第6話「沈黙を止めた人たち」
秋の風が窓を叩く朝、王立医療院の受付にグランハイム侯爵家の従者が現れた。
私が薬草庫で分類作業をしていると、フィーネが息を切らせて駆け込んできた。
「リーシェ様、侯爵家からお使いの方が。ヴィクトール様の伝言だそうです」
伝言。手紙ではなく、口頭の伝言を従者に持たせてきたらしい。受付で待っていた従者は、侯爵家に仕えて長い初老の男で、申し訳なさそうに目を伏せながら言った。
「ヴィクトール様からの伝言でございます。——お前が出て行ってから薬の苦情が止まらない。お前が調合した薬なのだから、責任を取って戻れ。さもなければ、お前が何か細工をしたと公言する」
言い終えた従者の耳が赤い。伝えるのが辛い内容だと分かっている顔だった。
「……お伝えいたします。お戻りする意思はございません。以上です」
従者が深く頭を下げて去っていった。重い足取りだった。あの人もきっと、この伝言を伝えることが本意ではなかっただろう。侯爵家の使用人たちは、私がどう扱われていたか知っていたはずだ。知っていて、何も言えなかった人たちだ。
フィーネが拳を握りしめている。
「細工だなんて……リーシェ様が薬に手を加えるわけがないのに! あの方は、いつもそうです。都合が悪くなると全部リーシェ様のせいにして」
「分かっているわ。でも、あの方はそう思いたいのよ。自分の判断が間違っていたと認めるよりも、私のせいにした方が楽だから」
声に出して言ってみると、不思議と冷静だった。あの屋敷にいた頃なら、ヴィクトール様の怒りが怖くてたまらなかったのに。ここにいると、あの人の言葉が遠い。距離ができたからではなく、もう「あの人に認められたい」という気持ちが消えたからだと思う。
「ねえ、フィーネ」
「はい」
「もし、あの屋敷で見たことを誰かに話す機会があったら……話してくれる?」
フィーネの目が大きく見開かれて、それからゆっくり、強く、頷いた。
「最初から、そのつもりでした。あの屋敷で、リーシェ様がどんなふうに泣かされていたか。セレーナ様が何と言って笑ったか。ヴィクトール様がどんな顔でそれを見ていたか。全部、覚えています。忘れるものですか」
フィーネの声が震えている。けれどその震えは、怯えではなく怒りから来るものだった。あの屋敷で棚の影に隠れて拳を握っていた少女が、今、自分の意思で口を開こうとしている。
*
その日の午後、院に思わぬ来客がある。
エリアス院長の執務室に通されたのは、ケーニッヒ男爵夫人だった。私も同席を求められて部屋の隅に座っていたが、扉が開いた瞬間に男爵夫人の異変に気づく。顔色が悪い。唇の血色が薄く、手が微かに震えていて、侍女に支えられるようにして椅子に腰を下ろした。
「先月、グランハイム侯爵家から頂いた祝福薬を服用してから、体調が優れないのです。以前は同じ薬で冷えが和らいだのに、今回はかえって身体が重くなって。同じことを感じているご婦人が、私の知る限りあと二名ほど」
三名。あの棚の薬を受け取った人のうち、少なくとも三名に異変が出ている。
院長が丁寧に症状を聞き取っていく。いつ服用したか、何瓶飲んだか、以前の祝福薬との違いは。男爵夫人は一つずつ答えながら、持参した小瓶を差し出した。
院長が受け取って光に透かす。私にもその色が見えた——あの小瓶の中身が、変わっている。以前は澄んだ琥珀色だったはずのものが、沈んだ茶色に濁りかけていた。祝福の色ではない。あの屋敷の棚で美しく光っていた薬が、今はくすんだ液体に変わりつつある。
私が作った薬だ。私の涙から生まれた薬が、祝福ではなくなっている。
「院長、その薬は——」
「ええ」
院長は短く頷いて、男爵夫人に向き直った。
「男爵夫人、当面この薬の服用をお控えください。当院で検査を行います。また、同じ症状のお知り合いがいらっしゃれば、服用を止めるようお伝えいただけますか」
「ええ、もちろん。でも、グランハイム侯爵家の祝福薬は評判がよろしかったのに……何が変わったのでしょう」
