第5話「代わりはいる、と言ったのに」
薬師を三人雇って、二週間が経った。
どいつもこいつも使えない。一人目は祝福の涙の話をした途端に「それは持ち主固有の体質ですので、他者には再現できません」と匙を投げた。高い報酬を払っているのに、試す前から諦めるとは何事だ。二人目は少しだけ真面目で、代替の薬を調合しようと試みたが、あの独特の澄んだ色がどうしても出ないと言って三日で首をひねるばかりになった。「配合は合っているはずなのですが、何か見えない工程があるようです」と言い残して辞めていった。見えない工程。リーシェが毎日何時間もかけてやっていた品質管理のことだろうが、そんなものは大した手間ではないはずだ。
三人目に至っては、調合室に入って棚の小瓶を見た瞬間、「この薬、管理者はどなたでしたか。相当の腕ですね」と呟いて、俺の顔をまじまじと見た。余計な感想はいらない。薬を作れるのか作れないのか、それだけ答えればいい。結局、三人目も「祝福薬の調合には、涙の採取だけでなく高度な品質制御の技術が必要です。前任者の方は、かなりの専門知識をお持ちだったのでは」と言って帰っていった。
代わりの薬師を雇えばいい。そう思っていたのに、三人が三人とも同じことを言う。品質制御、専門知識、見えない工程。リーシェがやっていたのは泣くこと以外にもあったのだろうか。
——いや。あいつらが無能なだけだ。もっと腕のいい薬師を探せばいい。
「ヴィクトール様」
セレーナが書斎に入ってきた。最近は少し機嫌が悪い。リーシェが出ていってから、祝福薬の新しい在庫が作れなくなったせいで、取引先への贈り物に困っているらしい。
「ねえ、私が泣いたら薬になったりしないかしら。祝福の涙って、涙でしょう? 私だって泣けるわ」
馬鹿なことを、とは思ったが、他に手がないのも事実だった。調合室でセレーナに泣いてもらい、その涙を器に受けてみる。セレーナは目を赤くしながら涙を絞り出して、「ほら、泣いたわ」と得意そうに言った。三人目の薬師に調合を任せたが、結果はただの塩水だった。何度繰り返しても、小瓶の中に澄んだ色は生まれない。
「……あの女が特別なだけよ」
セレーナが唇を噛んで言い捨てた。涙を流した後の顔が崩れていて、普段の美しさが台無しになっている。特別。その言葉が胸の底に引っかかって取れない。リーシェは特別だったのだろうか。泣くだけの女だと思っていたのに、三人の薬師が来ても代わりが務まらないとなると——いや、そこまで考えたくない。代わりはいると俺は言った。あの判断は正しかったはずだ。
そこへ、執事のホルストが苦い顔で報告を持ってきた。
「ヴィクトール様、ケーニッヒ男爵家から書状が。先月お届けした祝福薬について、『以前と効きが違う。服用後にかえって体調が優れない』と」
「保管が悪かっただけだろう。丁重に返事を書いておけ」
「しかし、同様の申し出がベッカー子爵家、それからフォルスト伯爵家からも届いております。三件目です」
「保管の問題だと言っている」
声が大きくなったのは自覚している。ホルストが一歩退いた。けれど認めるわけにはいかない。リーシェが出て行ったせいで薬に問題が出ているなどと認めたら、あの女を手放した判断そのものが間違いだったことになる。俺は間違っていない。間違っているのは無能な薬師どもと、自分勝手に出て行ったリーシェの方だ。
セレーナが不安そうにこちらを窺っている。その視線が煩わしかった。お前のために俺はリーシェを——いや、やめよう。考えても仕方がない。
棚にはまだ在庫がある。リーシェが作り置いた小瓶が数十本。あれを売っていけば、当面は凌げるはずだ。あの薬さえあれば大丈夫。あの美しい小瓶の中身が変わるはずなど、ないのだから。
ふと、調合室の棚を見上げた。琥珀、薄青、乳白。リーシェがいた頃と同じ並びのはずなのに、なぜか光の加減が違う気がする。気のせいだろう。きっと、気のせいだ。
*
王立医療院の書庫は、天井まで本が積み上がった静かな場所だった。
