第7話「その薬、もう祝福ではありません」
グランハイム侯爵家の広間に、王立薬事監察官の靴音が響いた。
ガレス・ベルフォートは銀髪を短く刈り込んだ壮年の男で、口元に笑みも険しさもない無表情のまま、広間の中央に立った。その後ろに、エリアス院長と、私と、マルテ先生と、フィーネが並んでいる。
向かい側にはヴィクトール様がいた。身支度を整えて、いつもの余裕のある笑みを浮かべている。その隣にセレーナ様。少し後ろに、侯爵オスカー様が腕を組んで立っていた。
「何かの間違いでしょう、監察官殿」
ヴィクトール様が最初に口を開いた。声は穏やかだが、目が笑っていない。
「当家の祝福薬は長年にわたって貴族の皆様にご愛顧いただいております。品質に問題があるなどと——」
「グランハイム侯爵家から出荷された祝福薬を服用した方のうち、現時点で三名から体調不良の申し出があります」
ガレス監察官が静かに遮る。感情の読めない声だった。
「本日は、その原因を確認するために参りました。まず、当家で祝福薬の調合を担当されていた方にお話を伺いたい」
ヴィクトール様の視線が私に向く。一瞬だけ目が揺れたが、すぐに笑みを取り繕った。
「ああ、リーシェですか。彼女はもう当家にはおりませんよ。自分の意思で出て行ったんです。薬に問題があるとすれば、それは彼女が調合したものですから、彼女に——」
「では、お聞きします」
ガレス監察官が私に向き直る。広間の視線が集まる中、私は一歩前に出た。膝が少しだけ震えたが、隣にマルテ先生の気配がある。大丈夫。
「フォーレスト嬢。あなたが調合した祝福薬は、どのような条件で作られたものですか」
「……祝福薬は、祝福の涙から生まれます。祝福の涙とは、本人の自由な意思と祈りから流れる涙のことです」
ここまでは声が出た。でも次の言葉を口にする前に、マルテ先生が一歩前へ出た。
「監察官殿。僭越ながら、私が補足してもよろしいでしょうか。私はグランハイム侯爵家に二十年仕えた薬師でございます。この方が調合室で何をされていたか、つぶさに見ておりました」
ガレス監察官が頷く。先生は背筋を伸ばして、静かに語り始めた。
「リーシェ様は、泣かされて薬を作っておりました。ヴィクトール様がリーシェ様を精神的に追い詰め、涙を流させ、その涙を薬の材料として搾取していたのです。リーシェ様が体調を崩していても、目元が腫れていても、追加の薬を要求されました。『君なら平気だろう』と」
ヴィクトール様の笑みが消えた。
「それは誤解だ。俺は彼女に泣けと命じたことはない。彼女が勝手に——」
「お言葉ですが」
今度はフィーネだ。小さな身体で一歩前に出て、震える声で、けれどはっきりと口を開く。
「私はリーシェ様の侍女として、毎日おそばにおりました。ヴィクトール様は直接『泣け』とはおっしゃいません。けれど、わざとリーシェ様を傷つける言葉を選んで、追い詰めて、涙が出るように仕向けていらっしゃいました。『君は丈夫だから』『君なら平気だろう』と笑いながら。リーシェ様が目を腫らしていても、体調を崩していても、薬の追加を求められました。一度たりとも、『休んでいい』とはおっしゃいませんでした」
フィーネの声が震えている。けれど目は真っすぐにヴィクトール様を見ている。あの屋敷で棚の影に隠れて拳を握っていた少女が、今、公の場で口を開いている。
「そしてセレーナ様は、リーシェ様が泣いているのを見て笑いました」
一拍、間を置いて、フィーネが続ける。
「『泣けば役に立つのだから、便利ね』と」
広間の空気が凍った。
セレーナ様の顔から血の気が引いていく。名前が出た。自分の発言が、証人の口から公的な場で繰り返された。ヴィクトール様がセレーナ様を見る。助けを求めるように。
セレーナ様は一拍の沈黙の後、ヴィクトール様から半歩離れた。
「……私は、薬のことは何も存じません。全て、ヴィクトール様のご判断です。私はただ、そばにいただけで」
ヴィクトール様の顔が凍りついた。
泣けば役に立つと笑ったのはお前だ。お前のためにリーシェを——そう叫びたいのが顔に出ていた。けれど声にならない。セレーナ様はもう目を合わせようとしない。自分がリーシェを追い出してまで選んだ女が、最初の危機で背を向けている。あれほど「あなたのそばにいたい」と甘えていた唇が、今は「私は関係ない」と形を変えている。
「セレーナ……っ」
「『泣けば役に立つ』とおっしゃったのは事実ですか、セレーナ様」
ガレス監察官の声に、セレーナ様の肩がびくりと跳ねた。
「……そのような言い方をしたかもしれません。でも、冗談のつもりで——」