男爵夫人は不思議そうに首を傾げている。何が変わったのか。薬を作っていた人間が去ったのだ。いや、違う。その人間が去る前から、薬はすでに壊れ始めていた。搾り取られた涙が祝福でなくなった時から。
男爵夫人が帰った後、院長は濁った小瓶を手の中で回しながら言った。
「フォーレスト嬢。この変質は、あなたが見つけた論文の仮説と一致しています。自由意思を欠いた涙から生まれた祝福薬は、時間とともに毒性を帯びる。仮説ではなく、被害者が目の前に現れました」
「……はい」
「王立薬事監察官に報告します。製薬の問題であると同時に、人の健康に関わる問題です。これ以上、あの棚の薬が出回ることは止めなければならない」
院長の声は淡々としているが、小瓶を握る手に力がこもっている。この人の怒りは静かだ。声ではなく、手に出る。
*
夕刻、院の待合にもう一人、私を訪ねてきた人がいた。
マルテ先生だった。旅装のまま、小さな鞄を膝に抱えて長椅子に座っている。侯爵家からここまで馬車で半日はかかるのに。
「先生……!」
「お嬢様。お元気そうで、何よりです」
穏やかに笑ったが、目の奥には覚悟の色がある。私を隣に座らせて、先生は静かに言った。
「お嬢様。今朝、侯爵家の従者がここに来たことは、屋敷でも噂になっております。ヴィクトール様があなたのせいだと言い触らしていることも。……私は、もう黙っていられません」
「先生」
「あの家であなたがどう扱われていたか、私は全て見ておりました。ヴィクトール様があなたを泣かせるために何をおっしゃったか。セレーナ様がどのような言葉を投げたか。あなたが唇を噛んで声を殺していたことも。日付も場面も、この頭に残っております」
先生は自分のこめかみを指で軽く叩いた。記録帳ではない。この人の記憶だ。何年もの間、あの屋敷で私の隣にいて、黙って見ていた人の記憶。
「もし然るべき場が設けられるなら、私はそこで証言いたします。あの方々がお嬢様に何をしたか、一つ残らず」
「先生、でも、そうしたら先生のお立場が。侯爵家にお仕えのまま、あの家に不利な証言をすれば——」
「お嬢様」
先生の皺だらけの手が、私の手を包む。薬草の匂い。乾いた温かさ。幼い頃に調合を教わった時と何も変わらない。
「私はあなたが泣かされるのを、何年も見ていました。止めたくても、あの家では薬師の分際で口を出せる立場にはなかった。それがずっと、ずっと心残りで」
先生の声が一瞬だけ掠れて、すぐに戻る。
「せめて、あの日々のことを正しく語ることくらいは、この老骨にさせてください。立場など、もうよいのです。お嬢様が自由に薬を作れる場所を見つけたのなら、私も自由に口を開く時が来たということです」
頷くことしかできなかった。先生の手の温かさが、あの屋敷で一人きり涙を拭っていた日々に、ずっとそばにあったものだと今更のように気づく。この人は沈黙していたのではない。語るべき時を待っていたのだ。
*
翌日、エリアス院長が王立薬事監察官ガレス・ベルフォートのもとへ向かった。
濁った小瓶の現物、男爵夫人の証言の概要、そして侯爵家の従者が伝えてきたヴィクトール様の脅迫まがいの伝言。院長が持っていったのは紙の束ではなく、人と物が語る事実の積み重ねだ。
夕刻、院長が戻る。研究室の扉を開けた院長の顔を見て、答えは聞くまでもなかった。
「公式査察が決定しました。三日後、ガレス監察官がグランハイム侯爵家に入ります。フォーレスト嬢、あなたとマルテ殿には証人として同席をお願いします」
「……分かりました」
「無理に言葉にしなくて構いません。マルテ殿とフィーネが語ってくれます。あなたは、そこにいるだけでいい」
そこにいるだけでいい。
ヴィクトール様には「泣け」と言われ、セレーナ様には「便利ね」と笑われてきた。いつも何かを差し出さなければ、あの屋敷に居ることすら許されなかった。なのにこの人は、何も差し出さなくていいと言う。いるだけでいい、と。
その違いの意味が、胸の奥深くにゆっくり沁みていく。言葉にはできない温度で。
窓の外では、秋の陽が薬草園を赤く染めている。
王立薬事監察官の封蝋が押された書状が、グランハイム侯爵家の門を叩くのは、三日後のことだった。




