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「泣けば役に立つ」と笑った婚約者へ――その薬、もう祝福ではありません  作者: 九葉(くずは)


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8/8

第8話「祝福は、自分で選んだ人にだけ宿る」

 薬草園のルナリス草が、冬の朝露に青く光っている。


 査察から三週間が過ぎて、季節は秋の終わりから冬の入り口に差しかかっていた。王立医療院の研究室は朝が早い。陽が昇る前から薬草庫の温度を確認し、乾燥棚の状態を見て、その日の調合計画を頭の中で組み立てる。誰に命じられたわけでもない。「泣け」とも「急げ」とも言われない朝に、自分で決めた手順を自分の判断で進めていく。その当たり前のことが、三週間経った今でも時々、不思議な新鮮さを持って胸に触れる。


 朝の調合室には、薬草の青い匂いが満ちていた。あの屋敷の調合室と似た匂いのはずなのに、息苦しさがない。香水の残り香も、背後から近づく靴音の気配もない。ただ薬草と、石壁と、朝の光があるだけの場所で、私は薬を作っている。


 今日の調合は、院の入院患者に届ける鎮痛薬だった。ルナリス草を主材にした処方で、母が得意にしていた薬だ。乳鉢に薬草を入れて擂粉木で丁寧にすりつぶしていく。使っているのは院の備品で、母の形見のようななじみはまだない。けれど手が覚えている動きは同じで、薬草が細かくなっていく感触を指先に感じるたびに、自分が薬学者であることを確認できる。


「フォーレスト嬢」


 振り向くと、エリアス院長が研究室の入り口に立っていた。いつもの白衣、いつもの銀縁眼鏡。けれど今日は片手に何かを抱えている。布に包まれた、少し重そうなもの。


「少しお時間をいただけますか。二つ、お話があります」


 院長が向かいの椅子に腰を下ろして、まず一つ目を切り出した。


「あなたが侯爵家時代に独自に開発していた品質管理の手法を、当院の標準手順として採用したいと考えています。そして、その手法を学会で発表する論文を準備しています」


「……論文、ですか」


「ええ。著者名は、あなたの名前です」


 一瞬、意味が分からなかった。私の名前。リーシェ・フォーレストの名前で、学会に論文が出る。あの屋敷では、どれだけの薬を作っても私の名前が表に出ることは一度もなかった。全ては「グランハイム侯爵家の祝福薬」で、薬の価値はあっても作り手の名前は消えている。泣くたびに搾り取られた涙が利益を生んでも、それは「侯爵家の薬」であって「リーシェの薬」ではなかった。


「あなたの研究です。あなたの名前で世に出るべきだと思います」


 院長の声は淡々としていた。大きなことを言っている意識がないのだろう。この人にとっては当然のことを当然に言っているだけなのだ。研究をした者の名前が論文に載る。ただそれだけの「当然」が、これまでの私にはどれだけ遠かったか。


「ありがとう、ございます」


 声がかすれた。院長は聞こえなかったふりをして、少し間を置いてから、抱えていた布包みを机の上に置く。


「二つ目は、こちらです」


 布を解くと、中から古い真鍮の乳鉢と擂粉木が現れた。


 息が止まった。


 母のものと同じだ。同じ時代の、同じ型の、使い込まれた真鍮の調合器具。握りに巻かれた革紐の太さまでよく似ている。母の手に馴染んでいたあの器具そのものではない。けれど、同じ時代を生きた薬学者が同じように使い込んだ道具の記憶が、真鍮の表面に刻まれている。


「同じものは見つかりませんでした。ただ、あなたの母上が使っていたものと同じ年代に作られた器具が、古物商に一組だけ残っていたので。よければ使ってください」


 院長の声が少しだけ早口になっている。普段の簡潔さが崩れているのは、これが業務の話ではないからだろう。探してくれたのだ。私が一度だけ話した母の形見のことを、覚えていた。壊されたと聞いて、同じ型の器具を方々の古物商に問い合わせて回ってくれた。何も言わず、頼まれてもいないのに。


 乳鉢に触れた。冷たい真鍮の感触が指先に伝わる。母のものほどの手馴染みはまだない。けれどこの器具を長い年月使い込んだ誰かの手の跡が、真鍮の内側にうっすらと残っている。母と同じように、誰かの痛みを和らげるために薬草をすり続けた、どこかの薬学者の手の跡だ。