「冗談かどうかは問題ではありません。搾取が行われていた環境の一部であったかどうかが問題です」
セレーナ様の唇が引き結ばれる。もう何も言えない。逃げ場を探す目が泳いでいるが、広間の誰も手を差し伸べない。
ヴィクトール様が声を絞り出した。
「……俺は頼んでいない。あの女が勝手に泣いていただけだ。俺は、何も悪いことは——」
「では」
エリアス院長が、初めて口を開いた。
棚から持ち出してきた小瓶を一つ、光に翳す。中の液体は濁った茶色に変わりかけている。かつて琥珀色に輝いていた祝福薬の成れの果てだった。
「この薬は、グランハイム侯爵家の棚から回収されたものです。服用した方に健康被害が出ています」
院長はもう一つ、別の小瓶を取り出した。こちらは澄んだ青い光を湛えている。私が王立医療院で、自分の意思で作った祝福薬だ。
「こちらは、フォーレスト嬢が自由意思のもとで調合した祝福薬です。色の違いをご覧ください。祝福薬は、本人の自由な意思と祈りがなければ正しく生成されません。強制された涙から作られた薬は、時間とともに毒性を帯びます。これは五十年前から知られている薬学的事実です」
二つの小瓶が並んでいる。片方は濁り、片方は澄んでいる。同じ人間の涙から生まれたものなのに、これほど違う。
「この薬は、もう祝福ではありません」
その一言が、広間の空気を断ち切った。
ヴィクトール様の膝が震え始めている。薬がない。愛人は逃げた。証人は二人。小瓶は目の前で濁っている。「俺は頼んでいない」と言い張っても、「追い詰めて泣かせていた」という証言がある。言い訳が一つずつ潰されていく感覚は、足元の石畳が一枚ずつ剥がれていくのに似ているだろうか。ヴィクトール様の目が、広間を泳いでいる。誰かを探している。庇ってくれる誰かを。けれど目が合う人間は一人もいない。
「ヴィクトール」
背後から、重い声がした。父、オスカー侯爵だった。腕を組んだまま、息子を見下ろしている。
「……お前は、何をしたか分かっているのか」
「父上、これは誤解です。俺は——」
「誤解ではない。お前の薬師が証言し、お前の侍女が証言し、お前の愛人が逃げた。これ以上、何を言えるのだ」
ヴィクトール様の顔から最後の色が消えていく。
父に見放される。この家の跡取りとして、家名と爵位に守られてきた自分が、その家から切り捨てられようとしている。広間にいる使用人たちは誰も目を合わせない。ホルストは壁際で息を殺し、侍女たちは俯いている。ヴィクトール様の手が、ぶるぶると震えている。拳を握ろうとして握れない、力の入らない指。あれほど自信に満ちていた声は消え、代わりに喉の奥から小さな音が漏れている。言い訳の残骸のような、途切れた息だった。
セレーナ様に裏切られた時、ヴィクトール様は怒っていた。けれど父に見放された今、あの人の目にあるのは怒りではない。何が起きているのか理解しきれない人間の、空白のような顔だ。自分は間違っていないと信じていた。リーシェは泣くだけの女で、代わりはいくらでもいて、セレーナこそが自分にふさわしい相手で、父は何があっても息子を庇うものだと思っていた。その全てが、今日この広間で、一つ残らず砕けている。
エリアス院長がヴィクトール様に向き直る。
「泣けば役に立つ、でしたか」
静かな声だった。
「では、もう誰も泣かないこの家に、何が残りますか」
ヴィクトール様は答えられなかった。口を開きかけて、閉じて、もう一度開いて、何も出てこない。「君なら平気だろう」と笑っていた唇が、「泣かないのか」と不思議がっていた声が、今は自分自身のために何の言葉も紡げない。薬もない。愛人もいない。父は背を向けた。信用は崩れた。泣かせる相手を失って初めて、あの人は自分がどれほど何も持っていなかったかを知ったのだろう。
ガレス監察官が最終的な判断を告げた。グランハイム侯爵家に対する製薬の即時停止、流通した薬の回収命令、被害者への賠償に関する査問の開始。爵位に関わる処分は別途、王宮で審議される旨も伝えられる。
私は広間を出た。
背後で「待ってくれ、リーシェ」とヴィクトール様が叫ぶ声が聞こえる。あの声を聞くのは、これが最後だろう。泣かせれば戻ってくると思っていた人の声が、もう誰にも届かない場所から響いている。
門の外に出ると、秋の空が高い。冷たい風が頬を撫でて、涙の跡も残っていない乾いた肌にそっと触れた。泣いていない。今日、私は一度も泣かなかった。
振り返らない。もう、あの人のために振り返る理由は、どこにもなかった。




