別にホリーネアと別れるつもりはなかったんです
「この愚か者が! 儂が何のためにお前とホリーネア嬢との婚約を結びつけたのだと思っている! ホリーネア嬢ならばお前の手綱を取れると思っていたが、まさかお前が婚約解消を望む馬鹿だとは思わなかったぞ! 一体何を考えているんだ!」
自宅に戻ったマグシットを待っていたのは、顔色を真っ赫にして目を逆立てた父親ゲーンの苛烈な説教であった。
「ちょ! ちょっと待ってください父上! 一体どういうことですか?」
欠片も意図を掴めずマグシットは尋ねると、ウォーエズ子爵は肩を落としてため息をついた。
こちらに向けた両眼は、何かを悟った色を帯びている。先程のにらみが優しく思えるのは、気のせいではあるまい。
「貴様、自分がホリーネア嬢に署名済みの婚約解消書を渡したのを忘れたのか?」
「あ……?」
記憶の引き出しから発掘した過去の出来事。紛れもなく書類を渡した覚えはある。
-ーだが、あれはマグシットにとってはホリーネアに釘を刺しただけ。決して執行を欲しての行為ではない。
「待ってください! あれはそういう意味じゃないんです! ただホリーネアが融通が利かなくて俺の行動にいちいち口出ししてくるから」
「ピピエ男爵令嬢の過剰な接触や、無礼な態度を容認しなかったからか?」
父親が容赦なく切り込めば、息子は口をつぐむ。
「まったく、平民から貴族籍を得た者は他にもいるが、あの小娘ほど酷い輩はいないぞ。婚約者のいる令息にベタベタと触るなんて娼婦の如し振るまいとしか思えん。しかも貴様はそれをよしとしていたそうだな。おまけに貴様もピピエ男爵令嬢もホリーネア嬢に失礼な言動をしていたとは……まったくもって情けない」
「いや、待ってください。あのときの俺は少し考えなしだったかもしれませんが、別にホリーネアと別れるつもりはなかったんです」
「じゃあ、なんでピピエ男爵令嬢を諌めなかった? そもそも貴様、自分の立場がわかっていなかったのか?」
「それはあのときは彼女が平民上がりだから、貴族の生活に慣れていなかったから、あんな態度をとっていたと思っていたんです」
転瞬、ゲーンの眉が跳ねた。
「“あのときは”? 今は違うのか?」
「はい、ピピエ男爵令嬢があんな女だったとは思いませんでした」
マグシットは合宿での一件を話した。
愚痴を多分に含んだ息子の独白を、止めることなく最後まで耳で捕らえていた。
「まさか猫を被っていたとは……最低の女です」
鬱積を乗せた口上を締め、マグシットは息を吐いた。
「……それは本当か?」
重々しく、ゲーンは問いかける。
「はい、あのときはどうなるかと思いましたよ」
語調が高くなるのを隠さず、マグシットは答えた。
父親は息子を見つめる。
「つまり貴様は、婚約者以外の親密にしている女に誘われて騎士科の宿舎を夜抜け出したということだな。それも二人きりで」
ゲーンの声音は硬い。
「あ、でも廃寺での探検みたいな感じでですよ。逢い引きというわけでは……」
「お前がそんなつもりでなくても、周りはどう見るかは別の問題だ。それ以前から、距離感を間違えた付き合いを貴様らはしていたのだろう。ホリーネア嬢は言っていたぞ。『わたしを愛していないのは構いませんが、順序を守ってほしかった』とな」
「順序?」
思いもよらない単語に、マグシットは眉を寄せる。
「つまり……自分と婚約を解消してから、件の男爵令嬢と恋人になるなり、婚約を結んでほしかったということだろう。まさか貴様、貴様が婚約解消を申し出たら、ホリーネア嬢が泣いてすがると思っていたのか? この婚約は儂がゲネラベディ伯爵家に頼み込んで結んだものだぞ。ホリーネア嬢が貴様に惚れて向こうからねじ込んだものだと思っていたのか?」
初めて聞いた要旨を、マグシットは呑み込めない。