 涙が落ちた。搾り取られたのではない涙。悲しみでもない涙。母の記憶と、探してくれた人の心遣いと、自分がここにいることの確かさが、全部一緒に胸の中から溢れてきて、止められなかった。


 院長がそっと手巾を差し出しかけるのが、視界の端に見えた。あの日と同じ、薬草の香りがする白い手巾。けれど私は首を振って、小さく笑った。


「この涙は、拭かなくていい涙です」


 院長の手が止まる。一瞬だけ目を瞬いて、それから「……そうですか」と、ほんの少しだけ口元をゆるめた。この人が笑うのを見るのは初めてかもしれない。ぎこちなくて、けれど温かくて、その笑顔が見られただけで、この乳鉢を受け取ってよかったと思えた。


         *


 午後、調合した鎮痛薬を患者の病室に届けに行く途中で、フィーネとすれ違った。


「リーシェ様。グランハイム侯爵家のことですけれど」


「ええ」


「ヴィクトール様は爵位の継承権を停止されたそうです。賠償の査問もこれからで、セレーナ様はもう屋敷にはいらっしゃらないとか」


「そう」


 それだけ答えて、窓の外に目を向ける。感慨がないわけではない。かつてはあの人の笑顔が世界の全てだった時期もあるのだ。けれど今は、あの人たちのことを考える時間が、私の中にはもうあまり残っていなかった。考えるべきことは他にある。今日の患者の容態、明日の調合計画、来週に迫った学会の発表準備、そして院長に渡された論文の原稿。自分の名前が入った原稿の束。自分の仕事で埋まっていく毎日が、こんなにも静かで、こんなにも確かなものだとは知らなかった。


         *


 夕暮れの研究室で、新しい祝福薬の調合を終えた。


 朝から準備していた薬草を丁寧にすりつぶし、温度を整え、祈りを込めて涙を落とす。今日の涙は、搾り取られたものではない。この薬を待っている患者のことを思って、自分の意思で流した涙だ。助けたいという気持ちが胸の中にあって、その気持ちが涙になって、薬になる。それだけのことが、こんなにも穏やかで、こんなにも確かだとは知らなかった。


 小瓶に詰めた薬を窓の光に翳すと、澄んだ青い光が瓶の中で静かに揺れている。あの屋敷で作っていた薬とは、まるで違う色だった。濁りがない。曇りがない。搾り取られた涙ではなく、自分が差し出したいと願って流した涙から生まれた祝福。瓶の中の光は穏やかで、温かくて、この薬を受け取る誰かの痛みを和らげてくれるだろうと信じられる色をしている。


 小瓶を棚に並べようとした時、研究室の扉が開いた。


「フォーレスト嬢」


 エリアス院長だった。白衣の襟元が少しだけ乱れていて、珍しく右手が所在なさそうに宙を彷徨っている。


「あの……一つ、お伝えしたいことが」


 院長の声がいつもと違う。簡潔さが消えていて、言葉を探しているのが分かる。


「あなたに、これから先もここで一緒に研究を続けてほしいと思っています。薬学者として」


「……はい」


「そして、できれば」


 院長の耳がほんのりと赤い。眼鏡の奥の目が私の顔をまっすぐ見て、それからわずかに逸れて、また戻ってくる。この人がこんなに落ち着かない姿を見せるのは初めてだった。査察の場であれほど冷静に事実を告げた人が、今はたった一言の続きを口にできずにいる。


「……それだけではなく」


 そこで止まった。院長の口元が「うまく言えない」という形に結ばれて、頬がじわじわと色づいていく。無理もない。この人は論文の言葉なら何万語でも紡げるのに、こういう種類の言葉には慣れていないのだ。


 私は笑った。


 自然に、柔らかく、何の理由もなく笑えたことに自分で少し驚く。搾取者の前では絶対に見せなかった笑顔が、自分の奥から温かいまま生まれてくる。怖くない。この人の前では、笑うことに許可がいらない。泣くことにも、笑うことにも、値段はつかない。ここではどちらも、ただ私のものだ。


「それだけではなく?」


 聞き返すと、院長はいよいよ言葉に詰まって、眼鏡を直すふりをしながら視線を棚の小瓶に逃がした。


「……もう少し時間をください。うまく言えないので」


 棚の上で、新しい祝福薬が青い光を静かに湛えている。


 その光の中で、私は知った。答えを急がなくていいと思えること。この人の隣で笑っていられること。自分の名前で薬を作り、自分の意思で涙を流し、自分で選んだ場所にいること。


 それが、たぶん、祝福というものなのだ。

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