研究員として働き始めて二週間。私は毎日、調合業務の合間に書庫へ通っている。エリアス院長が「興味があるなら自由に使ってください」と言ってくれたこの書庫には、侯爵家では絶対に手に入らなかった専門書や学術論文が山のように収められていた。
その日、私は古い学術論文の束の中から、ずっと探していた一篇を見つける。
「祝福薬の生成条件に関する考察」——五十年前に当時の王立医療院研究主任が発表した論文だった。表紙は日に焼けて黄ばんでいるが、中の文字ははっきり読める。黄ばんだ紙に刷られた文字を追いながら、指先が冷たくなっていく。
——祝福薬は、本人の自由意思と真摯な祈りから生成される。外的な強制、精神的圧迫、または恐怖の下で採取された涙からは、正常な祝福薬は生まれない。強制下で生成された薬は、時間の経過とともに薬効が反転し、微弱な毒性を帯びる可能性がある。
論文を持つ手が震えた。
私は自分の調合記録の写しを鞄から取り出して、論文の横に並べた。搾取されていた時期の薬——「精神的圧迫下での採取」と書き添えた日の品質データを、一つずつ確認していく。安定度が低い。色味の数値が微妙にずれている。同じ配合、同じ手順なのに、自由意思で泣いた日の薬とは明らかに違う結果が出ている。当時は自分の技術不足か体調のせいだと思っていたが、違う。私の技術ではなく、採取の条件そのものが薬の質を歪めていたのだ。
頁をめくるたびに、あの調合室の記憶が蘇る。ヴィクトール様に「もっと泣け」と言われた日。セレーナ様に「便利ね」と笑われた日。唇を噛みながら涙を絞り出して、震える手で調合した日。あの日々に作った薬が、もし本当に毒に変わっているのだとしたら——あの屋敷の棚に並ぶ美しい小瓶の中身は、今この瞬間にも変質し続けているのかもしれない。
「フォーレスト嬢」
顔を上げると、エリアス院長が書庫の入り口に立っていた。私の手元の論文と調合記録に視線を落として、何を見比べていたかはすぐに理解したのだろう。院長の表情が僅かに硬くなる。
「院長、少しご相談があります」
「どうぞ」
「あの家に残してきた祝福薬が……もし、この論文の通りに変質していたとしたら、服用した方々に健康上の影響が出るかもしれません。私は、それを知っていながら放置していいのでしょうか」
自分の声が揺れているのが分かった。責任を感じている。あの薬を調合したのは私の手だ。搾取されていたとはいえ、薬草を刻み、温度を測り、小瓶に詰めたのは私だ。もし誰かの体調が悪化しているのだとしたら——
「フォーレスト嬢」
院長の声は静かだったが、揺るぎがない。
「あなたの責任ではありません」
その一言が、胸のどこか深い場所に届いた。あの屋敷では何が起きても「お前のせいだ」と言われ続けてきた。泣けなければ薬が作れないのはお前の怠慢だ、品質が落ちたのはお前の腕が悪いからだ、出て行くなら薬の責任を取れ。自分のせいだと思い込むことに慣れすぎて、「あなたのせいではない」と言われる日が来るとは思っていなかった。
「仮定ではなく、検証しましょう。あなたの調合記録と、この論文のデータがあれば、王立医療院として正式な調査を検討できます」
院長は論文を手に取って頁を確認しながら、淡々と続ける。感情的な慰めではなく、科学者としての手順を示してくれている。それが今の私にはありがたかった。
「ただし、あなたが証言する必要はありません。記録が語りますから」
記録が語る。マルテ先生が写しを持てと言った意味が、ここで一本の線になって繋がった。あの調合記録は、私の技術の証明であると同時に、あの家で何が行われていたかを数字で語る証拠でもある。先生はそこまで見越して、私に持たせてくれたのだ。
窓の外に夕暮れの光が差して、古い論文の紙を金色に染めている。書庫には紙とインクの匂いが満ちていて、その下にかすかな薬草の香りが混じる。院長が論文を丁寧に元の場所に戻す横顔を見ながら、ふと思った。この人は記録を受け取ったあの日から、搾取の痕跡に気づいていたのかもしれない。数値の揺れの意味にも。それでも問い詰めるのではなく、私が自分の足でここに辿り着くのを待っていてくれた。
あの棚に並ぶ美しい小瓶の中で、祝福は、もうとっくに死んでいたのかもしれない。