自分で言うのもなんだが、マグシットは容姿に恵まれている。周りが麻袋に目鼻をつけた感じの奴らなことを取っ払っても。事実、目を合わせた令嬢が満更でもなさそうな面差しを浮かべたのも、一度や二度ではない。
だからホリーネアも自分目当てに婚約を申し出たと決めつけていたが……
「貴様、考えてもみろ。ゲネラベディ伯爵家は指折りの技術者を抱えている上に鉱山も所有している。鉱山から出る鉱物だけに頼らず、さまざまな穀物や野菜を育て、それを利用して作り上げた品々は王都だけにとどまらず、辺境の村にも届いているそうだ。ゲネラベディ産の酒や紅茶がレストランや酒場だけでなく、王室にも納められているのを知らなかったのか?」
「そんなこと聞いてませんよ」
父親に弱々しく答える息子だが、頭をかすめたものがあった。
仕方なく、本当に仕方なくホリーネアとお茶会をしたときに、紅茶を飲んだのだが、こう言われたのだ。
うちの領地で作られた紅茶ですが、どうでしょうか? と。
そのときにマグシットはこう答えた。
変な匂いがする、と。
-ー実のところ悪くなかったが、誉めるのはシャクだったので。
こんなこともあった。
疲れているから行けないと手紙を送ったら、侍従から何かを渡された。
なんでも疲労回復を促すハーブティーと、ストレッチなる異国の体操を記したノート。
そして、こちらの身を案じる手紙。
マグシットは全部捨てた。
-ーあれ……
マグシットの心臓が高鳴る。
考えてみれば、ホリーネアは表情を崩さないが、こちらがどんなに邪険にしても、不平を隠さなくても、真摯な対応をしてくれたし、気遣ってくれた。
そこに、別の言動が蘇る。
-ーへー、マグシットって婚約者がいるんだ。でも窮屈じゃない? 貴族のお嬢様した令嬢って、はっきり伝えないのがいいみたいな感じなクセに、なんで気づかないのって勝手に怒りそうな感じするじゃん。アタシそういうのが苦手でね-、男と一緒にいる方が楽しいんだ。
そう話したカロンナに、マグシットはホリーネアへの愚痴をしゃべった。針小棒大かつ尾ひれをつけて。そうした方が面白いなんて軽薄な理由で。
真に受けたピピエ男爵令嬢が、ウォーエズ子爵令息の名前を出して、ゲネラベディ伯爵令嬢に文句を言った。しかしホリーネアは顔色一つ変えなかった。
人形みたいで気持ち悪くない?
カロンナの質問にマグシットは述べた。
彼女はいつもあんな雰囲気だから、正直疲れる、と。
ホリーネアを落とせば、空気はますます暖まり、話、いや、悪口で盛り上がった。
「-ー何をぼんやりとしている?」
槌さながらな父親の声音に、息子は我に返った。
「ところでマグシット、まさかとは思うが、貴様は子爵家の三男でゲネラベディ伯爵家に婿入りするつもりだったのを、忘れてはいなかっただろうな? 女伯爵となったホリーネア嬢の伴侶になることを。貴様が伯爵になるわけではないんだぞ」
「え……?」
一瞬、話の中身を脳が受けつけなかった。ホリーネアと結婚したら、自分が伯爵、つまり爵位が上がると勘違いしていただけに、
「-ーそういえば、件の男爵令嬢は長女だが、上に兄がいて、彼が家を継ぐそうだ。つまり嫁入り先を探している可能性は高いな。貴様、自分が家を継げない立場だと男爵令嬢に話したことはあるか?」
ゲーンの容赦ない口撃に、マグシットは息を呑んだ。
ホリーネアが婚約者だと告げたが、自分が婿入りするとは伝えていない。だとすれば、ホリーネアから奪って自分が後釜に……なんて卑怯な方策に手を染める説が固まってきた。
まさか……それ目当てですり寄ってきたのか?
「……せめてもの情けだ。学園を卒業するまでは家に置いてやる。だが、そのあとは自分で考えろ」
父親の発言は、今までになく冷淡であった。




