その名は、ダディ(1)
雨季でもないのに、ここ数日雨が降り続けている。それでもこのダンジョンと冒険者の街、アリス・ヴァールのメイン通りには多くの人が行き交っていた。馬、牛、それに魔獣。様々な動物がけん引する車両が列を成し、その間を縫うように人が駆けてゆく。身分の高そうな人は石畳の歩道を傘を差しながら歩き、そうでない人々はフードを被りつつ、泥をはね上げながらむき出しの地面の上を行く。
そんな中、一人の少年が雨を避けるように建物の間の暗がりでしゃがみ込んでいても、誰も目もくれる者はいなかった。 袖が擦り切れて真っ黒になったシャツに、丈の合っていないズボン。ぐっしょりと濡れたハンチング帽を目深に被っている。一見して、むき出しの地面を行く側の者だとわかる。それに時折目をやる者がとしても、顔をしかめて足早にその場を通り過ぎるだけ。少年は視線を貰う度に少しずつ奥へと引っ込んでゆく。まるで、自分の存在そのものを暗がりの中に消してしまいたい、というように。
ため息をついて上を見上げた少年の鼻の上で、屋根から垂れた水滴が弾け飛ぶ。跳ねた水が目に入って慌てて汚れたシャツの袖で拭った少年は、周囲がさっきより暗くなっているのに気が付いた。もう、日が傾いたのか? ——いや、違う。通り側の正面に誰かが立って、こちらを見ている。逆光になっていて、その表情はわからない。細身の体。ジャケットにパンツ。頭の上で巻き上げられた髪。——女性?
「どうしたんだい、そんな所で」
若いが威厳を感じさせる、凛とした声だ。だが少年には反射的に威圧を感じさせるものでもあった。
「ご、ごめんなさい! すぐ、出ていきますから。あ、怪しい者ではないです。アルマリック商会の者で——み、身分証もあります!」
必死に懐を探るが、目当てのものが中々出てこない。震える手でようやく差し出されたそれを女は受け取って一瞥し、無言で少年へ返す。少年は内心、胸を撫で下ろす。末端の下請けであろうが関係者には違いない。何かあれば商会の名前を出せ、と常日頃から言われていた。が、ここまま何事も無く——と期待していた少年に、女は口を開く。
「まぁ、落ち着きなさい。別に、君を咎めようってわけじゃあないんだ。ただ——私の目には、君が何か困りごとを抱えているように見えてね。それが気になったんだ。……私の勘違いならば、それでいいんだけどね」
図星だった。違います、何でも無いです――と心に無い言葉を出しかけた口は、何度か動いて言葉に鳴らない小さな言葉を発すると、動きを止めてしまう。ほんの少し、訪れた沈黙の時間。それすらも咎められているように感じる少年には、とてつもなく長く感じられた。
「――困っているなら、ここへ行ってみるといい」
女は懐からペンとメモ帳を出すと、何かを書き記して差し出した。手を伸ばす事を躊躇した少年は、女の頷きに促されておずおずとそれを受けとる。見た事が無い位に上質な紙だ。
住所と……地図?
文字が読めて良かった、と思う。
「もし分からなかったら、近くで訊いてみるといい。〈つぶやきダディ〉を捜してるってね」
——何だろう? 人の名前?
「もしそれでもダメなら――こう訊いてごらん」
女の肩が、笑った時のように少し揺れた。「〈ダンジョン探偵〉を捜してます、とね」
◇ ◇ ◇
ダンジョンと冒険者の街、アリス・ヴァール。この街の全体はクレーター状になっており、中央の最深部にダンジョンの入口が存在する。言い伝えによると大昔に巨大な隕石が衝突して地中に埋まり、その隕石の内部がダンジョンになったのだという。アリス・ヴァールという名は、ダンジョンを最初に発見した冒険者の名前に由来し、以来ダンジョン目当てに集まった冒険者が持ち帰る未知の鉱物や、生物からの素材の売買を中心に発展を続け、海が近いという地の利もあって、貿易の一大拠点として名を成していた。
——が、光があれば影も当然存在する。所謂格差、という奴だ。それはつまりカネと権力を持つ者と持たざる者。冒険者の街、と言われているが相応の名声と地位を得ている冒険者はほんの一部にすぎない。最も力を持っているのは、商人だ。騎農冒商。この国で、身分の順番を表す言葉だ。騎士、農民、冒険者、そして、最下層に商人。だが現実には、全く異なる。商人の為に命をかけてダンジョンに潜る冒険者。冒険者の命程、この世で安いものはない。商人の間での共通認識。残念だが、それがこの世界の現実だ。
そして格差は、住む場所に最も露骨に現れる。中央、ダンジョンの近くに最もカネを持たない者たちが暮らし、そこからクレーターの縁に近づく程に生活レベルが上っていく。通常の街とはまるで逆の構成。これも、アリス・ヴァールという街の特徴だ。
そんなダンジョンにほど近い、カネを持たない多くの冒険者達が日々を過ごすD地区。そのQN番地の端にひっそりと佇む一軒のバル。看板には殴り書きのような字で、『ファーファのお店♡』と書いてある。
——物語は、ここから始まる。




