの皿の数。
「……あの人、お金持ちなんですか?」
「そう見える?」
「……いえ」
若者は改めて男を眺めると、首を横に振る。この地区に居るのはカネを持たないものと相場は決まっている。冒険者ならば一攫千金の可能性が無くは無いが、現実にそんな事は滅多に無く、あれば一気に噂が広まる筈。だが、男の顔に見覚えは無い。というかそれ以前に——。
「どうして、こんな店にそんな高級肉があるんです? ドラゴンの肉って高級店が独占して、ほぼ出回らないって聞きますけど」
「そうよねぇ、不思議よねぇ」
ファーファは煙草を灰皿に押し潰し、やにわに眉根に皺を寄せて、若者に顔を近付けた。
「こんな店にあるなんて、不思議だよなァ? えぇ? こんな店によォっ!」
若者が真っ青になって、失禁でもするんじゃないかと心配になる位にガタガタと震え始めたその時、入り口の扉の鈴が微かな音をたてた。2人は同時にそちらを見るが、扉は動かない。気の所為か、と思ったその時、再度の鈴の音と共にゆっくりと扉が開き始めた。肉を喰らい続けるカウンターの男を除いた全員が何故か無言で注目する中、扉は鈴が揺れない程にそろそろと動き続ける。ようやく開いた細い隙間から現れたのは……。
「あら、可愛い子猫ちゃん、どうしたの?」
声をかけられてビクッとしたその小さな影は、それでも扉を閉めようとはしなかった。
「あのぅ……こんばん、は。……入っても、大丈夫ですか」
ハンチング帽を被り、全身ずぶ濡れの少年は、上目遣いに尋ねた。ファーファは大仰に両手を広げると、カウンターを指す。
「いらっしゃいませ。一名様? 当店は誰でもウエルカム……っ。どうぞ中へ」
「あ……でも僕汚れてるし、濡れちゃってるんでここで——」
「気にすることないわよォ。この界隈の店に来る客なんかみぃんな、あなた以上にバッチィ奴らばっかりなんだから。それに——」
ファーファの指がパチンと音を立てたと思うと、少年の全身を金色の粒子が包みこんだ。
「ホラ、もう乾いちゃった」
少年は目を丸くして自分の着物を触る。乾いているだけではない。匂いや汚れまで落ちている。これは——魔法!?
視線を上げると、カウンターに肘をついたファーファが片目をつむる。
「だから、気にしないで。流石に、長年のシミまでは落とせなかったしねェ」
ホラどうぞお掛けなさいな、と促されて、半ば呆然としながらスツールに腰をかける。それまで座っていた若者は、逃げるように店から出て行ってしまった。
「——で? ご注文は? ウチはアルコール以外もたっくさんあるから、遠慮なくどうぞ?」
「あ、いえ、その……」
少年は所在なさげにモジモジとしていたが、「あの……お水を、一杯、ください」
「お水ね? ハイ、どうぞ」
「えっ!? こ、これ——」
間髪入れずにカウンターに置かれたのは、透明なガラスのコップに注がれた水。ガラスのコップだけでも普通はあり得ないのに、少年が思わず声を上げたのは、
「こ、氷が入ってる……。ぼ、僕、頼んでませんよ?」
「アラそう? でもウチじゃあコレが普通だから、気にしないでいいわよォ。どうぞ、お上がんなさい」
ひょっとして、この水一杯はかなり高額なのではないか——。そんな悪い予感がしたが、表面に汗をかき始めたコップの魅力には逆らえなかった。両手でしっかりと掴んで持ち上げ、一気に喉の奥へと流し込んだ。




